序章 門楣の刻み傷と、十里の闇

埃っぽい国道を西へ向かってペダルを漕ぎ続けるうち、アスファルトの熱気はいつしか冷え切った夕暮れの黄砂へと呑み込まれていった。

大学の学部四年生の晩春、卒業後の就職先も内定し、学生生活の最後の猶予を持て余していた私たちは、若さ特有の無軌道な熱情に任せて、北京から自転車でチベットのラサを目指すという無謀な旅に出た。だが、勇ましかったのは最初の数日だけであった。重い荷物を括り付けたギア無しの自転車で一週間走り続け、河北を越えて河南の省境に足を踏み入れた頃には、全員の太ももは鉛のように軋み、掌の豆は潰れ、もはや一里を進む気力すら尽き果てていた。

国道を外れ、宿を求めて山裾の脇道へと折れたのは、すでに太陽が西の尾根の向こうへ没した黄昏時であった。

周囲は見渡す限りの荒涼たる丘陵地帯であり、耕作を放棄された赤土の斜面に、古びた無縁墓の盛り土が不揃いに並ぶばかり。空腹と疲労で意識が朦朧とする中、急峻な涸れ谷の底へと続く曲がりくねった坂道を下りきった先に、突如として石造りの集落が姿を現した。

だが、その集落の佇まいは、人が暮らす場所のそれとは根本的に異なっていた。

谷底にへばりつくように並ぶ数十軒の石積みの家々には、ただの一つの窓にも明かりが灯っていなかった。夕餉の煙を上げる煙突もなく、牛馬の啼き声も、夜の山里に響くはずの野良犬の遠吠えすら聞こえない。死んだような静寂の中に、湿った土と古いカビの臭気だけが、重い霧となって立ち込めていた。

「おい、誰もいねえのか……? すみません、旅の者ですが!」

私たちが埃まみれの自転車を停め、手近な民家の木戸に向かって声を張り上げた、その時であった。

同行者の中で最も沈着冷静で、普段は口数の少ない農村出身の友人——老厳(ラオ・イエン)が、突如として血相を変え、私の襟首を力任せに掴んで後ろへと引きずり戻したのである。

老厳の視線は、その民家の正面——粗削りの石の門柱に渡された、風雨に晒されて黒ずんだ木製の「門楣(もんび=戸口の上の鴨居)」へと釘付けになっていた。

懐中電灯の細い光条が照らし出したその古木の表面には、荒々しい刃物で力任せに叩き切られたような、深さ数センチに及ぶ鋭利な「刻み傷」が、横に三筋、無造作に刻み込まれていた。

「……引き返せ! 今すぐここを出るんだ!」

老厳の声は、聞いたこともないほど激しく裏返っていた。

「早くしろ! 自転車を押せ! 振り向くな、絶対に敷居を跨ぐんじゃないッ!」

老厳の形相に気圧された私たちは、理由も分からぬまま自転車のハンドルを握り直し、逃げるようにその無人の谷底を駆け上がった。

谷を抜け、夜の山道をさらに十数里(数キロメートル)進んだ先で、私たちはようやく一台のトラクターが停まった有人の民家を見つけ出し、転がり込むようにして一夜の宿を乞うたのである。

