序章 ゴンバクのスコールと、旧68号線の暗渠
首都クアラルンプールの北東部、高架鉄道の終着駅があるゴンバクの街路は、夜の十時を過ぎても、二十四時間営業のママッ・ストール(インド系イスラム大衆食堂)から漂うロティ・チャナイの焦げた油煙と、甘いテ・タリック(引出紅茶)の香気、そして行き交うスクーターのけたたましい排気音に満たされている。
年中無休の熱帯夜。汗ばむ肌にへばりつく湿度は九十パーセントを超え、近代的なショッピングモールとモスクのミナレットが放つネオンサインが、スコール上がりの濡れたアスファルトを毒々しい原色に染め上げている。
だが、その喧騒の坩堝からわずか数キロメートル、幹線道路を外れてティティワンサ山脈の奥地へと続く一本の旧道——「連邦68号線(ジャラン・ゴンバク・ラマ)」へと車輪を滑り込ませた瞬間、外界の光はナイフで切り落とされたかのように途絶える。
かつて近代的なカラック高速道路が開通する以前、首都と東海岸のパハン州を結ぶ唯一の動脈であったその峠道は、現在では街灯の一つすら存在しない。
両脇から覆いかぶさる樹齢数百年の巨大な熱帯雨林の樹冠、道路を跨ぐように湾曲した巨大な竹林(ブル・ブトン)のアーチ、そして切り立った断崖の底を這うゴンバク川の濁流。夜になれば、ヘッドライトの光条を乱反射する乳白色の濃霧が路面を覆い尽くし、ガードレールの途切れた暗黒の谷底へと旅人を誘い込む。
マレーシアには、この旧68号線やカラック旧道で遭遇した名もなきドライバーたちが、英語とマレー語の混交した無骨な文体で体験談を書き残すオンラインコミュニティが根付いている。
夜霧の急カーブの先に佇む、顔のないオラン・アスリ(先住民族)の老婆。
バックミラーの中で、無人の後部座席に音もなく腰を下ろしている白い人影。
そして、マレー半島において最も恐れられ、最も忌まわしい名を持つ樹上の悪霊——「ポンティアナック(出産で命を落とした女の怨霊)」。
その膨大な記録の深奥に、二〇一六年の初頭、大手通信会社の夜間緊急保守チームに所属していたある技術者によって投稿された、一本の戦慄すべき手記が存在した。
題名は、「ジャラン・ラマ・ゴンバク、十八マイル中継塔の屋根の上(Jalan Lama Gombak: Sesuatu di atas bumbung Hilux di Batu 18)」。
それは、深夜の山中で孤立した通信基地局を復旧させるため、一台の四輪駆動車で霧の峠へと分け入った二人の男が、自らの車の鉄板の上で聴き続けた、決してこの世の生者が立てるはずのない、鋭利な爪の音と甘美な死臭の記憶であった。
第一章 深夜三時の障害警報(アラーム)と、銀色のハイラックス
二〇一二年五月、二十四歳であった私——陳偉傑(チェン・ウェイキット、通称アキット)は、クアラルンプール近郊を管轄する大手移動体通信キャリアの一次下請け企業で、光ファイバーおよび基地局設備のフィールド・エンジニアとして働いていた。
昼間はオフィスビルや住宅街のアンテナ調整に追われていたが、月に一週間の頻度で、深夜の突発停波に対応する「オンコール(緊急待機)」の当番が回ってきた。
その夜の緊急呼び出しが鳴り響いたのは、日付が変わって午前二時四十五分のことであった。
ゴンバクの保守基地で仮眠を取っていた私のスマートフォンが、甲高いエラー音を吐き出した。
画面に点滅していたのは、パハン州との境界に近い山腹、標高七百メートルの山嶺に設置された「第十八マイル中継局(BTS Batu 18)」の全系ダウンを示す赤い警告メッセージであった。
落雷か、あるいは地滑りによる基幹光ケーブルの破断。同中継局が機能を停止すれば、近隣の谷間に点在する集落の通信網が完全に途絶することになる。
「おい、アキット。起きろ、現場へ行くぞ」
仮眠室のドアを押し開けたのは、私の指導役であり、二十年近くこの山間部のインフラを守り続けてきたマレー系の主任技術者、アバン・ロスリであった。
四十五歳のロスリは、浅黒く日焼けした皮膚に太い腕を持ち、腰には常に使い古されたレザーマンの万能工具と、祈祷の施された小さな真鍮の護符をぶら下げている実直な男であった。
