序章 二〇一二年十一月二十日
二〇一二年十一月二十日、セルビアの日刊紙は、ザロジェ村に残されていた古い水車小屋が崩れたと報じた。
崩壊したのは石造りの記念碑でも、国が管理する文化財でもない。
ロガチツァ川の暗い谷に建つ、板壁と木の梁でできた小さな製粉小屋だった。
長年使われず、屋根は傾き、基礎には水が入り込んでいた。雪が来る前に補修しなければ、いずれ倒れると誰もが知っていた。
それでも小屋が本当に崩れた朝、村の者たちは川沿いの道へ集まり、瓦礫の前で声を潜めた。
小屋には、住人がいると信じられていたからだ。
セルビアで最も有名な吸血鬼の一人——サヴァ・サヴァノヴィッチ。
かつて夜の水車小屋へ穀物を挽きに来た粉挽きたちを襲い、その血を飲んだと語られる存在である。
屋根を失ったサヴァは、次の住処を探し始める。
誰かが冗談半分にそう言った。
数日後には、「村が吸血鬼警報を出した」「役場が大蒜と十字架を用意するよう勧告した」という記事が、セルビア国外にまで配信された。
外国の記者が訪れた。
テレビカメラが回った。
村の入口には吸血鬼の名を記した看板が立ち、土産物として小さな木の杭や大蒜の飾りを売ろうという話まで持ち上がった。
その騒ぎのさなか、村で一人だけ、別のものを買い集めていた老女がいた。
大蒜でも、十字架でもない。
小麦だった。
第一章 ベオグラードから来た孫娘
ミラ・ヨヴァノヴィッチが祖母から電話を受けたのは、水車小屋の崩壊が報じられた翌週だった。
彼女はベオグラードの小さな広告制作会社で働いていた。
飲料水の広告。
携帯電話会社のキャンペーン。
山間の温泉地を「まだ誰も知らない癒やしの秘境」として売り出す観光パンフレット。
存在するものへ新しい名前を与え、存在しない魅力を写真と文章で作り上げるのが、彼女の仕事だった。
「村へ帰ってきて」
祖母のダニツァは言った。
「水車が壊れた」
「ニュースで見たわ」
「見たのなら、帰ってきなさい」
「なぜ私が?」
「お前は、壊れたものを立派に見せる仕事をしているのでしょう」
祖母は、広告と修復を同じものだと思っていた。
電話の向こうで、紙袋を動かす音がした。
「何をしているの」
「小麦を量っている」
「どうして?」
「屋根がなくなったから」
答えになっていなかった。
その週末、ミラはバスでザロジェへ向かった。
ベオグラードから西へ進むにつれて、平地は低い山並みに変わる。
ドリナ川に近い地域では、道路が森と谷の間を縫い、冬の霧が斜面を白く覆っていた。
村の名であるザロジェは、角を意味する語との関係を語られることがある。
山の岩や尾根が獣の角のように見えるため、「角の向こう側」を意味するのだと説明する者もいる。
別の由来を唱える者もいる。
村名の語源さえ一つに決まらない土地で、死者の伝承だけが一つの形を保っているはずもなかった。
バスを降りると、村の入口に新しい看板があった。
サヴァ・サヴァノヴィッチ。
文字の横には、黒いマントを着て牙を見せる男の絵が描かれている。
西欧映画の吸血鬼そのものだった。
ミラが子供の頃に聞いたサヴァは、マントなど着ていなかった。
城にも住んでいない。
棺から優雅に起き上がる貴族でもなかった。
水車の暗がりに潜み、粉を挽く者が一人になるのを待つ、名もない村の死者だった。
「ずいぶん洒落た服を着るようになったのね」
ミラが看板を見上げて言うと、迎えに来た役場職員のマルコが笑った。
「外国人は、あれでないと吸血鬼だと分からない」
「サヴァはあんな顔ではないでしょう」
「本当の顔を知っている人がいるのか?」
「だったら、何を描いても同じね」
「広告屋らしい答えだ」
