序章 濡れていない帽子

「止まりなさい。警察だ」

若い警官は、三度目には拳銃の覆いへ手を置いていた。

前方の騎手は、それでも振り返らなかった。

馬はゆっくり歩いている。全力で走れば、数秒で追いつける距離だった。だがパトロール車の速度計は、すでに時速四十キロを指していた。

道路には激しい雨が降りつけていた。フロントガラスを叩く水滴が、ヘッドライトの中で白い針になって流れていく。

それなのに、騎手の黒い帽子も、肩から垂れたポンチョも、まるで屋内に掛けられた古着のように乾いて見えた。

ワイパーが左右に動くたび、その姿は闇に切断され、また少し先に現れる。

一度消えて、同じ場所に戻るのではない。

確かに前へ進んでいる。

ただし、馬の蹄が地面へ触れる瞬間だけが、どうしても見えなかった。

第一章 夜勤の地図

一九九九年六月。

サンタフェ州南部のある小さな町で、ミゲル・アギーレは州警察に採用されてまだ七か月しか経っていなかった。

二十二歳。独身。実家は町から車で一時間ほど離れた農村にあり、父親は大豆とトウモロコシの畑を借りて耕していた。

警察官になった理由を訊かれると、ミゲルは決まって「制服が好きだったから」と答えた。

本当は、ほかに安定した仕事がなかったのである。

一九九〇年代末の地方都市では、工場の求人は減り、農場は機械化され、若者が長く働ける職場は限られていた。警察なら給料日に給与が出る。病気になっても、最低限の保障がある。

英雄になりたいわけではない。

犯罪者を追い詰めたいわけでもない。

ただ月末に家賃を払い、いつか中古車を買える生活が欲しかった。

配属された分署は、町外れに建つ平屋の古い建物だった。正面にはアルゼンチン国旗と州旗が掲げられ、裏庭には押収された自転車や、壊れて動かないオートバイが雨ざらしにされていた。

