序章 カンブリアの濃霧と、コールベルの警報
イングランド北西部、湖水地方の険しい山並みを背負うカンブリア州の冬の夜は、生きている人間の存在を拒絶するような重い沈黙に支配されている。
大西洋から吹きつける湿った突風が、荒涼たる泥炭地(ムーア)の枯れ草を薙ぎ払い、粗削りの灰色の砂岩で築かれた古い屋敷の窓枠をガタガタと震わせる。
夜の十時を回り、幹線道路を走る車列のヘッドライトが途絶えると、世界にはただ、松林を揺らす風の唸りと、羊たちの湿った吐息、そして冷たい雨水が石樋を伝って落ちる水音だけが残される。
英国の介護現場において、夜勤(ナイトシフト)と呼ばれる午後八時から午前八時までの十二時間は、生と死、正気と狂気の境界が最も曖昧になる時間帯として知られている。
昼間の賑やかな面会者や理学療法士の足音が消え去り、長い廊下の蛍光灯が夜間用の薄暗い保安灯へと切り替えられたとき、建物の皮膚の下に眠っていた過去の記憶が、澱のように浮かび上がってくるのだ。
英国の医療従事者たちの間には、日頃から生死の最前線に身を置く看護師や介護士自身が、勤務の合間に虚飾のない体験談を書き残す文化が根付いている。
その記録の中に、ある地方都市の元介護助手(ヘルスケア・アシスタント)の青年によって書き残された一本の告白が存在した。
題名は、「抜かれたナースコール(The Unplugged Call Bell in Room 14)」。
それは、湖水地方の外れに佇む、かつての感染症隔離施設を改装した介護ホームの十四号室において、彼が数週間にわたって耳にし続けた、乾いた喉の喘鳴と、決して鳴るはずのない非常警報の記憶であった。
第一章 夜勤(ナイトシフト)の紅茶と、剥ぎ取られた十四号室
二〇一五年、大学を中退して将来の展望を見失っていた二十二歳の私——リアムは、カンブリア州の小さな町・ケンダルの郊外にある民間の高齢者介護ホーム「ヘイゼルウッド・マナー」で、夜勤専門の介護助手として働き始めた。
時給は最低賃金に毛が生えた程度であったが、夜勤手当が加算され、昼間は自分の時間を自由に使えるという理由だけで選んだ仕事であった。
施設は、一九〇八年に地方の裕福な医師が寄付金によって建設した、重厚な三階建てのエドワード朝様式のカントリーハウスを改装したものであった。
赤煉瓦と黒ずんだ砂岩の外壁、高い煙突、そして網の目のように入り組んだ細長い廊下。
館内には四十名ほどの認知症や重度の身体障害を抱える高齢者が暮らしており、夜間は主任看護師(シスター)一名と、私を含む二名の介護助手の、計三人だけでその広大な建物を巡回し、排泄介助や体位交換、緊急時の対応をこなさなければならなかった。
私の指導役となったのは、スコットランド国境に近いニューカッスル出身のベテラン看護師、マーガレットであった。
五十代半ばの彼女は、長年の過酷な医療現場で鍛え上げられた頑強な肉体と、剃刀のように鋭い舌鋒の持ち主であり、業務の合間に汚物処理室(スルースルーム)の非常扉の隙間から細い煙草を吹かすのが唯一の息抜きであった。
「いいかい、リアム」マーガレットはマグカップの濃いミルクティーを啜りながら、最初の夜に私へこう言い渡した。
「夜勤で一番大事なのは、耳を澄ますことと、余計なものを見ないことだよ。認知症の年寄りたちは、夜になると子供に戻る。昼間は見えないものが見え、聞こえない声と会話を始める。
いちいち真に受けていたら、あんたの頭が先に参っちまうからね」
その教えの通り、夜のヘイゼルウッド・マナーは、昼間とは全く異なる顔を見せていた。
日没とともに認知症の症状が悪化する「夕暮れ症候群(サンダウニング)」によって、車椅子の老人が意味の通じぬ叫び声を上げ、かつて炭鉱夫だった老人は自室の壁を狂ったように叩き続ける。