第一章 太行山脈の呪われた秀才村

民家の主人は、五十代半ばの頑健な農夫であった。

私たちが泥まみれの服で居間に倒れ込み、先ほど通り過ぎた谷底の無人村の名を告げた瞬間、主人が手にしていた茶碗がガタリと音を立てて卓の上に落ちた。

主人は戸口へ駆け寄って外の暗闇を窺い、頑丈な木の閂を二重に下ろすと、青ざめた顔で私たちを睨み据えた。

「お前たち……あそこへ足を踏み入れたのか? 家の中へ入ったのか?」

「いいえ、門の前まで行っただけです。連れが急に引き返せと叫んだので……」

私が答えると、主人は胸を撫で下ろし、深く、長い溜息を吐き出した。

「命拾いしたな。もし一歩でも敷居を跨いでいたら、今頃はお前たち全員、魂を抜かれてあの谷底の土饅頭の仲間入りをしていたところだ」

主人が囲炉裏の火に薪をくべながら語り始めたその土地の歴史は、私たちの疲弊した脳髄を芯から凍りつかせるに十分な業の深さを湛えていた。

その廃村は、かつて「秀才村」と呼ばれていた。

太行山脈の清らかな地気が吹き溜まるその谷は、明代の初めから風水に優れた吉相の地とされ、科挙の試験ごとに何人もの秀才(一次合格者)を輩出し、瓦屋根の邸宅が立ち並ぶ豊かな集落であった。

だが、清朝の末期、その一族の血筋の中に、袁三(エン・サン)という名の稀に見る無頼漢が産み落とされたことから、破滅の歯車が狂気の回転を始めたという。

袁三は放蕩と博打に身をやつし、親族の田畑を売り飛ばして無頼を極めていたが、ある年の夏、原因不明の奇病に取り憑かれた。

全身の皮膚に、大人の茶碗ほどもある巨大な膿腫が次々と噴き出し、骨の髄を針で抉られるような激痛に昼夜を分かたず転げ回った。どんな名医も匙を投げ、死を待つばかりとなった袁三の前に、村を通りかかった一人の「盲目の易者」が現れた。

易者は道端の蒲草(ガマの葉)を引き抜き、地面に放り投げて卦を立てると、冷ややかに告げたという。

『東の太行山へ走れ。転んだ拍子に手の中に握りしめた草を、そのまま噛み砕いて生で呑み込め。さすれば毒は消え去るであろう』

半信半疑の袁三は、激痛に耐えかねて夜の太行山へと這い登り、岩肌に躓いて倒れた瞬間、掌に触れた名もなき野草を無我夢中で貪り食った。

すると奇跡のように腫れ物の痛みが引き、霞んでいた視界が白日のように開けた。

顔を上げた袁三の眼前に、金色に輝く古びた山洞が口を開けていた。

洞窟の奥、平らな岩床の上に、一頭の雪のように白い大狐が端座し、口元から真紅の霊丹(内丹)を吐き出しては吸い込み、月華の精を呑み込む修行に没頭していたのである。

袁三は草むらに身を潜め、狐仙が丹を収めて谷の深みへと姿を消すのをじっと待ち構えた。

そして洞窟へと忍び込んだ彼が目にしたのは、岩肌の窪み一面に積み上げられていた、気の遠くなるような量の黄金の古銭であった。

強欲に目の眩んだ袁三は、手持ちの麻袋に金銀を詰め込めるだけ詰め込むと、自らの悪行を隠蔽するため、乾燥した枯れ枝を洞窟の入り口に積み上げ、油を注いで火を放ったのである。

「……そいつが、すべての終わりの始まりだった」

農夫は震える手でタバコを巻き直した。

「あの狐仙洞にはな、千年の修行を積む大狐の血を引く、三十七代にわたる子狐や眷属たちが身を寄せていたんだ。無垢な霊物どもは、煙に巻かれ、出口を火で塞がれて、一頭残らず生きたまま焼き殺された。

戻ってきた狐仙の怒りは、天を衝いた。狐仙は自らの千年の道行を灰燼に帰すことを厭わず、東岳大帝の冥府へ血の誓状を差し出したのだ。『秀才村の人間を、最後の一人、最後の一滴の血に至るまで根絶やしにせよ』とな」

まず、洞窟の真下に住んでいた袁三の近親の一家八人が、ある夜、全員が互いの首を絞め合って変死した。

災禍はそれにとどまらず、東の家で首吊りが出れば、西の家で井戸への飛び込みが続いた。逃げ場を失った村人たちが再びあの盲目の易者に縋り付いたとき、老易者はただ天を仰ぎ、涙を流してこう告げたという。