マルコは水車小屋の再建計画を説明した。
崩壊の記事が海外で取り上げられて以来、観光についての問い合わせが増えている。
これを機に川沿いの道を整備し、小屋を復元し、伝承を紹介する展示施設にする。
夜間ツアー。
吸血鬼祭り。
地元産の大蒜、蜂蜜、果実酒。
過疎が進む村にとっては、珍しい機会だった。
「怖がっているのではなかったの?」
「誰が?」
「村長が、大蒜を用意しろと言ったのでしょう」
マルコは声を上げて笑った。
「新聞を信じすぎだ。村の老人が冗談を言い、役場がそれに乗り、記者が見出しを付けた。村中が恐怖に震えていることになった」
「では、誰も信じていない?」
「信じていない人間ほど、カメラの前では大蒜を吊るす」
マルコは道端の家を指した。
軒下には大きな大蒜の束が掛かっている。
その隣で、家の主人が外国人記者へ木の杭を見せていた。
記者が去ると、男は杭を薪の山へ投げた。
「いい商売になる」
マルコは言った。
「化け物が村を食う前に、村が化け物を食うのさ」
第二章 ロガチツァ川の谷
祖母の家へ荷物を置いたあと、ミラは水車小屋を見に行った。
村から谷へ下る道は、舗装された部分が途切れると急に狭くなった。
落ち葉の下には濡れた石があり、足を置くたび泥が靴の縁まで上がる。
ロガチツァ川は大きな川ではない。
冬の流れは細く、黒い岩の間を冷たい水が走っていた。
木々が谷を覆うため、午後三時を過ぎると周囲は夕方のように暗くなる。
水車小屋は、対岸の斜面へ半分崩れ落ちていた。
屋根は完全に潰れ、太い梁が折り重なっている。
水路を塞ぐ板は外れ、かつて水輪へ導かれていた流れが、瓦礫の下へ入り込んでいた。
建物の原形を残しているのは、川側の壁だけだった。
黒ずんだ板の中央に、小さな窓がある。
ガラスは入っていない。
窓の奥には、昼間でも光が届かなかった。
「小屋の中に、石臼は残っている?」
ミラが尋ねた。
同行したマルコは首を振った。
「上側の石は昔、運び出されたと聞いている。下側は床と一緒に沈んだかもしれない」
「誰が最後に使ったの?」
「粉挽きとしてか?」
「他に何があるの」
「観光客なら去年まで入っていた。床が腐っているから止めても、写真を撮りたがる」
マルコは瓦礫へ近づこうとしたミラを制した。
「下に入るな。残った屋根が落ちる」
ミラは窓へ目を凝らした。
暗闇の中で、白いものが動いた気がした。
人ではない。
小さな袋のようなものが、窓の高さから下へ落ちた。
「何かいる」
「鼠だろう」
マルコが石を一つ拾い、壁へ投げた。
乾いた音が谷へ響く。
返事はない。
二人が立ち去ろうとしたとき、小屋の中で木が軋んだ。
ギィ。
間を置いて、もう一度。
ギィ。
水輪が回る音に似ていた。
しかし水輪は壊れ、半分が川底へ沈んでいる。
「まだ動いているの?」
「水が木を押しているだけだ」
マルコは振り返らなかった。
その晩、祖母は台所の床へ小麦の袋を並べていた。
一袋は五キロ。
全部で十八袋あった。
九十キロ。
「店でも始めるの?」
ミラが訊いた。
祖母は袋の数を確認し、首を横に振った。
「一晩分だよ」
「誰の?」
「水車の」
「水車は壊れたわ」
「だから、一晩分で足りる」
祖母は多くを説明しなかった。
夕食には豆の煮込みと黒パンが出た。
窓枠には大蒜の束が掛かっていた。
「それも記者のため?」
ミラが笑うと、祖母は大蒜を外して台所の棚へ戻した。
「大蒜は食べ物だ。窓に掛けて腐らせるものじゃない」
「サヴァを怖がっているのではないの?」
「サヴァを怖がる者は、大蒜ではなく粉を用意する」
「吸血鬼にパンを焼くの?」
祖母はスプーンを置いた。