だが、午前二時を過ぎると、睡眠導入剤の効き目とともに館内には深い、沈痛な静寂が訪れる。
聞こえるのは、業務用の大型冷蔵庫の低く唸るモーター音と、セントラルヒーティングの古い鉄パイプが熱で軋むコン、コンという摩擦音だけであった。
問題の「十四号室」は、本館から北側へと細長く伸びる、かつて「北翼棟(ノース・ウィング)」と呼ばれていた平屋の離れの最奥部に位置していた。
日当たりが悪く、昼間でも薄暗いその部屋は、私が勤務を始めて三ヶ月が過ぎた十一月の末、それまで入居していた八十八歳の女性が安らかに老衰で息を引き取って以来、空室のまま放置されていた。
部屋の中は、完全に清掃され、剥ぎ取られていた。
遺族によって私物はすべて運び出され、木製のワードローブの扉は開け放たれ、備え付けの介護用ベッドの上には、マットレスの黄ばんだ防水ビニールの表面が剥き出しになっていた。シーツも、毛布も、枕すらない。
そして何より——壁のヘッドボードの上に設置されていた、赤いボタンのついたナースコールの白いコードは、壁のジャック(端子受け)から完全に引き抜かれ、壁のフックに綺麗に巻き取られて掛けられていた。
通電していない空室。家具のない冷え切った空間。
その部屋から、最初の警報がナースステーションの主受信盤を叩き割ったのは、初雪が降った十二月三日の午前三時十七分のことであった。
第二章 鳴り止まぬ端子と、認知症病棟の影
ピピピッ……ピピピッ……ピピピッ……。
ナースステーションの静寂を破り、壁に設置されていたインターコール社製の中央受信盤が、耳をつんざくような電子音を鳴り響かせた。
緑色の液晶画面に、赤く点滅するドットマトリクスの文字。
【 ROOM 14 - CALL 】
詰所で日誌を記入していた私は、思わずペンを取り落とした。
「十四号室……? マーガレット、十四号室って、先週亡くなったスミスさんの部屋ですよね?」
向かいのデスクで紅茶を淹れていたマーガレットは、眉をひそめ、苛立たしげに舌打ちをした。
「接触不良だよ。古い配線だからね。湿気でショートしたんだろう。リアム、行ってジャックのところのリセットボタンを押してきな」
私は壁からマスターキーと懐中電灯を取り、北翼棟の廊下へと足を踏み出した。
暖房の温もりが届かない北翼棟の廊下は、足首から冷え込むような寒気に満ちていた。
突き当たりにある十四号室の扉の前に立つと、ドアの上の赤い呼び出し表示灯が、暗闇の中で規則正しく赤く明滅していた。
ドアノブに手を掛け、押し開ける。
キィィ……と蝶番が鈍い音を立てた。
室内は、外の廊下よりもさらに数度、明らかに冷え込んでいた。
懐中電灯の白いビームが、何もない部屋を照らし出す。
剥き出しの黄色い防水マットレス、空っぽのクローゼット、埃の溜まった窓枠。
誰もいない。風の吹き込む隙間もない。
私はベッドの枕元へと歩み寄った。
壁のナースコール端末を見上げて、私は息を呑んだ。
白いプラスチックのコードは、私が確認した通りの状態で静止していた。
プラグは、壁の金属端子から完全に「引き抜かれたまま」、五センチほど離れたプラスチックのフックに几帳面に巻き付けられていたのだ。
端子には何も刺さっていない。回路は物理的に切断されている。
それにもかかわらず、壁の小さな赤いLEDランプは、狂ったように点滅を繰り返し、ジジジ……という微細な電流の漏れるノイズを放っていた。
「……機械の故障だ」
私は自らに言い聞かせ、端末の「リセット」と書かれた小さな白いボタンを親指で強く押し込んだ。
カチリ、と音がして、ようやくランプの点滅が消え、ナースステーションの警報音が止まった。
だが、部屋を出ようと背を向けた、その刹那であった。
