序章 四か月目の夜

四か月のあいだ一度も動かなかった男が、その夜、初めて右手を上げた。

男はいつものように、私のベッドの足元に立っていた。

灰色のシャツ。

古びた茶色のズボン。

雨に濡れたように額へ貼り付く、薄い金髪。

両腕を身体の横へ垂らし、眠っている私と妹を、少し悲しそうな目で見守っている。

ただ、その夜だけは違った。

男は唇の前へ人差し指を立てた。

そして、母を起こさないよう注意するような低い声で、こう言った。

「彼が来る」

私は布団の中で固まった。

男が話したことより、その声を以前にも聞いたことがあるような気がしたからだ。

「今すぐ出なさい」

男は、部屋の扉を指した。

「今夜は、ここにいてはいけない」

第一章 住所のない家

当時、私は八歳だった。

母と五歳の妹エミリーとともに、太平洋岸北西部のある町で暮らしていた。

町の名は書かない。

施設の名も、当時使っていた私たちの姓も書かない。

あの家には、住所を知られてはならない人々が住んでいたからだ。

現在の私が資料を読み返して知ったことだが、家庭内暴力の被害者を支援する施設では、利用者の所在や個人情報を守ることが安全そのものに直結する。住所を伏せ、電話を取り次ぐ際にも在所を認めず、必要に応じて合言葉を使うことがある。