「お前たちは、あれが血を欲しがると思っている」
「伝説では、粉挽きを殺したのでしょう」
「粉挽きの血が欲しかったのなら、なぜ村へ来なかった。眠っている家へ入ったほうが簡単だ」
ミラは答えられなかった。
「水車にいるものは、粉挽きを殺したのではない」
祖母は言った。
「粉挽きが、自分の番を終えるまで帰さなかったのだ」
第三章 九十年後
サヴァ・サヴァノヴィッチの名を広く知らしめたのは、十九世紀セルビアの作家ミロヴァン・グリシッチが書いた物語『九十年後』だった。
物語の中では、村の水車小屋に泊まった粉挽きたちが、夜ごと命を落とす。
村人は水車を動かす者を見つけられず、穀物を挽けなくなる。
やがて一人の若者が夜の小屋へ入り、吸血鬼の名を聞き出す。
墓を探し、サンザシの杭を用いて退治しようとするが、棺から蝶が逃れる。
その物語は一九七三年、テレビ映画『Leptirica』——「蝶女」——として映像化され、ユーゴスラヴィア地域の多くの視聴者へ強い印象を残した。
しかし文学作品と村の口承は、同じではない。
どこまでがグリシッチ以前の伝承で、どこからが小説によって整えられた物語なのか。
後世の映画と観光宣伝が、どの部分を付け加えたのか。
境界はすでに分からなくなっている。
祖母のダニツァは、『九十年後』の筋書きを知っていた。
それでも彼女が子供の頃に聞いた話は、少し違っていた。
「サヴァは九十年間、水車にいた」
祖母は言った。
「なぜ九十年なの?」
「一人の人間が、この世で使える長さだからだよ」
「寿命?」
「そう呼んでもいい」
祖母の話では、昔の粉挽きは村人から穀物を預かり、決められた量を粉にして返した。
代金として、挽いた粉の一部を受け取る。
しかし暗い小屋で、誰も見ていない。
袋から少し多く取ることもできる。
石臼の隙間へ粉が残ったと言えば、誰も確かめられない。
一握り。
二握り。
一軒から盗む量はわずかでも、村全体から毎日取れば大きくなる。
ある粉挽きは、貧しい家の穀物からまで粉を抜いた。
冬を越せず、病人と子供が死んだ家もあった。
粉挽きは長く生き、九十歳で死んだ。
死後、村人は水車を別の男へ任せた。
すると新しい粉挽きは、夜ごと石臼の下から声を聞いた。
「一握り、返せ」
無視すると、朝には袋の中身が減っていた。
一週間後、粉挽きの髪が白くなった。
一か月後には腰が曲がった。
やがて水車小屋の中で、九十歳の老人のような姿になって死んでいた。
だが、その男はまだ二十代だった。
次の粉挽きも。
その次も。
村人たちは、最初の男が盗んだ粉を返し終えるまで、死者が新しい粉挽きの時間を使って石臼を回しているのだと考えた。
「それがサヴァ?」
ミラが訊いた。
「私が聞いた話では、名前はなかった」
「では、サヴァではないのね」
「名前が付く前のものは、名前が付いたあとより弱いとは限らない」
祖母は小麦袋を一つ持ち上げた。
「九十年が過ぎ、借りた粉を返し終えたとき、水車は止まった。だから『九十年後』なのだと、私の祖母は言っていた」
「小説とは全く違うわ」
「小説は読ませるために作る。村の話は、忘れないために残す」
「何を忘れないため?」
「人の食べ物から、一握りを盗むなということを」
ミラはその夜、ノートパソコンを開き、水車小屋の観光企画書を書いた。
古典文学。
地域文化。
川と製粉技術。
過疎地域の再生。
吸血鬼という言葉を前面に出しすぎず、伝承が変化してきた過程そのものを展示する。
彼女は、祖母の「一握り」の話も紹介したいと思った。
しかし出典がない。
録音も文献もない。
祖母から聞いたというだけでは、公的な展示へ採用しにくかった。