スゥ……ハァ……。
背後から、音がした。
冷たい風がカーテンを揺らしたのではない。
何もないはずの、あの剥き出しのビニールマットレスの上から——まるで、喉に痰の詰まった人間が、苦悶に満ちた息を吐き出し、再び吸い込んでいるかのような、重く湿った「人間の呼吸音」が、私の耳朶を直撃したのである。
振り返ると、懐中電灯の光の輪の中で、誰もいないはずのマットレスの中央が、まるで大人の頭部ほどの重みが加わったかのように、じわりと数センチ、不自然に沈み込んでいた。
私は恐怖のあまりドアを跳ね飛ばすようにして廊下へ飛び出し、鍵を閉めてナースステーションへと駆け戻った。
息を切らして報告する私に対し、マーガレットは煙草の煙を燻らせながら、眉一つ動かさずにこう言った。
「だから言ったろ、リアム。余計なものを見るんじゃない。……あの部屋の呼び出し盤のヒューズを明日、施設長に言って抜いてもらうさ。それまでは、鳴っても放っておきな」
だが、怪異は機械の不具合という安易な蓋を、いとも容易く食い破っていった。
翌週の夜勤。
午前二時を回った頃、十四号室の隣——十三号室に入居していた八十二歳の認知症の女性、ヘレンの部屋から激しいナースコールがあった。
駆けつけると、普段は穏やかなヘレンが、ベッドの上に正座し、両手で自らの首元をかきむしりながら、恐怖に血走った眼で部屋の北側の壁——十四号室と接する壁を指差して叫んでいた。
「シスター! あの人をあっちへ行かせて! あの首の詰まった服を着た女の人を、部屋に入れないで!!」
「ヘレンさん、大丈夫ですよ。誰もいません、私とマーガレットだけです」
私が肩を抱こうとすると、ヘレンは私の腕を万力のような力で掴み、唾を飛ばしながら耳元で叫んだのだ。
「嘘をお言い! ほら、壁の向こうで、子供たちが泣いているじゃないの! あの厳しい婦長(マトロン)が、また子供たちの口に布を詰め込んでいるんだわ!
ゲホゲホって……息ができないって……十四号室の床で、あの子たちが冷たくなって転がっているのよ!」
第三章 緋紅熱の隔離病棟と、マザーの真鍮鈴
ヘレンの錯乱を鎮めるため、医師の指示のもとで少量の鎮静剤を吸入させ、ようやく彼女が泥のような眠りに落ちた頃には、時計の針は午前四時を回っていた。
ナースステーションに戻った私は、熱い珈琲の入ったマグカップを握りしめながら、デスクでカルテの整理をしていたマーガレットに向き直った。
「マーガレット。この建物は、老人ホームになる前は何だったんですか。ヘレンさんが言っていた『子供たち』や『厳しい婦長』って、一体何のことなんです?」
マーガレットの手が止まった。
彼女はボールペンを置き、深い溜息とともに自らの眼鏡を外すと、疲労の滲む両目を指先で強く圧迫した。
「……あんたは、知りたがりすぎるのが欠点だよ、リアム。知ったところで、夜勤の仕事が楽になるわけじゃないのにね」
彼女は立ち上がり、詰所の奥にある鍵のかかった書類棚の最下段から、埃を被った革表紙の古いアルバムを一冊引き抜いてきた。
それは、ヘイゼルウッド・マナーの前身である「ケンダル小児伝染病隔離療養所」の、一九一〇年代の記録写真集であった。
白黒の退色した写真の中には、現在の私たちが詰所として使っている部屋で、糊の効いた真っ白なエプロンと、顎の下まで固く襟元を閉ざした黒い修道服のような制服を纏い、威厳に満ちた表情で立つ一人の初老の看護婦長の姿が収められていた。
胸元には、太い紐で吊るされた一本の「小さな真鍮のハンドベル」が光っていた。
「一九一〇年代から二十年代にかけて、この地域では猩紅熱(スカーレット・フィーバー)とジフテリアが爆発的に流行したんだ」