八歳の私には、そんな制度は分からなかった。

ただ、母から三つの約束をさせられた。

学校で、家の場所を話さない。

知らない大人に名前を呼ばれても、近づかない。

玄関の扉は、たとえ知っている声がしても、自分で開けない。

私たちがそこへ移ったのは、九月の初めだった。

母は夜明け前に私とエミリーを起こし、衣類を一つの旅行鞄へ詰めた。

玩具は持っていけなかった。

妹は布製の兎だけを抱え、私は父から誕生日にもらった赤いプラスチックの懐中電灯をポケットへ入れた。

母は台所のテーブルへ何も残さなかった。

手紙も、鍵も置かなかった。

玄関を出るとき、一度だけ振り返った。

その顔を見て、私は「いつ帰るの」と訊くことができなくなった。

最初に乗った車は、白い乗用車だった。

運転していた女性は母を名前で呼ばず、「お母さん」とだけ呼んだ。

私たちは二度車を乗り換えた。

途中で一時間ほど、窓のない事務所にいた。

最後の車へ乗る前、母は私たちの靴底を濡れた布で拭いた。

なぜそんなことをするのか訊くと、母は泥を車へ持ち込まないためだと言った。

けれど母は、自分の靴底を何度も見ていた。

誰かに足跡を追われると、本気で考えているようだった。

避難所は、森と古い住宅地の境に建つ二階建ての建物だった。

外壁は淡い緑色。

窓には白いカーテン。

庭には錆びたブランコと、雨水を溜めた黄色い滑り台がある。

普通の家に見えた。

しかし玄関扉は分厚く、内側には三つの錠と一本の金属棒が取り付けられていた。

一階の廊下には監視カメラがあり、窓の下半分には外から中が見えないフィルムが貼られていた。

職員はその家を「ヘイヴン」と呼んでいた。

避難所という言葉は使わなかった。

「ここは、みんなが次の家を見つけるまで休む場所よ」

初日に会った職員のキャロルは、そう説明した。

けれど、そこで休めている人は少なかった。

夜中に泣き出す女性がいた。

廊下を歩く足音だけで、部屋の照明を消す母親がいた。

食堂のテレビで男性の怒鳴り声が流れると、食器を取り落とす人がいた。

子供たちは、大人より早くその家の規則を覚えた。

本名を訊かない。

なぜ来たのか訊かない。

父親の話をしない。

夜に車のライトが窓を横切っても、カーテンを開けない。

私たちに与えられたのは、二階の一番奥にある小さな部屋だった。

母は折り畳み式の簡易ベッド。

私とエミリーは、壁際に置かれた二段ベッドを使った。

私は下段、妹は上段だった。

部屋には洗面台があり、その上に縦長の鏡が掛けられていた。

鏡の縁は白く塗られていたが、下のほうだけ塗料が剥げ、黒い木が露出していた。

最初の夜、私はその鏡の中に、毛むくじゃらのものを見た。

第二章 鏡の中の顔

歯を磨いていたときだった。

母は一階で入所手続きをしており、エミリーは上段のベッドで眠っていた。

洗面台の照明は、点けると数秒遅れて明るくなる。

私は口に歯ブラシを咥えたまま、黄色い光が安定するのを待っていた。

鏡の中には、私の顔と、背後の二段ベッドが映っている。

そのさらに奥。

部屋の隅に、黒いものがいた。

初めは、母のコートだと思った。

けれどコートには、二つの目はない。

鏡の隅から、毛に覆われた顔がこちらを見ていた。

顔の輪郭は犬に似ていた。

鼻が長く、頬まで灰色の毛が生えている。

しかし目だけは人間のものだった。

充血した白目の中で、黒い瞳が左右へ小刻みに動いていた。

私は振り返らなかった。

鏡の中のものと目が合ったまま、声も出せずに立っていた。

それは少しずつ口を開いた。

歯は見えなかった。

口の中には、濡れた土のような暗闇だけがあった。

次の瞬間、鏡が内側から曇った。

白い膜が怪物の顔を覆い、私自身の姿まで消した。

私は歯ブラシを落とし、廊下へ飛び出した。

階段を転げるように下り、食堂でキャロルと話していた母へ抱きついた。

「鏡にいた」

「何が」

「犬みたいな人」

母の身体が固くなった。

それを感じた瞬間、私は言ってはいけないことを言ったのだと思った。

母はキャロルを見た。

キャロルは慌てず、私と同じ目の高さまで腰を屈めた。

「一緒に見に行こう」

三人で部屋へ戻った。

鏡には何もいなかった。

曇りも消えていた。

キャロルは鏡を壁から外し、裏側を確認した。

配管の中へ小型カメラを入れられていないか、壁に穴がないかまで調べた。

それから窓の鍵、ベッドの下、収納棚を順に確認した。

怪物を信じたのではない。

誰かが外から部屋を覗いていないか、先に確かめたのだ。

「鏡を外しましょうか」

キャロルは母へ訊いた。

私は外してほしかった。

ところが母は首を横に振った。

「普通の部屋にしてください。子供たちに、怖いものが本当にいたと思わせたくないんです」

その夜、母は私のベッドへ入った。

狭い下段で、私を胸に抱いて眠った。

私は母の心臓の音を聞いていた。

以前の家では、父が階段を上がってくるたび、母の心臓は同じ速さで鳴った。

私は長いあいだ、父が母を殴ったという言葉を使えなかった。

父は母の腕を掴んだだけ。

扉を蹴っただけ。

皿を壁へ投げただけ。

車の鍵を隠しただけ。