『もはや大羅金仙(至高の神仏)とて救うことは叶わん。狐仙は天命を買い取り、この村を「封門(門を封じ、絶後とす)」の地に定めたのだ。男は妻を娶れず、女は子を孕めず、命脈は尽き果てる。

逃げろ。すべてを捨てて、この谷を去るのだ』

だが、土地に執着した村頭の一軒が、その警告を嘲笑い、隣村から嫁を迎えて吹奏楽を鳴らして婚礼を挙げた。

婚礼から七日も経たぬうちに、その家の親族五人が相次いで吐血して悶死し、残された花嫁は、紅い婚礼衣装を纏ったまま、客間の太師椅(重厚な木製肘掛け椅子)の上に立ち、天井の梁から首を吊って果てていた。

「それ以来、あの村の人間は一人、また一人と死に絶え、生き残りは夜逃げ同然に散り散りになった」

主人は窓の外の漆黒の山脈を指差した。

「俺たちの土地の掟だ。家の中で横死者が出るたび、親族は包丁を手に取り、死霊の怨念が外へ漏れ出さぬよう、そして冥府の役人に『ここはすでに死に満ちている』と知らせるために、門楣に一太刀、深く傷を刻み込む。……あの村の門という門に、どれだけの傷が刻まれていたか。

お前たち、その目で見たはずだ」

老厳は、囲炉裏の隅で膝を抱えたまま、一言も発しなかった。

ただ、その握りしめた拳の関節が、白く浮き上がるほどに強張っていたのを、私は確かに目撃していた。

第二章 白粉の結界と、鍾乳洞の骸骨坑

翌朝、夜明けの冷気が山肌を白ませる頃、私たちの間の空気は奇妙な興奮へと変質していた。

昨夜の恐怖は、陽光が差し込むとともに若者特有の無謀な好奇心へと姿を変え、誰からともなく「あの狐仙洞とやらを直接見に行ってみよう」という提案が持ち上がったのだ。

老厳は当初、苦虫を噛み潰したような顔で頑なに拒絶していたが、私たちが一人でも行くと言い張るのを見るや、深く嘆息し、「なら、俺が先頭に立つ。絶対に単独行動はするな」と、沈痛な面持ちで同行を承諾したのである。

農夫に大まかな方角を聞き出し、自転車を漕いで再びあの谷底へと引き返した。

昼の光の下で見る秀才村は、夜よりも一層、奇怪な廃墟の様相を晒していた。石造りの家々の屋根は抜け落ち、路地には人間の背丈を超える雑草が生い茂り、そして昨夜見たあの門楣の切り込み傷が、黒々と口を開けて私たちを見下ろしていた。

狐仙洞は、村の背後に聳える小高い岩山の、断崖の中腹に口を開けていた。

険しい獣道を這い登ると、幅二メートル、高さ一人分ほどの天然の洞口が現れた。

異様だったのは、その洞口を取り囲むようにして、岩肌一面に白い粉(石灰)で描かれた無数の同心円の紋様であった。

「……これは何だ?」

同行の友人が呟くと、老厳が低く答えた。

「狼除けの印だ。狼は警戒心が強い。人工的な白い輪を見ると罠だと誤認して、穴に近づかなくなる。……昔の人間が、野獣の侵入を防ぐために描いたものだ」

洞口の前に立つと、冷湿な隙間風とともに、鼻腔を突く強烈な「獣の脂と腐敗の臭気」が吹き抜けてきた。

洞内には、泥で形作られた狐の神像が安置されていたが、長年の湿気で顔面の上半分が剥落し、剥き出しの土の頭蓋が不気味に歪んでいた。香炉の灰にはカビが生え、かつて供えられたのであろう豚の頭や菓子は、炭のように黒く干涸らびて異臭を放っている。