マーガレットの声は、夜の冷気に溶け込むように低かった。
「当時、抗生物質なんてものは存在しない。富裕層の子供だろうが貧民街の孤児だろうが、喉に偽膜が張って呼吸ができなくなれば、数日で窒息して命を落とした。公衆衛生当局は感染の拡大を防ぐため、症状の出た子供たちを親元から強制的に引き離し、この人里離れた丘の上のサナトリウムへ収容したんだよ」
そして、あの北翼棟——十四号室を含む平屋の区画こそが、最も症状の重い、死に瀕した子供たちだけが集められた「終末隔離病室」であったのだという。
「当時の婦長は、エスター・ヴァン・ダイクという敬虔な清教徒の女性だった。彼女は恐ろしく厳格な規律でこの院内を支配していた。親の面会は感染防止を理由に一切禁止。
子供たちが泣き叫べば『神への冒涜』として冷水に浸され、ベッドの柵に革バンドで縛り付けられた。……ジフテリアの末期になるとね、喉の粘膜が腐敗して激しい悪臭を放ち、子供たちは自らの痰と血栓で息を詰まらせて暴れ回るんだ。婦長は他の子供たちに動揺を与えないため、窒息しかけた子供を十四号室の奥の小部屋へ運び込み、シーツで全身を簀巻きにして、ただ死ぬのを待ったそうだよ」
記録によれば、一九一八年の秋、猛威を振るったスペイン風邪とジフテリアの複合感染によって、わずか一ヶ月の間に三十人を超える幼い子供たちが、あの北翼棟の冷たい石畳の上で息絶えていった。
死の床にあっても、子供たちが親を求めて声を上げることは禁じられていた。
婦長が胸元の真鍮の鈴をチリンと鳴らせば、それは「死を受け入れ、沈黙せよ」という絶対の掟の合図であった。
「婦長自身もね、一九一九年の冬、子供たちの喀痰を気管に吸い込んでジフテリアに感染し、この十四号室のベッドで、喉を掻きむしりながら窒息死したのさ」
マーガレットは古いアルバムをパタンと閉じた。
「それ以来、建物をいくら改装して壁を塗り直しても、北翼棟の一番奥の部屋だけは、どうしても長居ができない部屋として残っちまった。……あんたの前にいた夜勤の男もね、あの部屋のナースコールが鳴る音に耐えかねて、三ヶ月で辞めていったよ」
第四章 抜かれたコードと、濡れた素足の歩調
その話を聞いて以来、夜の館内を巡回する私の神経は、針の筵の上に置かれたように擦り減っていった。
北翼棟の廊下の前を通り過ぎるたび、施錠された十四号室のドアの隙間から、カルキとフェノールを混ぜ合わせたような、古い消毒薬のツンとした臭気が漂い出てくるのが分かった。
そして、運命の夜が訪れた。
十二月二十四日、クリスマスイブの深夜。
外は猛烈な吹雪が吹き荒れ、湿った大雪が電線を切断したため、午前一時を回った頃に館内全体が突如として停電に見舞われたのである。
非常用ディーゼル発電機が重い地鳴りを立てて起動し、廊下の非常灯だけがかろうじて薄暗いオレンジ色の光を灯した。
セントラルヒーティングの循環ポンプが停止し、建物内の気温は見る見るうちに氷点下へと落ち込んでいった。
午前三時十五分。
一階の南翼棟で、酸素濃縮器を使用していた重篤な入居者の容態が急変した。
「リアム! 救急車を呼んだよ! 酸素ボンベの予備を倉庫から運んでおくれ!」
マーガレットが血相を変えて叫び、二人で南棟の処置室へと飛び込んだ。
救急隊が猛吹雪の中をチェーンを巻いて到着し、患者をストレッチャーに乗せて搬送し終えたとき、すでに時計の針は午前三時五十分を指していた。
マーガレットは救急車に同乗して総合病院へ向かわねばならず、施設には一時的に、私一人だけが取り残されることとなった。
「すぐに戻るよ、リアム。他の部屋の施錠を確認して、詰所から動くんじゃないよ!」
救急車の赤い回転灯が雪煙の彼方へと去り、重い玄関ドアが閉ざされた瞬間——。
ピィィィィィィィッッ!!