夜勤の仕事は単調だった。

町中を一巡し、ガソリンスタンドに立ち寄り、閉店後の商店を確認する。そこから国道へ出て、農場を結ぶ数本の未舗装路を回り、夜明け前に署へ戻る。

家畜泥棒、酔った運転手、路肩に捨てられた盗難車。

実際に出会う事件といえば、その程度のものであった。

この地方で厄介なのは、犯罪者より天候だった。

雨が降れば土の道は泥の川になり、濃霧が出れば十メートル先も見えなくなる。畑と牧草地が水平線まで続くため、曲がり角や建物を目印にできない区間も多い。

夜のパンパでは、方角を一つ間違えるだけで、同じ農道を何時間も巡ることがある。

古参の警官たちは、道路の名を正式名称で呼ばなかった。

「屠殺場の道」

「乾いた井戸の道」

「グティエレス爺さんが死んだ道」

事故や土地の記憶が、そのまま地名の代わりになっていた。

ミゲルが騎手に出会った道は、彼らから「煉瓦塀の道」と呼ばれていた。

かつて大きな牧場があった場所で、道の終点には赤茶けた煉瓦造りの塀が残っている。その先は排水路と湿地であり、車も馬も通り抜けられない。

地図上では行き止まりだった。

もっとも、その夜までミゲルは、行き止まりであることに特別な意味があるとは思っていなかった。

第二章 同乗者のいない巡回

その晩、ミゲルは一人で巡回へ出た。

本来なら先輩警官のロベルトと二人で乗るはずだったが、町の酒場で喧嘩があり、ロベルトは事情聴取に回された。

「北側だけ見て戻れ。雨が強くなったら、農道へ入るな」

当直責任者はそう命じた。

ミゲルも、そのつもりだった。

午後十一時を過ぎた頃から、空の奥で雷が光り始めた。

音のない稲妻だった。平原の輪郭が青白く浮かび、そのたび、遠くに立つユーカリの防風林が一列の人影に見えた。

やがて雨が落ちてきた。

初めは大粒の水滴が数秒おきにフロントガラスへ当たり、次第に間隔を狭め、最後には車体全体を包む連続音となった。

無線には雑音が混じった。

町の中心部で停電があったらしい。信号機の故障と、家屋への浸水を訴える連絡が続いていた。

ミゲルは国道から戻ろうとした。

そのとき、無線の向こうで女性の声が聞こえた。

『……馬がいるの』

通信指令員の声ではなかった。

ミゲルは送信ボタンを押した。

「こちら巡回十二号。今の通信を繰り返してください」

返事はなかった。

代わりに、紙を強く揉むような雑音が続いた。

「本部、聞こえますか。こちら巡回十二号」

『……道に、馬が……』

今度は、少しはっきり聞こえた。

「場所はどこですか。通報者の名前を」

『戻ってきたの』

そこで通信は途切れた。

ミゲルは車を路肩へ寄せ、無線機の周波数を確認した。警察の通信帯に一般の無線が混線したのかもしれない。

豪雨の夜に馬が道路へ出ているなら、放置はできなかった。

馬だけでも車と衝突すれば重大事故になる。騎手がいるなら、なおさらである。

彼は本部を呼び直した。

今度は通常通り、男性の通信員が応答した。

女性の通報について尋ねたが、そのような電話も無線も受けていないという。

「空電だろう。嵐が近い。早く戻れ」

通信員は笑った。

ミゲルも笑って返した。

ただ、通話を切る前に聞こえた「戻ってきたの」という言葉が、耳の奥へ薄い膜のように残っていた。

午前零時十九分。

国道との分岐へ差しかかった時、ヘッドライトの端に黒い塊が浮かんだ。

初めは、路肩に放置された農業機械だと思った。

近づくにつれ、それが馬であると分かった。

騎手が一人、背筋を伸ばして鞍に座っていた。

黒いつば広帽を深く被り、肩から暗い色のポンチョを垂らしている。足元には拍車のような金属があり、車の光を反射して時折白く瞬いた。

馬も黒かった。

ただし脚の下半分だけが、雨の幕と泥の中へ溶けていた。

ミゲルは速度を落とし、窓を少し開けた。

「セニョール!」

雨風が顔へ吹きつけた。

「道路の中央は危険です。端へ寄ってください!」

騎手は反応しない。

馬だけが首を上下させ、同じ歩調を保っていた。

ミゲルは短く警笛を鳴らした。

その瞬間、騎手の首がわずかに傾いた。

振り返りかけたようにも、帽子の下で耳を澄ませたようにも見えた。

しかし顔は見えなかった。

ミゲルは車をさらに近づけた。

窓から吹き込む雨で、制服の左肩が濡れた。ダッシュボードにも水滴が散り、書類の端が丸まった。

ほんの五メートルほど前を進む騎手には、雨の影響が見えない。

ポンチョは風に揺れず、帽子から水も滴らない。

泥道を歩く馬からは、跳ねる泥も、蹄の音も聞こえなかった。

聞こえるのはエンジン音と、ワイパーの軋みだけである。

「止まりなさい。警察だ」

ミゲルは声を張った。

騎手はそのまま進み続けた。

第三章 煉瓦塀の道