洞口の足元には、掘り出されたばかりのような新しい砂土の山が築かれており、その崩れた斜面から、白く変色した無数の「小さな動物の骨片」が露出していた。

「おい、松明を作れ。奥があるぞ」

私たちは近くの枯れ松の枝を束ね、シャツの切れ端を巻きつけて即席の火信(松明)を灯した。

炎が揺らめき、洞窟の奥へと歩みを進める。

外の狭隘な印象とは裏腹に、内部は十数メートル進んだところで一気にドーム状に開けていた。

巨大な鍾乳石が天井から槍のように垂れ下がり、炭酸カルシウムの結晶が火の粉を反射して、まるで地下の宮殿のように妖しく煌めいている。

だが、その幻想的な光景を塗り潰したのは、最奥部に穿たれていた「深き竪穴」であった。

鍾乳洞の床面を、近代的なツルハシや爆薬によって力任せに掘り進めたような、幅三メートル、深さ五メートルを超える巨大な発掘孔。

その穴の底から引き揚げられたとおぼしき砂利の山の上には、家畜のものとは明らかに骨格が異なる、細長い脊椎や、割れた肋骨、そして小さく変形した「霊長類の骨」が、土砂と完全に一体化して堆積していた。

「人骨だ……」

誰かが息を呑んだ。

「古代の殉葬坑か……? それとも、墓荒らしが暴いたのか……?」

その時、竪穴の縁に立っていた老厳が、火信を片手に持ったまま、背後の巨岩の前で金縛りに遭ったように立ち尽くした。

「……見ろ」

老厳の声は、まるで胸の底から絞り出されたようにかすれていた。

彼が指し示した石壁の中央。

何百年ものあいだ地下水に洗われ、表面が滑らかに風化した暗褐色の岩肌に、一つの「浮き彫り(レリーフ)」が刻まれていた。

描かれていたのは、黒々とした一頭の小獣であった。

四肢の関節は柔軟にしなり、長い尾を岩の上に巻きつけている。その輪郭は紛れもなく一頭の狐であった。

だが、その佇まいは、四つ足の獣のそれとは根本的に異なっていた。

狐は、大人の人間のように背筋をピンと伸ばして岩の上に端座し、前足の鋭い爪で「一つの紫色の鈴」を高く掲げていた。

そして、その顔面——細く研ぎ澄まされた狐の頭部は、天を仰ぎ、月を見るかのように虚空を見つめ、その口元には、人間の老道士が浮かべるような、底知れぬ静謐な微笑が刻み込まれていたのである。

第三章 玉化せる沈香と、紫鈴を振る獣

獣でありながら、人を模し、天を拝する異形。

その彫刻から放たれる異様な霊気に、私たち全員が言葉を失っていた。

だが、最も異様であったのは、その石壁を見つめる老厳の「眼」であった。

普段の冷静沈着な彼の面影は完全に消失していた。瞳孔は極限まで開き、呼吸は荒く乱れ、額からは滝のような脂汗が流れ落ちている。

老厳は震える右手を自らの首元へと伸ばし、肌着の内側に隠されていた一本の赤い絹紐を引き抜いた。

紐の先端に結びつけられていたのは、親指大の小さな彫刻のペンダントであった。

「……え?」

私が息を呑んだ。

老厳の手のひらに載せられたその工芸品を一目見た瞬間、私の背筋に氷水が注ぎ込まれた。

それは、黒褐色に鈍く沈んだ、木製とも石製ともつかぬ異様な質感を湛えていた。長年にわたり何代もの人間の手によって撫で回され、汗と脂を吸い続けた結果、角が丸く削ぎ落とされ、表面がまるで古代の羊脂玉のようにトロリと半透明に硬化した——いわゆる「玉化(ぎょくか)した沈香木(ジンコウ)」であった。

東洋の香木において、「沈檀龍麝」の筆頭に挙げられる沈香。それも、数百年の樹齢を重ねた香樹が傷口から分泌した樹脂が完全に結晶化し、水に沈むほどの比重を持つに至った「沈水香」の極上品。