電話を壊しただけ。

母を愛しているから怒っただけ。

そう言い換える方法を、私は父の言葉から覚えていた。

避難所へ来てから、別の言葉を教わった。

暴力。

支配。

監視。

威嚇。

子供を使った脅し。

言葉が変わっても、私の身体に残った記憶は変わらなかった。

大きな物音がすると肩が上がる。

男性の足音を聞くと、出口を探す。

寝る前に窓と扉を何度も確認する。

暗い鏡の中に、誰かの顔を探す。

今になって考えれば、鏡の怪物は、疲労と恐怖が見せた像だったのかもしれない。

知らない部屋。

長い移動。

壊れた睡眠。

父に見つかるかもしれないという緊張。

子供は恐怖を、言葉ではなく形として見ることがある。

だが、その説明だけでは、次の夜から現れた男のことが分からない。

第三章 足元の男

目を覚ましたとき、母は自分の簡易ベッドへ戻っていた。

窓の外では雨が降っていた。

街灯の光がカーテンを通り、部屋を淡い青色に染めていた。

足元に、男が立っていた。

鏡の怪物ではない。

毛に覆われてもいない。

四十歳くらいの、痩せた白人男性だった。

髪は薄い金色で、額へ数本垂れている。

灰色のシャツの袖を肘まで捲り、茶色い作業用ズボンを穿いていた。

靴は見えなかった。

暗くて見えないのではない。

膝から下が、床近くの影に溶けていた。

私は布団を鼻まで引き上げた。

男は私を見ていた。

怒ってはいない。

笑ってもいない。

病院の廊下で、眠る家族を待っている人のような顔だった。

私は上段へ小声で呼びかけた。

「エミリー」

妹は眠っている。

「エミリー、起きて」

返事はない。

母も起きない。

男は動かなかった。

私は目を閉じた。

百まで数えてから、もう一度開いた。

まだいる。

千まで数えた。

男は同じ場所に立っていた。

いつの間にか眠り、朝になった。

男はいなかった。

私は母へ話さなかった。

鏡の怪物で大騒ぎした翌日だったからだ。

また「見た」と言えば、母は心配する。

別の施設へ移らなければならなくなるかもしれない。

それに、男からは鏡の怪物と同じ恐怖を感じなかった。

次の夜も、男は現れた。

私は眠りにつく前、足元に誰もいないことを確かめた。

午前二時ごろ目覚めると、彼は昨日と同じ場所に立っていた。

三日目も。

四日目も。

雨の日も、晴れた日も。

照明を点けたまま眠っても、椅子をベッドの足元へ置いても、男は現れた。

椅子がある夜には、そのすぐ後ろへ立った。

男の身体が椅子を透過したわけではない。

朝になると、椅子は私が置いた場所から少し横へ動いていた。

私は夜ごとに、彼を観察するようになった。

瞬きをしない。

呼吸に合わせて胸が動くこともない。

それでも彫像には見えなかった。

こちらが寝返りを打つと、目だけがゆっくり動いた。

私が悪夢で目を覚ますと、わずかに眉を寄せた。

エミリーが咳き込んだ夜には、一度だけ上段を見上げた。

男は私たちを怖がらせるためにいるのではない。

そのことだけは、子供の私にも分かった。

彼は見張っていた。

私たちではなく、扉を。

第四章 ヘイヴンの夜番

避難所で暮らす子供たちには、眠れない者が多かった。

廊下で会うと、誰もが自分の部屋にだけ起きることを話した。

隣室の少女は、午前三時になると窓を小石で叩く音がすると言った。

一階にいる兄弟は、閉じた物置の中から毎晩ラジオが聞こえると話した。

小さな男の子は、台所の床を裸足の女性が歩くのを見たという。

職員は古い配管と暖房設備の音だと説明した。

私は足元の男について話さなかった。

他の子供に名前を付けられるのが嫌だった。

幽霊。

死神。

殺された人。

そう呼ばれた瞬間、彼が別のものになってしまう気がした。

私は心の中で「夜番」と呼んだ。

夜番は毎晩現れた。

一度だけ、私は勇気を出して話しかけた。

「あなたも、ここに逃げてきたの?」

男は答えない。

「誰かに追われているの?」

反応はない。

「ぼくたちを守っているの?」

そのとき、彼の視線が扉から私へ戻った。

それだけだった。

十一月になると、母は町の食料品店で働き始めた。

勤務中、私と妹は放課後の学習室で母を待った。

母は少しずつ笑うようになった。

自分の名義で銀行口座を作り、中古車を買うための金を貯めた。

新しい住居の申請書も書いた。

けれど父からの電話は続いていた。

避難所の番号は知られていない。

母の携帯電話も解約した。

それでも母の勤務先に、無言電話がかかるようになった。

学校の受付には、親戚を名乗る男から私たちの在籍を確かめる電話があった。

父だったかどうかは分からない。

確かめる方法もない。

キャロルは、毎朝の送迎経路を変えた。

学校には迎えに来られる大人の顔写真が渡された。

母は車へ乗るたび、後ろを確認した。

ある夕方、避難所から二百メートルほど離れた道路に、同じ青い車が三日続けて停まっていた。

職員が警察へ相談すると、四日目から車はいなくなった。

所有者が父だったという記録はない。

ただ、その頃から夜番の立つ場所が変わった。

以前はベッドの足元にいた。

十一月の終わりには、扉の近くへ立つようになった。