騎手が左へ曲がった。

ミゲルは思わずブレーキを踏んだ。

そこは「煉瓦塀の道」への入口だった。

舗装された国道から外れ、二本の轍だけが畑の奥へ延びている。雨の日に入れば、四輪駆動車でも動けなくなることがある。

巡回車は古い後輪駆動のセダンだった。

追うべきではない。

当直責任者からも、農道へ入るなと言われていた。

それでも、豪雨の中で人を見失えば、自分の責任になる。騎手が酔っているのか、判断力を失っている可能性もあった。

ミゲルは無線で本部を呼んだ。

返事は雑音に埋もれた。

騎手の背中は、すでに百メートルほど先へ進んでいた。

「少しだけだ」

ミゲルは自分に言った。

行き止まりになる前に呼び止めればよい。車が滑り始めたら、すぐ引き返す。

ハンドルを左へ切った。

車輪が泥へ沈み、後部が大きく振れた。

ミゲルは慎重にアクセルを踏んだ。

道路の両側には排水溝があり、その向こうには収穫後の畑が広がっている。稲妻が走るたび、水に沈んだ畝が白く光った。

騎手は一定の距離を保っていた。

馬は走っていない。どう見ても、のんびりと歩いている。

それなのに距離が縮まらない。

ミゲルが時速二十キロまで上げると、騎手も同じだけ遠ざかった。

三十キロまで上げても変わらない。

一度だけ、道路の窪みで車体が跳ねた。タイヤが横滑りし、右側の排水溝へ落ちかけた。

ミゲルは慌ててハンドルを戻した。

その数秒間、彼は騎手から目を離した。

再び正面を見たとき、騎手はずっと近くにいた。

巡回車のボンネットから、三メートルも離れていない。

黒い馬の尾が、ワイパーの向こうでゆっくり左右に動いている。

ミゲルは反射的にブレーキを踏んだ。

車は泥の上を滑った。

衝突する。

そう思って両腕を突っ張った。

だが車体には何の衝撃もなかった。

騎手の姿がフロントガラスいっぱいに広がり、そのまま煙のようにボンネットの下へ消えた。

巡回車は停止した。

ミゲルはハンドルを握ったまま、何度も瞬きをした。

前方には誰もいない。

車の下へ巻き込んだのかもしれない。

彼はドアを開けかけた。

そのとき、屋根の上で音がした。

コツ。

乾いた、軽い音だった。

コツ、コツ。

蹄鉄で車の屋根を静かに叩くような音。

ミゲルは手を止めた。

雨音とは違う。

音は運転席の真上から、後部座席の方へ移った。

コツ。

コツ。

車の後端で止まった。

ルームミラーには、暗い後部座席しか映っていない。

ミゲルは拳銃を抜いた。

自分でも、何に向けているのか分からなかった。拳銃を両手で握り、天井へ向ける。

外へ出るべきか。

車内に留まるべきか。

訓練では教わらなかった問いだった。

数秒後、助手席側の窓を何かが撫でた。

五本の指ではなかった。

雨に濡れた長い革紐か、馬の尾の束が、ガラスの表面をゆっくり這ったように見えた。

ミゲルは悲鳴を呑み込み、アクセルを踏み込んだ。

タイヤが空転した。泥が車体の底へ叩きつけられる。

車は動かなかった。

もう一度踏む。

エンジンが唸り、後輪が溝を掘るばかりだった。

窓の外を這っていた黒い筋が、フロントガラスへ回り込んだ。

ワイパーがそれを拭った。

一瞬、ガラスの中央に泥の線が残った。

それは馬の尾ではなく、人間の長い髪のようにも見えた。

無線機から声がした。

『巡回十二号、現在地を報告せよ』

ミゲルは送信ボタンへ飛びついた。

「煉瓦塀の道です! 車が泥にはまりました。騎馬の男を追跡中——」

雑音。

「応援を要請します。聞こえますか!」

『……後ろを見るな』

ミゲルの手が止まった。

通信員の男の声ではない。

さきほどの女性だった。

『お願い。後ろを見ないで』

後部座席の革が、ゆっくり沈む音がした。

誰かが車へ乗り込んだように。

運転席の背もたれが、後ろからわずかに押された。

湿った息が、ミゲルの右耳へ触れた。

彼は正面だけを見つめた。

フロントガラスの向こう、数十メートル先に、騎手が立っていた。

今度は馬から降りている。

背が異様に高かった。

帽子のつばが顔を隠し、腕は身体の横へ垂れている。右手からは、何本もの黒い紐のようなものが地面まで伸びていた。

手綱だと分かるまでに時間がかかった。

馬の姿がなかったからである。

騎手は、見えない何かを繋いだ手綱だけを握っていた。

第四章 死者を運ぶ馬

サンタフェ州を含むアルゼンチンの平原地帯では、馬は単なる移動手段ではなかった。

牧畜、輸送、戦争、開拓、死。

人の生涯のほぼすべてに、馬が伴った。

十九世紀から二十世紀前半にかけて、農村の夜道で正体不明の騎手を見たという話は各地に残された。名前を呼ばれても答えない騎手、どれだけ追っても距離が縮まらない馬、橋や川の手前で突然消える一団。