「あなたの話を録音してもいい?」
ミラは祖母に訊いた。
「何のために」
「村に残すため」
「残す必要はない」
「忘れないための話なのでしょう」
「忘れるべき時に忘れなければ、話のほうが人間を使い始める」
祖母は録音を拒んだ。
その夜、午前二時過ぎ。
ミラは石を擦り合わせるような音で目を覚ました。
ゴロ。
ゴロ。
ゴロ。
音は谷の方向から聞こえた。
厚い窓と森を隔てているにもかかわらず、石臼がゆっくり回る音だけが、地面を伝って家の中へ入ってくる。
祖母は台所にいた。
コートを着て、小麦袋を玄関へ運んでいる。
「どこへ行くの」
「水車へ」
「真夜中よ」
「真夜中だから行く」
祖母は十八袋のうち一袋だけを背負った。
残りは明日運ぶと言った。
ミラは一人で行かせるわけにいかず、懐中電灯を持って後を追った。
第四章 存在しない石臼
谷へ下る道には、雪が薄く積もっていた。
祖母は明かりを使わない。
暗い斜面を、道の形を覚えている者の足取りで進んだ。
水車小屋へ近づくにつれ、音は大きくなった。
ゴロ。
ゴロ。
石が穀物を噛み砕く、重い回転音。
壊れた水輪は動いていない。
川側の壁も、昼間と同じく半分崩れている。
それでも小屋の内部から、確かに石臼の音がした。
祖母は瓦礫の手前へ小麦袋を置いた。
袋の口を開き、穀粒を一握り取り出す。
それを川へ投げた。
「なぜ川に?」
「水が運ぶ」
「どこへ?」
祖母は答えなかった。
崩れた窓の奥で、白いものが動いた。
昼間に見た小さな袋ではない。
人の袖だった。
粉にまみれた腕が暗闇から伸び、窓枠へ手を置いた。
指は細く、爪の間まで白かった。
ミラは祖母を引き戻そうとした。
祖母は動かない。
窓の中から、老人の声がした。
「足りない」
「今夜はこれだけです」
祖母が答えた。
「九十、持ってこい」
「雪が深い。残りは明日」
「九十」
声は同じ言葉を繰り返した。
「九十」
石臼の回転が速くなった。
ゴロ、ゴロ、ゴロ、ゴロ。
瓦礫の隙間から白い粉が噴き出し、雪の上へ広がった。
小麦粉ではなかった。
触れる前から、ミラには分かった。
それは細かく砕かれた木の粉だった。
水車小屋を形作っていた板と梁が、内側から少しずつ削られている。
石臼は穀物ではなく、自分が住む建物を挽いていた。
祖母は袋を持ち上げ、瓦礫の隙間へ押し込んだ。
暗闇の腕が袋を掴んだ。
引き込む。
五キロの小麦が、音もなく闇へ消えた。
同時に石臼が止まった。
谷に川音が戻った。
ミラは窓へ懐中電灯を向けた。
中には誰もいない。
石臼もない。
壊れた板と、川から入り込んだ泥だけだった。
「今のは誰?」
「粉挽きだよ」
「サヴァ?」
「その名前で呼ぶな」
祖母は初めて強い口調で言った。
「名前を呼べば、あれは物語の通りに振る舞わなければならなくなる」
「どういう意味?」
「今は、まだ粉を求めているだけだ」
「血を求めるようになるの?」
「皆が吸血鬼だと言い続ければ、やがて自分を吸血鬼だと思い出す」
翌朝、祖母の台所に置かれていた残りの小麦袋は、すべて空になっていた。
袋に破れはない。
床に穀粒も落ちていない。
十八袋で九十キロあったはずの小麦が、一粒残らず消えていた。
テーブルの上には、白い粉で数字が書かれていた。
「89」
第五章 観光のための怪物
村では、水車再建の会議が始まっていた。
役場。
地元住民。
建築業者。
観光関係者。
土地所有者の代理人。
ミラも広告企画の担当として参加した。
復元案では、外観を十九世紀風に整え、内部へ動く石臼を設置する。
見学者は袋へ穀物を入れ、粉になって出てくるまでの工程を体験できる。
夜には赤い照明を使い、サヴァの影が壁へ映る仕掛けを作る。