だが、その物質的な価値など、その表面に彫り出された造形の前には何の意味もなさなかった。

老厳の掌の上にあったその沈香の彫刻は——。

まさに今、目の前の石壁に刻まれている、あの「岩の上で端座し、鈴を掲げて天を拝する狐」の姿と、爪の先の一本に至るまで、完全に同一の意匠であったのだ。

「おい……老厳、それ……」

私が掠れた声で問うと、老厳は耳を貸さず、吸い寄せられるようにそのペンダントを石壁の彫刻の胸元へと重ね合わせた。

カチリ……。

石の凹凸と、沈香の木肌が、まるで最初から一つの塊であったかのように、寸分の狂いもなく噛み合った。

「うちの……先祖代々の家宝だ」

老厳の唇が、小刻みに痙攣していた。

「祖父の代から、長男の首だけに掛けられてきた護身の符だ。……うちの家系は、四代前まで素性を隠して河南から山東へ逃げてきたと聞かされていた。……まさか、ここだったのか……。俺たちの根は、この呪われた谷底にあったのか……」

同行の友人が、緊張をほぐそうとおどけた声を上げた。

「おいおい、偶然だろ! 狐の飾りなんて、中国中どこにでも売ってるじゃないか。俺の田舎の福建じゃ、商売繁盛でみんな狐を拝んでるぜ!」

「違う」老厳は低く首を横に振った。「この鈴の形を見ろ。これは道教の三清鈴じゃない。……冥府の亡魂を呼び集めるための、『招魂の紫鈴』だ」

石壁の背後を松明で照らすと、彫刻のすぐ裏側の岩盤が縦に裂け、人一人がようやく通れるほどの細い通路が、さらに地下深くへと口を開けていた。

通路の入り口には、太い松の丸太を荒縄で縛り合わせた、極めて粗末な「木製の梯子」が垂直に立て掛けられていた。

下を覗き込むと、松明の光すら届かぬ漆黒の深淵が広がり、地下水が岩肌を噛むゴボゴボという水音とともに、皮膚を刺すような絶対零度の冷気が吹き上がっていた。

「ここから先は、俺一人で行く」

老厳が唐突に言った。

「何を言ってるんだ、危険すぎる!」私が腕を掴んだが、老厳はそれを冷酷な力で振り払った。

彼の目は、もはや私たちの知る友人のものではなかった。

「呼んでいるんだよ。……血が呼んでいる。俺が確かめなきゃならないんだ」

老厳は一本の松明を左手に握りしめ、右手にあの沈香の狐を握りしめたまま、躊躇なくその木製の梯子へと足を掛けた。

彼の長身が、暗黒の縦穴の中へと一寸ずつ沈んでいく。

そして、その頭頂部が闇の底へと完全に呑み込まれた瞬間、洞窟の中には、ただ風の唸りと、私たちの荒い呼吸音だけが取り残されたのである。

第四章 漆黒の梯子と、消えた青年の影

老厳が竪穴の底へと消えてから、最初の十分間は、梯子が軋むギギギという鈍い摩擦音が断続的に響いていた。

「老厳! おい、大丈夫か!」

私たちが穴の縁から頭を突き出して叫ぶと、遥か地下深くから、反響して潰れた彼の声が微かに返ってきた。

『……大丈夫だ……まだ……続いている……』

だが、十五分が経過した頃、一切の音が途絶えた。

松明の火の粉の匂いも、足音も、呼吸の反響すら消滅した。

ただ、湿った石灰の冷気だけが、絶え間なく私たちの顔を撫で回す。

「老厳!!」

私たちは半狂乱で叫び続けた。二十メートル下の暗闇に向かって懐中電灯を照射したが、光は霧のような白濁した地下の蒸気に遮られ、底に何があるのかを映し出すことはできなかった。