それらは必ずしも一つの妖怪や幽霊を指すわけではない。

地方によって、亡くなったガウチョ、盗賊、事故死した旅人、死者を迎えに来る使者、あるいは悪魔そのものと説明された。

なかでも年配者が恐れたのは、騎手の顔ではなかった。

馬の足音である。

「死んだ者は姿を隠せても、乗ってきた馬の蹄までは隠せない」

ミゲルの祖母は、幼い彼へそう話したことがある。

深夜、家の前で馬が止まっても、窓を開けてはいけない。

蹄が四つなら、生きた馬。

二つしか聞こえないなら、病人か負傷した馬。

一つだけなら、家の中の誰かを連れに来たもの。

そして足音がまったくしないなら、それはすでに「連れて帰る相手」を見つけ、背に乗せている。

少年時代のミゲルは、その話を笑っていた。

大人になって警察官の制服を着た時には、思い出すことさえなかった。

だが、行き止まりの泥道で、音も立てずに立つ黒い騎手を前にした瞬間、祖母の声が一語ずつ蘇った。

背後の気配は消えていない。

後部座席から、衣服の擦れる音が聞こえた。

ミゲルは拳銃を膝の上へ置き、クラッチを切り替えた。前進が無理なら、後退するしかない。

後ろを見ることはできない。

サイドミラーも泥と雨で役に立たない。

彼は車体をまっすぐ保ち、ゆっくりアクセルを踏んだ。

後輪が回った。

車が数センチだけ下がった。

背もたれの圧力が強くなった。

耳元で、女性が泣いていた。

無線ではない。

間違いなく、後部座席から聞こえる。

声は小さく、雨に紛れそうだった。

何を言っているのか聞き取れない。

ミゲルは歯を食いしばり、さらにアクセルを踏んだ。

巡回車は泥の窪みから抜けた。

十センチ。

二十センチ。

一メートル。

やがて車は、後ろ向きのままゆっくり走り始めた。

前方の騎手は動かなかった。

距離が離れるにつれ、普通なら姿は小さくなるはずだった。

だが騎手の輪郭は、ほとんど変わらなかった。

まるでフロントガラスへ黒い紙片を貼り付けたように、常に同じ大きさで視界の中央へ立っている。

ミゲルは速度を上げた。

後輪が左右へ滑り、車体が何度も横を向きかけた。

それでも止まらなかった。

背後の女が、初めて明瞭な言葉を発した。

「塀まで行かせないで」

その声には、懇願より強い恐怖があった。

騎手の右腕が上がった。

見えない馬の手綱を引いたらしい。

何もいないはずの空間で、鼻を鳴らす音が響いた。

続いて、地面を蹴る一つの蹄音。

ドン。

車体全体が揺れた。

二つ目。

ドン。

フロントガラスに細い亀裂が走った。

三つ目は、ミゲルの胸の内側から聞こえた。

心臓が大きく跳ね、視界が暗くなった。

気づくと、道路の入口まで戻っていた。

後輪が舗装路へ乗り上げた瞬間、車体が激しく回転した。道路脇の標識へ衝突し、エンジンが停止する。

ミゲルの額がハンドルへ当たった。

数秒間、何も考えられなかった。

やがて顔を上げると、ヘッドライトが煉瓦塀の道を照らしていた。

騎手は消えていた。

後部座席にも誰もいなかった。

ただ、座席の中央だけが、水を吸ったように黒く濡れていた。

第五章 女の名

応援が到着したのは、午前一時を過ぎた頃だった。

先輩のロベルトと、当直責任者が四輪駆動車でやってきた。

ミゲルは道路脇へ座らされ、頭の傷を確認された。

「飲んだのか」

責任者は最初にそう訊いた。

「飲んでいません」

「眠っていた?」

「違います」

「では、なぜ農道へ入った」

ミゲルは答えられなかった。

騎手を追った。