マルコは牙の付いたマスコット案を見せた。
「子供向けだ」
「サヴァが可愛すぎる」
「怖すぎれば家族が来ない。可愛すぎれば怪談好きが来ない。中間が難しい」
会議に参加した老人が、机を叩いた。
「水車を回すな」
皆が黙った。
老人は祖母のダニツァと同世代だった。
「建て直すのは構わん。展示も、酒を売るのも好きにしろ。しかし水を通すな。石を回すな」
「なぜです?」
若い建築家が訊いた。
「もう止まったからだ」
「壊れたから止まったのでしょう」
「壊れる前に止まっていた」
老人はそれ以上説明しなかった。
マルコはミラへ小声で囁いた。
「こういう人がいるから、宣伝になる」
ミラは笑えなかった。
会議後、彼女は老人を追った。
「昨夜、石臼の音を聞きました」
老人の足が止まった。
「祖母と水車へ行きました。小麦を渡したら、今朝、台所に八十九と書かれていた」
「残りの年だ」
「何の?」
老人は村の家々を見回した。
「水車が崩れる前、あれは眠っていた。粉挽きがいなくなり、水輪が止まり、誰も穀物を持っていかなかったからだ」
「でも観光客は入っていた」
「写真を撮る者は、客ではない。粉を挽かせる者だけが客だ」
「建て直せば、どうなるのですか」
「仕事を与えることになる」
「吸血鬼に?」
「粉挽きに」
老人は、サヴァという名を使わなかった。
祖母と同じだった。
その日の午後、海外のテレビ取材班が到着した。
記者は村人に大蒜を持たせ、水車小屋を背景に撮影した。
マルコは深刻そうな顔で、屋根を失った吸血鬼が新しい住処を探していると説明した。
撮影が終わると、全員が笑った。
記者も、通訳も、村人も笑った。
「完璧だ」
マルコは満足していた。
「来年には客が倍になる」
ミラはカメラ映像を確認した。
崩れた小屋の窓が、マルコの肩越しに映っている。
その暗闇に、白い人影が立っていた。
編集担当者は光の反射だと言った。
次のフレームでは消えている。
ただ、録音されたマルコの声の背後に、低い別の声が重なっていた。
セルビア語で一から数えている。
一。
二。
三。
映像が終わるまで、声は八十九まで数えた。
第六章 一年分の粉
祖母は、数字の意味を説明した。
「水車が九十年眠るたび、粉挽きは一晩だけ起きる」
「昨夜が九十年目だったの?」
「私の祖母が、最後に粉を渡したのが一九二二年だと言っていた」
二〇一二年。
ちょうど九十年になる。
「小説の題名に合わせて作った話ではないの?」
「そうかもしれない」
祖母は否定しなかった。
「村の伝承が小説を作ったのか、小説が村の記憶を作ったのか、今となっては誰にも分からない」
「八十九は?」
「九十キロ必要だったのに、昨夜渡したのは一袋だけだった」
「でも残りの袋も消えた」
「家から消えただけだ。水車へ届いていない」
「では、あと八十九キロ?」
祖母は首を横に振った。
「八十九年」
粉挽きが求めていたのは、小麦の重さではない。
水車を動かす一晩の代価。
かつて一握りずつ盗まれた村人の食糧と時間を、年単位で返すこと。
一晩に一人。
一人から一年。
九十人分の一年が揃うまで、水車は止まらない。
「最初の一人は誰?」
ミラは訊いた。
祖母は自分の髪を指した。
昨日まで黒い部分が残っていた髪は、一晩でほとんど白くなっていた。
「あなたから一年取ったの?」
「私は渡した」
「どうしてそんなことを」
「小麦だけで済まないと知っていたからだよ」
祖母は、ミラが生まれる前にも一度、水車の音を聞いていた。
一九二二年から九十年が経つより前。
暦の計算が合わないため、夢だったのかもしれない。