私たちが乗り込んだのは、悪路走破用に車高を上げ、ウインチと大型シュノーケルを装着したシルバーのトヨタ・ハイラックスであった。
荷台には発電機、接続用融着機、予備の光ケーブルドラム、そして重い工具箱が満載されていた。
午前三時十分、ハイラックスの四気筒ディーゼルエンジンが唸りを上げ、私たちはゴンバクの市街地を離れて旧68号線へと突入した。
アスファルトの舗装は、街を出てわずか十分でひび割れ、路肩からは人間の背丈を超えるシダ類と巨大な竹が、車体を擦らんばかりに覆いかぶさってきた。
外界の音は、ハイラックスの太いタイヤが跳ね上げる濡れた泥と砂利の音、そして夜霧を切り裂くワイパーのゴムの摩擦音だけになった。
フォグランプの黄色いビームの先、十メートル先には濃密な白煙のような霧が渦を巻き、まるで車ごと冷たい水の底へと潜行していくかのような錯覚を覚えた。
「アキット、窓を少し開けておけ」
ロスリが煙草に火をつけず、真剣な眼差しで暗闇のカーブを見つめながら低く言った。
「この道で一番大事なのは、目じゃない。鼻だ。……もし外の空気が、急に甘い花の匂いに変わったら、何があっても車を止めるな。俺が『伏せろ』と言ったら、頭をダッシュボードの下に突っ込め。いいな」
私は生唾を飲み込み、エアコンの風量を落としてパワーウィンドウを二センチほど下げた。
車内に流れ込んできたのは、熱帯雨林特有の、濡れた赤土と腐葉土、そして夜咲きの野草が放つ青臭い夜気だけであった。
何事もない。ただの年寄りの迷信だ。
私は助手席のコンソールに置かれた基地局の系統図に目を落とし、自らを納得させようとしていた。
第二章 フランジパニの芳香と、ルーフの上の質量
異変が車内を急襲したのは、第十五マイルのヘアピンカーブを抜け、両脇を何十本もの巨竹が取り囲む、光の届かぬ窪地へと差し掛かった瞬間であった。
スゥ……。
窓の隙間から、匂いが侵入してきた。
雨上がりの森の青臭さが、一瞬にして掻き消えた。
鼻腔を突いたのは、むせ返るほどに濃厚で、甘美な「ブンガ・クンボジャ(フランジパニ/カンボジャの花)」の芳香であった。
墓地の周囲に好んで植えられる、あの白く肉厚な死者の花。
だが、その香気に息を呑んだのも束の間——わずか三秒遅れて、信じがたい「悪臭」が津波のように車内を満たしたのだ。
それは、真夏の熱帯の太陽の下で何日も放置され、ウジが湧いて腹腔が破裂した野犬の死骸と、ドブ川の底から汲み上げたヘドロを混ぜ合わせたような、喉の奥が痙攣するほどの「腐敗臭」であった。
「……ッ!」
ロスリの顔色が一変した。
彼はギアをセカンドへと叩き込み、アクセルペダルを床板まで踏み込んだ。
ターボディーゼルが悲鳴を上げ、ハイラックスの車体が泥を蹴立てて急加速する。
「ロスリさん、この匂い……!」
「前を見ろ! 窓を閉めろッ!」ロスリが怒鳴った。
私が震える手でロックスイッチを押し、窓ガラスが完全に閉ざされた、まさにその刹那であった。
ドォォォォンッ!!
ハイラックスの屋根の中央——私たちの頭上わずか三十センチの鉄板の上に、大人の人間が空中から飛び降りて着地したかのような、凄まじい「質量」が直撃した。
サスペンションが軋み、前輪のタイヤが泥の上で横滑りを起こす。
百キログラムを超える重い肉塊が、車の上にのしかかっている。
ルーフの鉄板がメリメリと鈍い音を立てて内側へとわずかに湾曲し、天井の内張りのフェルトが、上からの圧力で頭頂部に触れんばかりに沈み込んできた。
ギ……ギギ……ギギギギッ!
耳を劈くような高周波の摩擦音が、天井の鉄板から響き渡った。
何者かが、自らの長く研ぎ澄まされた「爪」を、ハイラックスの屋根の塗装へと突き立て、力任せに引き裂いている音であった。
鋼鉄の板を肉片のように削り取る、硬質な生々しい感触。
振動がピラー(窓柱)を伝い、私の座るシートの骨組みへと直接這い上がってくる。
「ひ……っ!」
私は恐怖のあまり息を呑み、反射的にルームミラーへと視線を持ち上げようとした。
助手席の後方、荷台の窓の向こうの暗がりを確認しようとしたのだ。
バチンッ!!