それは、通常のナースコールの電子音ではなかった。
生命維持装置の異常、あるいは心停止を知らせる際にしか鳴らない、中央受信盤の「最優先緊急警報(EMERGENCY)」の絶叫であった。
私は凍りつく足でナースステーションへと駆け戻った。
非常用バッテリーで駆動していた液晶パネルに、血のような赤色で点滅していた文字。
【 ROOM 14 - CRITICAL EMERGENCY 】
嘘だ。あり得ない。
十四号室の配線ヒューズは、先週、電気工の手によって物理的にブレーカーごと取り外されていたはずだった。
電力が供給されていない空室から、どうして非常通報が発信できるというのか。
だが、警報の音は止まらなかった。
キーンという高周波の電子音が、誰もいない深夜の廊下に木霊し、老朽化したスピーカーを激しく震わせている。
この音を放置すれば、館内の四十人の認知症患者が一斉にパニックを起こして目を覚ましてしまう。
私は震える手で壁のマスターキーと懐中電灯を掴み、小走りで北翼棟の暗黒の廊下へと向かった。
廊下を進むにつれ、大気の温度が狂気じみた下がり方を見せていた。
吐き出す息が真っ白な煙となって前方を遮る。
非常灯の明かりは途中で途絶え、懐中電灯の細いビームの先——十四号室のドアの前に達した瞬間、私の足はピタリと止まった。
ドアの上の表示灯が点滅していたのではない。
十四号室のドアの木枠の隙間という隙間から、まるで室内の空気が完全に凍結したかのような、白く濃密な「冷気の蒸気」が、シュウシュウと音を立てて廊下の床へと吹き出し、足首を覆い隠していたのだ。
私はマスターキーを鍵穴に差し込んだ。
凍りついた真鍮のシリンダーが、ギリリと重い悲鳴を上げる。
ドアノブを押し下げ、体当たりでその扉を押し開けた。
バタンッ!
部屋の中へと踏み込んだ瞬間、私の背後で、まるで巨大な手で叩きつけられたかのように、重い樫の木のドアが凄まじい音を立てて自ら閉ざされた。
カチャリ、と内側から鍵が回転して施錠される金属音が響く。
私が狂ったようにドアノブを引いても、ノブは溶接されたかのように硬直して一ミリも動かなかった。
第五章 凍結せる十四号室の窒息
閉じ込められた。
完全なる密室。
部屋の中の気温は、優に零下十度を下回っていたはずだ。
懐中電灯の光を壁に向けて照射した私は、自らの眼を疑った。
壁の石膏ボードの一面が、びっしりと白い霜と氷の結晶に覆い尽くされていた。
そして——あのフックに巻き取られていたはずの、白いナースコールのコード。
そのコードが、何もない空中に向かって、ピーンと張り詰めていたのだ。
プラグは、壁の端子ジャックに、根元まで深々と力任せに突き刺さっていた。
そして、そのコードの先にある赤い押しボタンを——。
空中に浮かんだ、白くふやけた「小さな子供の手」が、万力のような力で、親指を押し込み続けていたのである。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……ッ。
プラスチックのスイッチが、狂ったような速度で連続して連打されていた。
ボタンの周囲から、青白い火花がパチパチと散り、焦げたビニールの悪臭が鼻腔を刺す。
パタ……パタ……パタ……。
音が、部屋の隅のクローゼットの中から這い出してきた。
懐中電灯の光を床へと落とした私の全身の血液が、一瞬にして凍結した。
霜で白く染まった灰色のリノリウムの床面の上。
そこに、水滴をたっぷりと含んだ、小さな、小さな「子供の裸足の足跡」が、何もない空間から、一つ、また一つと、ひとりでに刻み込まれ始めていたのだ。
足跡の主は一人ではなかった。
二人、三人、五人、十人。
大人の手のひらよりも小さな足跡が、床の上に幾重にも重なり合い、泥と体液の混ざった黒ずんだ濡れ染みとなって、部屋中を無秩序に駆け回り始めた。
ヒュー……ッ、ケホッ、ゲホッ……!