その夜、祖母の母親——ミラの曾祖母は、一晩で老いた。
翌朝、両手の皮膚には深い皺が増え、歩く速度が急に遅くなった。
それでも彼女は、自分の一年を渡しただけだと話した。
「一年くらいなら、村を守るために惜しくない」
祖母も同じことを言った。
「九十人が一年ずつ渡せば、誰も死なない」
「九十人も集めるの?」
「昔は、それで済んだ。村には大勢いたから」
現在のザロジェには、以前ほど人がいない。
若者は都市へ移り、残っているのは老人が多い。
一年を失うことが、残りの人生の大部分になる者もいる。
「だから観光客を呼ぶの?」
ミラの声が低くなった。
「村人の代わりに、外から来た人間へ一年を払わせるため?」
祖母は何も答えなかった。
その沈黙によって、ミラは一つの可能性に気づいた。
海外ニュース。
吸血鬼警報。
大蒜。
水車再建。
夜間ツアー。
すべては過疎地域の観光振興に見える。
しかし、もし村の一部が本気で伝承を信じているなら。
九十人の訪問者を、水車が回る場所へ集めるための計画にも見えた。
「マルコは知っているの?」
「知らない」
「役場は?」
「知らない」
「では、誰が観光客から年を取るの」
「人間ではない」
祖母は窓の外を見た。
谷の方角から、低い石臼の音が聞こえ始めていた。
ゴロ。
ゴロ。
ゴロ。
テーブルの白い数字が、一つ減った。
「88」
第七章 再建の杭
水車小屋の応急工事は、予定より早く始まった。
建物全体を復元する前に、崩れかけた壁を支える必要がある。
作業員は太い木の杭を地面へ打ち込み、仮設の屋根を掛けた。
吸血鬼を退治する杭に見えると、記者たちは喜んだ。
しかしサンザシではない。
普通の建築用木材だった。
最初の杭を打った日、作業員の一人が帰宅途中に道を間違えた。
生まれ育った村で、何度も同じ曲がり角へ戻ったという。
翌朝、男の髭は目に見えて白くなっていた。
本人は疲労だと笑った。
二本目の杭を打った日、建築家の腕時計が一年後の日付を示した。
電池を交換すると正常に戻った。
三本目の日、マルコの携帯電話に、自分自身から着信があった。
通話を取ると、彼の声でこう言われた。
「夜の予約は、あと八十六人だ」
誰かの悪戯だと考え、電話会社へ調査を依頼した。
発信記録はなかった。
ミラは工事の中止を提案した。
「建物が不安定です。文化的な調査も不十分です。伝承の扱い方について、専門家の意見を聞くべきです」
本当の理由は言えなかった。
石臼が人の一年を挽いているなどと話せば、彼女自身が次の宣伝材料にされる。
「都会から来た広告屋が、吸血鬼を怖がっている」
それだけで新しい記事になる。
マルコは反対した。
「今止めれば、報道の勢いを失う。来年になれば皆、別の怪物を探している」
「人が入れる状態ではない」
「だから直す」
「水輪まで動かす必要はないでしょう」
「動かない水車を、誰が見に来る?」
ミラは祖母から聞いた話を、伝承として説明した。
九十年。
盗まれた粉。
一晩につき一年。
マルコは黙って聞いたあと、疲れたように息を吐いた。
「村を見ろ、ミラ」
閉じられた商店。
屋根が崩れた空き家。
冬になっても煙の上がらない煙突。
「ここでは毎年、人が減っている。学校もなくなり、バスも減った。水車がなくても、村は一年ずつ削られている」
「だから観光客を危険にさらすの?」
「危険が本当にあるならな」
「電話を聞いたのでしょう」
「あれは悪戯だ」
「髭が白くなった作業員は?」
「誰でも年を取る」
「祖母も一晩で——」
「人は、自分が信じたい順番に出来事を並べる」
マルコは水車再建の図面を畳んだ。