ロスリの左手が横合いから伸び、私の首根っこを力任せに引き倒した。
私の顔面がダッシュボードのグローブボックスへと叩きつけられた。
「見るなと言ったのが分からんのかッ!!」
ロスリの喉から、血を吐くような絶叫が漏れた。
「ミラーを見るな! 目が合ったら最後、首を引っこ抜かれるぞ! 前だけを見ろ、前だけを!!」
ロスリはハンドルを両手で万力のように固定し、曲がりくねった峠道を、狂ったような速度で疾走させ続けた。
屋根の上からは、風の音に混じって、聞こえていたのだ。
ケタケタケタケタ……ッ! ヒヒヒヒヒヒヒ……ッ!
それは、遠く数里の山裾から響いているようにも、耳朶の真後ろ数センチで囁かれているようにも聞こえる、空間の遠近感を完全に狂わせる「女の哄笑」であった。
笑い声が甲高く響くたび、車の計器類のバックライトが激しく明滅し、スピードメーターの針がゼロと百二十キロの間を狂ったように往復した。
屋根の上の怪異は、自らの長い濡れた毛髪を窓ガラスの外側に垂れ流しながら、私たちの車を揺さぶり続けていたのである。
第三章 孤立せる第十八中継塔と、カポックの巨木
霧の切れ間に、鉄条網で囲まれたフェンスと、天を突く赤と白の通信タワーの骨組みが見えたのは、午前三時四十分のことであった。
第十八マイル中継局。
ロスリはブレーキを踏み込み、ハイラックスのフロントバンパーをチェーンで施錠されていたフェンスの鉄扉へと力任せに衝突させた。
ガシャンッ! と錆びた鎖が引きちぎれ、車体は敷地内の砂利の上へと滑り込んだ。
車が停車した瞬間——。
パッと、頭上の重圧が消失した。
屋根を削っていた爪の音が止み、あの耳を劈く哄笑も、深い霧の彼方へと吸い込まれるように消え去った。
車内にはただ、アイドリングを続けるディーゼルエンジンの重低音と、私たちの荒い呼吸音だけが取り残された。
「……降りたのか?」
私が顔を上げ、恐る恐る尋ねた。
ロスリは答えず、ハイラックスのグローブボックスから、古い真鍮の柄を持つ伝統的な短剣——「クリス(Keris)」を引き抜いた。
刃は黒ずみ、波打つ鋼には煙草と沈香の油が塗り込められていた。
「荷台から発電機用の燃料と融着機を掴め」ロスリは短剣を腰のベルトに差し、硬い声で命じた。「機器収容局舎(シェルター)へ逃げ込むぞ。外にいたら五分と持たん」
私たちはドアを蹴り開け、夜気の中へと飛び出した。
外気温は二十度近くまで落ち込んでおり、霧雨が肌を針のように刺した。
だが、荷台の荷物を掴もうと振り向いた瞬間、私は自分の目を疑った。
ハイラックスのルーフ——銀色の塗装が施されていたはずの天井板の中央に。
まるで巨大な猛禽の鉤爪で滅多打ちにされたかのような、深さ数ミリに達する「五条の爪痕」が無数に刻み込まれていたのだ。
下地の鋼鉄が剥き出しになり、傷口の周囲には、黒ずんだ、腐敗した泥のような体液が、湯気を立てながらこびりついていた。
「アキット、上を見るな!」
ロスリが叫び、私の背中を押した。
中継局の敷地の境界——鉄条網のすぐ外側に聳え立っていたのは、一本の巨大な「ポコッ・クカブ(カポックの木/パンヤノキ)」であった。
幹の周囲は数メートル、灰白色の樹皮には無数の太い棘がびっしりと生え、その枝は蜘蛛の足のように夜空を覆い隠していた。
マレーの伝承において、ポンティアナックが自らの棲み処として最も好むとされる魔木。
カポックの梢から、バサバサという重い羽ばたきのような音が響いていた。
私たちは機材を抱え、コンクリート造りの機器収容局舎へと雪崩れ込み、重い防犯用スチールドアを内側から叩きつけて閂を下ろした。
第四章 逆さ吊りの白い布と、針金で縫われた視界
カチャリ、と重い鉄のシリンダー錠が噛み合った瞬間、ようやく密閉された空間の安全が手に入ったかのように思えた。