十二月には、身体の半分を扉へ向けていた。

その顔から、静かな悲しさが消えた。

顎に力が入り、何かを待っているように見えた。

「誰か来るの?」

私は何度も訊いた。

男は答えない。

十二月十四日の深夜。

廊下で金属を擦るような音がした。

鍵穴へ細いものを差し込んでいるような音だった。

私は布団の中から夜番を見た。

彼は扉の前に立っている。

音は廊下の奥から、一部屋ずつ近づいてきた。

カリ。

カリ。

止まる。

また、カリ。

誰かが各部屋の扉を調べている。

私は母を起こそうとした。

その瞬間、夜番がこちらを見た。

動くな。

そう言われた気がした。

音は隣の部屋まで来た。

扉の取っ手が、ゆっくり下がった。

だが開かなかった。

廊下の非常灯が点き、職員の声が響いた。

「誰かいるの?」

音は止まった。

職員が廊下を調べても、人はいなかった。

非常口も玄関も施錠されていた。

翌朝、職員は暖房管が収縮する音だったのだろうと言った。

扉の錠には、細い引っ掻き傷が残っていた。

夜番は、その夜から扉へ背中を向けなくなった。

第五章 髪の濡れた肖像

年末、避難所では寄付された衣類や玩具を整理する作業が行われた。

私は倉庫から古い段ボール箱を運ぶのを手伝った。

箱の一つに、開設当時の写真が入っていた。

建物の改修工事。

最初の職員。

寄付者。

庭へブランコを設置する作業。

何十枚もの写真の中に、灰色のシャツを着た男がいた。

私は写真を落とした。

薄い金髪。

痩せた顔。

肘まで捲った袖。

毎晩、私の部屋に立っている男だった。

写真の中で、彼は別の男性と一緒に玄関扉を運んでいた。

現在も使われている、三つの錠が付いた分厚い扉である。

写真の裏には、日付と短い文章が書かれていた。

「ボランティアによる入口補強」

個人名はなかった。

キャロルへ男のことを訊くと、写真をしばらく見つめた。

「私は知らない人ね。ここができたのは、私が働き始める前だから」

「もう死んでる?」

「そうとは限らないでしょう」

「名前は?」

「写真だけでは調べられないわ」

キャロルは、その写真を箱へ戻した。

私が持っていたいと言うと、首を横に振った。

避難所に関係した人々の顔写真を外へ持ち出すことは、安全上好ましくないという。

その説明は正しかった。

ただ、私には別の理由があるように見えた。

キャロルは写真を裏返すとき、男の顔へ触れないよう、端だけを持っていた。

その夜、私は夜番へ写真のことを話した。

「玄関を作った人なの?」

男は動かない。

「ここで働いていたの?」

返事はない。

「死んだから、夜に来るの?」

その問いを口にすると、部屋の温度が下がった。

夜番の顔が、初めてはっきり変わった。

怒ったのではない。

怯えたのでもない。

寂しそうに目を伏せた。

私は謝った。

それから、彼が死者かどうかを訊くのをやめた。

一月に入り、私たちが避難所を出る日が決まった。

母は小さなアパートを借りた。

住所は公的な保護制度を利用して伏せられ、学校も変わることになった。

引っ越しまで、あと九日。

夜番を見るのも、あと九回だと思った。

八回。

七回。

毎朝、残りの夜を数えた。

彼と別れたくないわけではなかった。

けれど新しいアパートに彼が現れなければ、そこから先は私が母と妹を見張らなければならない気がした。

引っ越しの三日前、エミリーが熱を出した。

母は妹の看病をしながら荷物をまとめ、深夜になってようやく眠った。

私は赤い懐中電灯を握り、夜番を待った。

午前一時を過ぎても現れない。

二時。

三時。

いつもなら目を覚ますと、すでにいるはずだった。

その夜だけ、部屋のどこにもいなかった。

午前三時十五分。

一階で電話が鳴った。

職員が取る前に切れた。

すぐにもう一度鳴る。

また切れる。

三度目、職員は受話器を取らなかった。

電話は十二回鳴り続けた。

十三回目のベルが鳴る代わりに、玄関の外から三度、ノックの音がした。

コン。

コン。

コン。

施設にいる全員が起きた。

廊下の照明が点いた。

キャロルではない夜勤職員が、監視カメラの画面を確認した。

玄関前には誰も映っていなかった。

警察へ連絡し、建物の周囲を調べてもらった。

足跡も、車も見つからなかった。

電話の発信元は非通知だった。

母は私と妹を抱き、明け方まで眠らなかった。

朝になってから、夜番は現れた。

初めて、昼の光の中に立っていた。

ベッドの足元ではない。

鏡の中に。

灰色のシャツは雨に濡れ、髪から水が滴っていた。

男は鏡の中から玄関の方向を見ていた。

私は振り返った。

現実の部屋には誰もいない。

もう一度鏡を見ると、男も消えていた。

洗面台には、黒い水滴が三つ落ちていた。

第六章 最後の見張り

引っ越しの前夜、雪が降った。

太平洋岸北西部の湿った雪は、地面へ落ちるとすぐ水へ変わる。

庭のブランコは濡れ、黄色い滑り台の上に薄い白膜ができた。

母は荷造りを終え、明日の朝一番に出発すると言った。

キャロルが用意した新しい経路を使い、途中で車を乗り換える。