無線で女性の声を聞いた。

後部座席に誰かがいた。

どの説明も、口に出した瞬間に嘘のように聞こえた。

ミゲルは「道路上の馬を避けた」とだけ話した。

ロベルトは懐中電灯を持ち、巡回車の周囲を調べた。

前方に衝突した痕跡はない。バンパーにも馬の毛や血は付着していなかった。

屋根には、円形の浅いへこみが三つあった。

事故の前からあった傷だろう、と責任者は言った。

助手席の窓には、雨で薄くなった黒い筋が残っていた。

木の枝を擦った跡だろう、とも言った。

だが煉瓦塀の道には、車の窓へ触れるほど道路側へ張り出した木は一本もなかった。

後部座席の濡れた部分を見た時だけ、責任者は黙った。

ロベルトが指先で触れ、匂いを嗅いだ。

「水じゃない」

液体はわずかに粘り、黒い泥のような匂いがした。

排水路の底から汲み上げた水に似ていた。

責任者は車内を調べたが、窓もドアも閉じられていた。雨漏りの箇所も見つからなかった。

その夜の報告書には「豪雨による視界不良のため道路標識へ接触」と記載された。

馬については書かれなかった。

無線の女性についても、濡れた後部座席についても。

「余計なことを書くな」

責任者はミゲルへ言った。

「説明できないものを文書へ残すと、説明できない責任だけが残る」

明け方、雨が弱まると、ロベルトはミゲルを署の裏庭へ連れ出した。

二人で煙草を吸った。

ロベルトは四十代の無口な男で、冗談を言う時にもほとんど笑わなかった。

「騎手は、どんな帽子だった」

不意に訊いた。

ミゲルは煙草を持つ手を止めた。

「黒い、つばの広い帽子です」

「ポンチョは?」

「黒か、濃い茶色でした」

「顔を見たか」

「いいえ」

ロベルトは頷いた。

それ以上、驚いた様子を見せなかった。

「後ろにいたのは女だな」

ミゲルは彼を見た。

「どうして分かるんです」

「女は何と言った」

「塀まで行かせないで、と」

ロベルトは吸いかけの煙草を地面へ落とし、靴底で潰した。

「帰れ。今日はもう寝ろ」

「説明してください」

「眠れなくなるぞ」

「もう眠れません」

ロベルトはしばらく黙っていた。

それから署の倉庫へ入り、古い書類箱を一つ持ち出した。

箱には一九八七年から一九九二年までの交通事故関係書類が雑然と詰め込まれていた。湿気で紙が波打ち、インクの一部は判読できなくなっている。

ロベルトは一枚の新聞切り抜きを抜き出した。

地方紙の小さな記事だった。

若い女性が行方不明になり、三日後に排水路で遺体となって発見されたことが書かれている。

名前はエレナ・ロサレス。

二十六歳。

失踪したのは一九八九年七月。

最後に確認された場所は、煉瓦塀の道に近い農場だった。

「事故ですか」

ミゲルは訊いた。

「そう処理された」

「処理された?」

「馬で町へ戻る途中、嵐に遭った。馬が暴れ、排水路へ落ちたという話だ」

「騎手は彼女なんですか」

「違う」

ロベルトは即答した。

「じゃあ、誰です」

「分からない。エレナを探していた時、何人かが見た。黒い馬に乗った男が、夜中に塀の方へ進んでいくのをな」

捜索隊は、その男が何かを知っていると思った。

三人の農場労働者が馬で追った。

しかし男には追いつけなかった。

翌朝、労働者の一人が熱を出し、数日間うわ言を続けたという。

彼が繰り返した言葉は一つだけだった。

「馬には二人乗っていた」

前に男。

その背中へしがみつくように、若い女が乗っている。

女の顔は農場の方を向き、声を出さずに泣いていたという。