局舎の内部は、幅四メートル、奥行き六メートルほどの広さがあり、壁一面に通信機器のラックが整然と並んでいた。
だが、バックアップ用バッテリーの警告ブザーが、ピーッ、ピーッ、と甲高い電子音を点滅させていた。
「ケーブルの切断箇所を探すぞ」
ロスリがカンテラを床に置き、主配電盤のカバーをバールでこじ開けた。
盤内を照らし出した瞬間、二人の口から絶句が漏れた。
機械的な断線ではなかった。
直径三センチを超える太い装甲光ケーブルと銅製の接地線が、まるで巨大な獣の歯によって噛み千切られたかのように、ズタズタに引き裂かれていたのだ。
被覆のプラスチックには、無数の鋭利な歯型がめり込み、隙間には濡れた黒い「人間の毛髪」が、蜘蛛の巣のようにびっしりと絡みついていた。
「直せ、アキット!」ロスリがクリスの柄を握りしめ、背後の鉄扉を睨み据えた。
「予備のジャンパー線でバイパスを組め! 十分で終わらせろ!」
「は、はい!」
私は床に膝をつき、震える指先で光ファイバーの心線をストリッパーで剥ぎ取り始めた。
細いガラスの繊維が、汗で濡れた指先に張り付く。
融着機の電極が青白いアーク放電を放ち、液晶画面に接続損失の数値が表示されていく。
その作業の最中であった。
コン、コン、コン……。
乾いた音が、頭上から響いた。
局舎の天井——換気用のガラリ(通気ルーバー)が取り付けられた、地上三メートルの高窓からであった。
音は、外側から、指の関節でアルミの格子を軽く叩くようなリズムで繰り返されていた。
コン、コン、コン……。
私は作業の手を止め、見上げてはならないと知りながらも、視線をその通気口へと吸い寄せられてしまった。
高窓のガラスは、外の霧によって白く曇っていた。
だが、その格子の隙間から——。
スルスルと、黒い糸の束が垂れ下がってきた。
人間の毛髪であった。
泥と枯れ葉にまみれた、脂ぎった長い黒髪が、換気口の隙間を押し広げるようにして、室内の床へと向かって滝のように流れ落ちてきたのだ。
続いて、窓の外の暗闇の中に、逆さまになった「影」が滑り降りてきた。
息が止まった。
逆さ吊りになっていた。
カポックの枝に両足の爪先を引っ掛けた状態で、窓の外の虚空に、一人の女が逆さにぶら下がっていたのだ。
ボロボロに引き裂かれ、黄色い体液と赤土で汚れた、白い「カイン・カファン(イスラムの屍衣)」。
女の首は、あり得ない角度——百八十度完全に捻じ曲げられ、逆さまになった胴体の上で、顔面だけが水平にこちらを向いていた。
皮膚は抜けるように白く、水死体のようにぶよぶよと膨張していた。
そして、その顔面の中央——。
鼻梁は削ぎ落とされ、両の眼窩には眼球が存在せず、凝固した血の塊のような二つの「深紅の燐光」が、狂乱の光を宿して爛々と渦を巻いていた。
女の唇が、耳元まで裂けるように開かれた。
口腔の奥には、二列に並んだ針のように鋭利な乱杭歯がびっしりと生え揃い、その隙間から、黄色い泡状の涎が、通気口の格子を伝って床へとポタポタと滴り落ちてきた。
『……あ……き……っと……』
女の喉仏が痙攣し、私の名を呼んだ。
それは、かつて病気で亡くなった私の祖母の声であり、次の瞬間には高校時代の恋人の声へと変調し、最後には、何重もの老婆と赤ん坊の泣き声が混ざり合った地獄の多重音声となって、私の鼓膜へと突き刺さった。
『……あけて……中へ……いれて…… ここには……私の……赤ん坊の骨が……埋まっているのよ……!』
ドォォォォンッ!!
女の頭部が、弾丸のような勢いで局舎の鉄扉へと激突した。
防犯用の頑丈なスチールドアが、一撃で内側へ向かって十センチもひしゃ曲がった。
蝶番のネジが一本、パァンッ! と銃声のような音を立てて弾け飛ぶ。
隙間から、あの耐え難い死臭と、氷のような冷気が室内に雪崩れ込んできた。
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