二十分、二十五分。

警察を呼ぶべきか、それとも自分たちも梯子を下りるべきか。極限の恐怖と焦燥の中、同行の友人の一人が過呼吸を起こして泣き始めた、まさにその時であった。

ガサリ……。

穴の底から、泥を踏みしめる音が響いた。

続いて、ミシミシと木製の梯子が激しく揺れ動く振動。

何かが、下から登ってきている。

「老厳か!? 老厳なのか!」

懐中電灯のビームが、穴の出口を捉えた。

最初に這い上がってきたのは、泥と赤錆で真っ黒に汚れた「人間の左手」であった。爪の間には生々しい血の混ざった泥が詰まり、皮膚は凍傷のように青白くふやけていた。

続いて、全身に灰色の粉塵を浴びた老厳の頭部が、ゆっくりと地上へとせり上がってきた。

「うわあっ!」

私たちは思わず後ずさりした。

老厳の顔面には、生きた人間の表情というものが完全に失われていた。

土気色の皮膚、見開かれたまま瞬きをしない濁った瞳、そしてその唇の端からは、黒ずんだ涎が糸を引いて顎へと垂れ落ちていた。

彼は私たちが差し伸べた手を握り返すこともなく、獣のような奇怪な敏捷さで穴から這い出ると、背後の石壁の狐の彫刻に向かって、深々と一度だけ頭を垂れた。

「老厳……中に何があったんだ? 何を見たんだよ!」

私が彼の肩を掴んで激しく揺さぶった。

老厳はゆっくりと首を巡らせ、焦点を結ばない瞳で私の顔を見つめ返した。

その喉の奥から漏れ出たのは、人間の声帯とは思えぬ、低く掠れた、まるで二枚の石を擦り合わせたような乾いた摩擦音であった。

「……骨だ。……山ほどの人骨と……大人の手のひらほどもある、黒い毒蠍(サソリ)が……群れをなして這い回っていた……。それだけだ……早く……帰るぞ……」

それ以上の問いかけに対し、老厳は固く口を閉ざした。

顔色を蒼白にし、視線を宙に彷徨わせたまま、彼は憑かれたような足取りで洞窟を出て、山を下り始めた。

私たちはパニックの中、彼を追って山を下り、荷物をまとめるや否や、予定していたチベットへの旅をその場で打ち切ることを全会一致で決定した。

自転車を近くの町のスクラップ屋に二束三文で叩き売り、手に入れた小銭で夜行列車の硬座(普通席)の切符を買い、逃げるようにして北京へと逃げ帰ったのである。

大学に戻ってからの老厳は、何事もなかったかのように平穏な日常を取り戻したかに見えた。

ある夜、大学近くの薄暗い安酒場で二人きりで二鍋頭を酌み交わした際、老厳は普段の温厚な笑みを浮かべながら、あの日の恐怖を自らの知性によって綺麗に解体して見せたのだ。

「あの洞窟はな、ただの古代の盗掘現場だったんだよ」

老厳はピーナッツを口に放り込み、淡々と語った。

「あの白粉の輪も、狼を警戒した墓荒らしたちが描いたものだ。何かの地殻変動で地下の殉葬坑が露出したのを盗掘団が見つけ、財宝を運び出す間、村人を近づけさせないために袁三という悪漢を買収して狐仙の怪談を捏造させたのさ。洞窟の悪臭も、人骨が放つものに彼らが細工をしたに過ぎない。

……すべては、人間の欲が作り出した陳腐な茶番劇だったんだよ」

その説明は、極めて論理的であり、大学生の私たちの理性を納得させるに十分な整合性を持っていた。

「そうか、やっぱり人間の仕業だったのか」

私は胸の奥の痞えが下りるのを感じ、彼と杯を重ねた。

卒業後、老厳は中央官庁の直属機関という輝かしい職場へと配属され、同じ文学部の「系花(ミス学部)」と呼ばれていた絶世の美女と、周囲の誰もが羨むような華々しい結婚を果たした。

結婚披露宴の夜、私は自らの二ヶ月分の給与を叩いて購入した純銀の腕輪を、新婚の二人に贈った。

幸せの絶頂にある友人の背中を見送りながら、私はあの太行山脈の暗黒の谷底のことなど、急速に風化していく青春の苦い悪夢の一つとして、完全に忘れ去ろうとしていたのである。

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