捜索の三日目、エレナの遺体は塀の先の排水路で見つかった。

奇妙だったのは、その後である。

エレナが死んだ翌年から、雨の夜に騎手を目撃する者が現れ始めた。

あるトラック運転手は、騎手を追って煉瓦塀へ衝突した。

別の農場主は、道路上の男を避けようとして排水路へ転落した。

二人とも、事故の直前に車内で女の泣き声を聞いたと話した。

どちらも大きな怪我を負ったが、生きていた。

「彼女が助けているんですか」

ミゲルは新聞記事から顔を上げた。

ロベルトは首を振った。

「そう考えたい者もいる」

「あなたは違う?」

「死んだ者の考えていることを、生きた者の都合で決めるべきじゃない」

第六章 翌朝の足跡

午前七時過ぎ。

雨が上がった。

ミゲルは帰宅しなかった。

責任者へ頼み込み、ロベルトと一緒に煉瓦塀の道へ戻った。

夜明けの農道は、昨夜とは別の場所のように見えた。

空は淡い灰色で、濡れた畑の上を低い霧が流れていた。鳥の声が聞こえ、遠くでは農業機械のエンジンが動き始めていた。

恐怖は、明るい場所へ持ち出すと形を失う。

黒い騎手も、後部座席の女も、疲労と嵐が作った錯覚だったと思えた。

二人は昨夜のタイヤ痕を辿った。

巡回車の轍は、農道の中央を大きく蛇行していた。途中で深い窪みにはまり、そこから後退した跡も残っている。

「ここで、騎手が車の前へ来ました」

ミゲルは窪みを指した。

ロベルトはしゃがみ、泥の表面を調べた。

馬の足跡はなかった。

人間の足跡もない。

あるのは巡回車のタイヤ痕と、雨水が作った細い流れだけだった。

「やはり、見間違いだったのかもしれません」

ミゲルは言った。

ロベルトは答えず、さらに道の奥へ歩いた。

終点の煉瓦塀までは、そこから七百メートルほどあった。

塀は牧場時代の外壁の一部で、高さは三メートル近い。左右は密生した茨と泥深い排水路に囲まれ、正面から通り抜けられる開口部はない。

壁の手前で、ロベルトが立ち止まった。

泥の上に馬の蹄跡があった。

一つ、二つ、三つ。

道の中央に、四つ一組の蹄跡が連続している。

雨上がりの軟らかい地面へ、実際の馬が歩いた跡だった。

蹄跡は、塀へ向かってまっすぐ延びていた。

戻ってきた跡はない。

ミゲルとロベルトは無言でそれを辿った。

塀まで残り十メートル。

五メートル。

一メートル。

蹄跡は壁の直前で途切れず、そのまま煉瓦の下へ入り込んでいた。

まるで馬が壁を通り抜けたように。

ロベルトは煉瓦へ手を当てた。

古いが、崩れそうには見えない。裏へ回る道もない。

「壁の向こうを調べましょう」

ミゲルが言うと、ロベルトは首を横に振った。

「排水路と湿地だ。今は入れない」

「でも、足跡が——」

その時、塀の向こうで馬が鼻を鳴らした。

二人は同時に黙った。

近い。

壁のすぐ裏側にいる。

馬が一度、地面を蹴った。

ドン。

湿った土を打つ低い音。

続いて、女の声がした。

「ミゲル」

囁きだった。

だが煉瓦一枚を隔てた向こうから、はっきり彼の名を呼んだ。

ロベルトが腕を掴んだ。

「返事をするな」

「僕の名前を知っています」

「聞こえても、返すな」

壁の向こうで女が泣き始めた。

昨夜、後部座席で聞いた声だった。

「ミゲル。お願い。ここを開けて」

塀には扉がない。

窓もない。

ただ古い煉瓦が積まれているだけである。

「寒いの」

女は言った。

「ずっと水の中にいるの」

ミゲルは一歩、壁へ近づいた。

ロベルトが強く引き戻した。