新居の住所は、私たち三人と限られた支援者しか知らない。

「今度の部屋には、あなた専用のベッドがあるのよ」

母はエミリーへ言った。

「お兄ちゃんも、自分の部屋を持てる」

私は嬉しいふりをした。

だが、眠るのが怖かった。

夜番が最後に何をするのか。

何もせずに消えるのか。

新しい家まで付いてくるのか。

それとも、私たちが出ていくことを知らないのか。

消灯後、私はベッドへ横になり、赤い懐中電灯を胸の上に置いた。

母の呼吸。

妹の寝息。

暖房機の低い唸り。

屋根から水滴が落ちる音。

午前一時を過ぎた。

夜番は現れない。

私は安心したような、見捨てられたような気持ちになった。

まぶたを閉じた。

次に目を開けると、男はベッドの足元にいた。

いつもの場所。

いつもの服。

ただし顔は、扉ではなく窓へ向けられていた。

外の暗闇に、青白い光が一度走った。

車のヘッドライトだった。

光はすぐに消えた。

エンジン音も聞こえない。

夜番が右手を上げた。

四か月のあいだ、微動だにしなかった腕だった。

人差し指を唇へ当てる。

「彼が来る」

男が初めて口を開いた。

低く、掠れた声だった。

「今すぐ出なさい」

私は身体を起こした。

男は部屋の扉を指した。

「今夜は、ここにいてはいけない」

第七章 裏口からの退去

私は母を揺すった。

母は一度では起きなかった。

「ママ、起きて」

「どうしたの」

「男の人が、来るって」

その一言で、母の目が開いた。

鏡の怪物や夜番について話したときとは違った。

理由を尋ねない。

夢だとも言わない。

母は上段からエミリーを抱き下ろし、コートを着せた。

旅行鞄には手を触れなかった。

財布、鍵、薬、書類だけを小さな肩掛け鞄へ入れる。

私は赤い懐中電灯を持った。

母が部屋の扉を開ける。

廊下の非常灯が弱く点いている。

夜番はもういなかった。

母は夜勤職員を起こした。

「ここを出ます」

「今から?」

「誰かが来ています」

職員は監視画面を確認した。

玄関。

庭。

横の通路。

車は映っていない。

「警察を呼びましょう」

「待てません」

母の声には、以前の家を出た朝と同じ硬さがあった。

職員は母を説得しなかった。

避難所の裏口から出て、提携しているホテルへ移る手配をした。

他の入所者を起こすかどうかは、別の職員と警察へ連絡して判断するという。

私たちは建物の裏に停められた車へ乗った。

雪は雨に変わっていた。

運転席にはキャロルがいた。

夜勤職員から連絡を受け、急いで来たのだ。

「何を見たの」

キャロルは私ではなく、母へ訊いた。

母は答えた。

「息子が、危険だと言いました」

それだけだった。

キャロルは車を出した。

裏通りを二度曲がり、大きな道路へ入る。

私は後部窓から避難所を見た。

二階の私たちの部屋に、男が立っていた。

カーテン越しの輪郭だけが見える。

彼は室内ではなく、建物の外を向いていた。

車が角を曲がる直前、男は窓から離れた。

同時に、避難所の正面側で小さな光が動いた。

懐中電灯のように見えた。

ホテルへ着いたのは午前三時過ぎだった。

母は扉の前へ椅子を置き、私と妹を一つのベッドへ寝かせた。

誰も眠らなかった。

午前六時四十分、キャロルの携帯電話が鳴った。

彼女は廊下へ出て話した。

戻ってきたとき、顔色が変わっていた。

「昨夜、建物に誰かが入りました」

玄関の錠に大きな損傷はなかった。

侵入者は一階の洗濯室にある小窓から入り、内側の留め金を外したらしい。

窓は外から見えにくい場所にあった。

施設の構造を知る者でなければ、そこを選ばないと考えられた。

廊下の収納棚が開けられていた。

職員室。

食堂。

一階の居室。

二階の居室。

誰かが部屋を一つずつ調べていた。

金品は盗まれていない。

薬も、書類も残っていた。

荒らされていたのは、私たちが使っていた二階の部屋だった。

ベッドの布団が剥がされ、収納棚の衣類が床へ落とされていた。

洗面台の鏡は壁から外され、割れていた。

「誰が入ったの」

私は訊いた。

キャロルは答えなかった。

「父さん?」

母は私を抱き寄せた。

「分からない」

警察が侵入者を特定したのか。

父が関係していたのか。

原素材の匿名投稿にも、その後の記録はない。本稿の中でも、それを事実として断定することはできない。

キャロルから聞かされたのは、もう一つだけだった。

私たちの部屋の扉には、内側から大きな力が加わった痕跡があったという。

侵入者が廊下側から取っ手を回し、押し開けようとした形跡。

だが扉は開かなかった。

鍵は掛かっていなかった。

私たちが慌てて退出したとき、母は施錠を忘れていた。

それでも扉は、警察が到着するまで動かなかった。

複数の警官が押しても開かず、最後には蝶番を外した。

扉の内側には家具も荷物も置かれていない。

ただ、木製の表面に、二つの濡れた手形が残っていた。

大人の男の手。

扉を内側から押さえ続けたように、肩の高さへ並んでいた。

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