部屋の天井の四隅から、幾重にも重なり合った子供たちの激しい喘鳴と、血の混ざった激しい咳払いが降り注いできた。
『おかあさん……!』
『くらいよ……息ができないよ……!』
『あけて……外へ出して……!』
子供たちの悲痛な叫び声が、冷気の嵐となって部屋中を旋回する。
突如、私の両足首に、凍りついた氷の棒のような感触が巻き付いた。
下を見ると、足元に刻まれた無数の濡れた足跡から、青白い半透明の無数の腕が這い出し、私のズボンの裾を、靴の紐を、狂ったように掴んで上へと登ろうとしていた。
冷たい。
骨が凍てつき、筋肉が麻痺していく。
子供たちの体重が何重にも加わり、私の身体は重力に引きずり倒されるようにして、あの剥き出しの黄色い防水マットレスの上へと押し倒された。
マットレスに顔を押し付けられた私の耳元で、響いたのだ。
チリン…………。
澄み切った、しかし絶対の絶望を告げる、小さな金属の音。
あのエドワード朝の婦長が胸に下げていたという、「真鍮のハンドベル」の音色であった。
ベルの音が響いた瞬間、部屋の空気から、一切の酸素が消失した。
気圧が急激に低下し、私の気管支が内側から真空ポンプで吸い出されるようにペシャンコに押し潰される。
息が吸えない。
どれほど肺を広げようとしても、入ってくるのは針のような冷気と、古い消毒薬の毒気だけであった。
視界が急速に狭窄し、網膜の奥に赤い光が明滅を始める。
マットレスの上で、私は自らの喉笛を両手の爪で掻きむしりながら、窒息の暗黒の底へと沈みかけていた。
(死ぬ……ここで、あの子供たちと同じように、喉を詰まらせて死ぬんだ……)
薄れゆく意識の淵で、私の指先が、シーツのないベッドのフレームの冷たい鉄パイプに触れた。
その時、私の脳裏をよぎったのは、恐怖ではなく、かつて認知症の老人たちを抱き起こす際にマーガレットがいつも口にしていた、あの無骨な言葉であった。
——いいかい、リアム。この人たちはね、ただ怖いんだよ。自分が誰かも分からず、暗闇に取り残されて、怯えているだけなんだ。
私は、最後の力を振り絞った。
喉の奥の痙攣を力任せにねじ伏せ、麻痺した舌を動かして、凍りつく虚空に向かって、声を、言葉を絞り出したのだ。
「……もう……いいんだ……!」
私の口から漏れたのは、怒声ではなく、泣きじゃくる子供の背中を擦るような、嗄れた、しかし温かな囁きであった。
「……もう、痛くないよ……。婦長(マトロン)は……もういないんだ……。誰も、君たちを縛ったりしない……。朝が来るよ……もうすぐ、太陽が出る……。だから……もう、走らなくていいんだ……おやすみ……みんな、おやすみ……」
私は両腕を広げ、自らの胸の上に圧し掛かっていた冷たい無数の気配を、まるで見えない子供たちを丸ごと抱きしめるようにして、固く抱き抱えた。
その瞬間であった。
ふっ……と、私の首筋を締め上げていた冷たい手のひらの圧力が、緩んだ。
チリン、と鳴り響いたハンドベルの鋭利な金属音が、まるでガラスが粉々に砕け散るかのように、空間の彼方へと霧散していった。
パチィィンッ!
壁のナースコール端末から閃光が走り、あの引き抜かれていたはずのコードが、端子からパッと弾け飛んで床の上に落ちた。
部屋を満たしていた氷の蒸気が、潮が引くようにスーッと薄れていく。
私の肺胞へと、生ぬるい、しかし甘美な酸素が一気に雪崩れ込んできた。
ゲホッ、ゲホッ! と激しく咳き込みながら、私は床の上に両手をついて荒い息を吐き続けた。
ガチャリ。
背後のドアの鍵が、何の手も触れられていないのに、静かに解錠される音が響いた。
ドアが、数センチだけ、外の廊下に向かって自然に開いた。
外の廊下の非常灯のオレンジ色の光が、埃の舞う室内の床を、優しく照らし出していた。
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