「エレナなんですか」

ミゲルは壁へ向かって訊いた。

ロベルトが低く罵った。

泣き声が止んだ。

ほんの数秒、畑の上を渡る風だけが聞こえた。

そして壁の向こうから、今度は男の声が答えた。

「違う」

低く、乾いた声だった。

「もう、エレナではない」

第七章 塀の向こう側

煉瓦の隙間から、水が染み出した。

初めは雨水の残りに見えた。

しかし染みはみるみる広がり、壁の表面を黒く濡らしていった。やがて煉瓦の継ぎ目から細い流れとなり、二人の靴元へ落ち始めた。

水には、長い黒髪が混じっていた。

一本ではない。

何十本もの髪が壁の内側から押し出され、濡れた煉瓦へ貼りついた。

ミゲルは拳銃を抜いた。

ロベルトは彼の手首を押さえた。

「撃つな。壁の向こうに何があるか分からない」

男の声が、再び響いた。

「返してくれ」

「何をだ」

ロベルトが訊いた。

「その子を」

壁の内側で、馬が身震いする音がした。

金具が鳴る。

革紐が軋む。

そして無数の蹄が、いっせいに地面を蹴り始めた。

一頭ではなかった。

二頭でもない。

狭い塀の向こうに何十頭もの馬が閉じ込められ、出口を求めて殺到しているような轟音だった。

煉瓦が震えた。

古い目地の砂がぱらぱらと落ちた。

ミゲルの耳元で、また女の声がした。

今度は壁の向こうではない。

自分の背後だった。

「走って」

振り返ると、誰もいなかった。

ただ泥の上に、裸足の足跡が一対だけ現れていた。

小さな女の足跡。

それは二人の横から始まり、農道の入口へ向かって延びている。

新しい足跡が、一歩ずつ地面へ刻まれていった。

見えない誰かが走っている。

「行くぞ!」

ロベルトが叫んだ。

二人は足跡を追って走った。

背後で煉瓦の割れる音がした。

振り返ってはいけない。

ミゲルはそう思った。

だが人間は、見るなと言われたものほど見てしまう。

道の半ばで、彼は肩越しに塀を振り返った。

壁は崩れていなかった。

その手前に黒い騎手が立っていた。

見えない馬ではない。

今度は、はっきり一頭の馬に乗っている。

馬の背には、騎手のほかにもう一人いた。

若い女が、男の背中へ抱きつくように乗っている。

長い髪が顔を覆い、白い服が泥水を吸って黒ずんでいた。

女は顔を上げた。

距離が遠く、表情までは分からない。

それでも、口が動くのが見えた。

「私ではない」

そう言ったように見えた。

次の瞬間、騎手の帽子が風で浮いた。

その下にあるはずの顔は見えなかった。

頭部の前面が暗かったのではない。

顔という部分だけが、夜の空へ通じる穴のように抜け落ちていた。

穴の奥で、無数の白いものが動いている。

馬の歯だった。

人間の顔があるべき場所に、何頭もの馬の口が重なり、音もなく開閉していた。

ミゲルは足をもつれさせ、泥へ倒れた。

ロベルトが襟を掴んで引き起こす。

「見るなと言っただろう!」

二人は車まで走った。

エンジンをかけ、国道へ飛び出した。

バックミラーの中で、黒い騎手は追ってこなかった。

煉瓦塀の前に立ったまま、二人が去るのを見送っていた。

ただ、巡回車が町へ近づくまで、屋根の上ではゆっくりと一つの蹄音が鳴り続けていた。

コツ。

数秒の沈黙。

コツ。

また沈黙。

四つの脚で歩く馬の足音ではない。

一つの蹄だけを持つ何かが、車の上をついてきている音だった。

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