「村人が伝承を信じれば迷信と呼び、広告会社が伝承を使えばブランド・ストーリーと呼ぶ。違うのは、誰が金を受け取るかだけだ」
返す言葉がなかった。
ミラ自身も、怪物を観光商品へ変えるために呼び戻されたのだ。
その夜、村の家々へ白い封筒が届いた。
差出人はない。
中には小麦粉が一握りずつ入っている。
紙には同じ数字が書かれていた。
「87」
祖母は粉へ触れなかった。
「返された」
「何が?」
「昔、粉挽きが盗んだ分だ」
「返しているなら、悪いものではないの?」
「誰の時間を挽いて作った粉か分からない」
翌朝、村で最も若い夫婦の家から、三歳の娘がいなくなった。
玄関は施錠されていた。
窓も閉じている。
雪の庭に足跡はない。
子供の寝台には、白い粉で小さな手形が残っていた。
警察と村人が山を捜索した。
川。
道路。
空き家。
森。
日没まで見つからなかった。
母親は、娘が眠る前に奇妙なことを言ったと証言した。
「白いおじいさんが、パンを作るから手伝ってと言った」
水車小屋の瓦礫には、子供の赤い手袋が片方だけ落ちていた。
第八章 夜の粉挽き
警察は水車小屋の周囲へ立入禁止の帯を張った。
崩壊した建物へ子供が入り込み、内部へ閉じ込められた可能性がある。
救助隊が照明を設置し、瓦礫を一枚ずつ取り除いた。
しかし空洞はない。
人が入れる隙間もない。
赤い手袋は濡れておらず、雪の上へ置かれたばかりに見えた。
午後十一時。
捜索はいったん中断された。
川沿いには警察官二名が残った。
村人は帰された。
ミラと祖母も自宅へ戻った。
午前零時を過ぎると、石臼の音が始まった。
これまでより速い。
ゴロゴロゴロゴロ。
テーブルの粉が震え、床の隙間へ落ちる。
祖母は椅子から立ち上がった。
「今夜、回り終える」
「数字はまだ八十七よ」
「子供は一年を持っていない」
「どういう意味?」
「これから生きるはずだった年を、全部持っている」
三歳の子供から八十七年を取れば、ちょうど九十になる。
ミラはコートを掴んだ。
「水車へ行く」
「警察がいる」
「だから何?」
祖母はミラの腕を掴んだ。
老人とは思えない力だった。
「中へ入れば、お前も粉になる」
「子供を見捨てるの?」
「見つからない。あれはもう——」
ミラは祖母の手を振り払った。
外へ飛び出し、谷へ走った。
雪道で何度も転んだ。
石臼の音は地面の下から響いてくる。
谷へ下りると、警察車両の青い光が木々を照らしていた。
二人の警察官は車内で眠っているように見えた。
窓を叩いても反応しない。
呼吸はある。
エンジンも動いている。
だが二人の腕時計は、秒針だけが逆方向へ回っていた。
立入禁止の帯を越える。
崩れた小屋には、仮設屋根が掛けられている。
昼間、救助隊が取り除いたはずの瓦礫は元に戻り、壁も屋根も崩壊前の形へ復元されていた。
窓から黄色い灯が漏れている。
水輪が回っていた。
川の流れとは反対方向に。
ミラは扉を押した。
鍵はない。
室内には大きな石臼があり、その前に白い老人が座っていた。
皮膚も、髪も、衣服も粉に覆われている。
老人の顔には牙がなかった。
口元に血も付いていない。
彼は木の匙で穀物を掬い、中央の穴へ流し込んでいた。
穀物ではなかった。
小さな透明の粒。
粒の一つ一つに、人の姿が映っている。
歩き始める子供。
学校へ通う少女。
結婚式の女性。
赤ん坊を抱く母親。
白髪になった老女。
一人の人生が、年ごとの粒に分けられていた。
石臼の横に、行方不明の少女が立っている。
赤い手袋は片方だけ。
泣いてはいない。
老人の作業を、不思議そうに見ていた。
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