序章 午前三時のオルティガス

マニラ首都圏パシグ市、オルティガス・センターの夜は、太陽が沈んだ後に本当の呼吸を始める。ガラス張りの高層ビル群が放つ無機質な光の帯と、地上を行き交う黄色いタクシーのテールランプ。地上は熱帯特有のまとわりつくような湿気に満ちているが、回転ドアをくぐり抜けてエレベーターを上がった先の世界は、まるで別の惑星のように冷え切っていた。

十五階にある外資系コールセンターのフロアには、百席を超えるパーテーションで仕切られた作業机、いわゆるキュービクルが整然と並んでいる。昼夜が完全に逆転したこの場所で働く数百人の若者たちにとって、時間は時計の針ではなく、アメリカ合衆国の東部標準時によって支配されていた。蛍光灯の青白い光の下、ヘッドセットを装着したオペレーターたちが、流暢なアメリカ英語で太平洋の向こう側の顧客に応対している。

眠気を吹き飛ばすためにガンガンに効かされたエアコンの冷風が吹き出し口から絶え間なく降り注ぎ、多くの者が厚手のパーカーやフリースを羽織り、指先をかじかませながらキーボードを叩いていた。

その冷気の中には、独特の匂いが混ざり合っている。安価なインスタントコーヒーの焦げたような苦味、夜食として給湯室で啜られるインスタント麺の脂っこいスパイスの香り、そして何本も空けられたエナジードリンクの化学的な甘さ。それらは、終わりの見えない夜を乗り切るための防具のようなものだった。

第一章 四十二番ステーション

ロエル・アキノがその会社で働き始めてから、半年が過ぎていた。地方の大学を卒業し、マニラで職を探した末に辿り着いたのが、このアメリカ向け大手通信会社のインバウンド業務を請け負うコールセンターだった。時給は国内の一般的な事務職よりずっと良く、深夜手当もつく。

だがその代償として、体内時計は完全に狂い、肌は荒れ、常に胃の奥に鉛のような重さを抱えることになった。

彼のシフトは午後九時から翌朝の午前六時までだった。その時間帯、アメリカ本土はちょうど日中を迎えており、請求書の金額に怒り狂った顧客や、インターネットの接続不良に苛立つ老人たちからの入電が途切れることなく雪崩れ込んでくる。

ロエルの席は、フロアの最奥に近い三十八番だった。パーテーションの壁には、恋人の小さな写真や、守護聖人のメダイ、眠気覚ましのミントオイルがぶら下げられている。そして、彼の席から二つ隣、通路を挟んだ角にあるのが、四十二番ステーションだった。

その席には、ロエルが入社した時から誰も座っていなかった。

デスクトップのモニターは常に真っ暗なままで、キーボードには薄く埃が積もっている。椅子はパーテーションの奥に几帳面に押し込まれ、電話機だけが待機状態を示すかすかな緑のランプを静かに点滅させていた。

「あそこには近づかないほうがいいよ」

研修期間が終わったばかりの夜、同じチームの先輩であるマリセルが、給湯室で小声でそう耳打ちしてきたことがあった。マリセルはこの道五年になるベテランで、目の下に深い隈を刻みながらも、いつもロエルを気にかけてくれる姉のような存在だった。

「なぜです? ただの予備の席じゃないんですか」

「予備じゃないの。あれは、使っちゃいけない席なのよ」

マリセルは紙コップの熱いコーヒーに口をつけ、周囲を用心深く見回してから言った。

「去年の十月、ちょうどハロウィンの少し前のことよ。あそこに座っていた女の子がいたの。名前はグレイス。

とても真面目で、欠勤も遅刻もしない子だった。でも、過密シフトが続いていたのね。三日連続で十二時間シフトに入って、その日の午前四時頃だったかしら。

通話中に突然、キーボードの上に突っ伏したの。みんな、ただ居眠りをしたんだと思った。スーパーバイザーが注意しに行ったら、もう息をしていなかったのよ」

ロエルは背筋が冷たくなるのを感じた。

「急性心不全だったそうよ。でも会社は、業務との因果関係を認めなかった。彼女の家族には見舞金が支払われて、それでおしまい。

翌週には別の新人があの席に配置されたわ。でもね、その新人も、その次の人も、一週間と持たずに辞めていったの」

「何があったんですか」

「電話よ」

マリセルは声をさらに落とした。

「あの席に座ると、保留音の間、あるいは通話が切れた直後のわずかな無音の瞬間に、受話器の奥から聞こえてくるんですって。女の人の、細くて荒い息遣いが。まるで、息が吸えなくて苦しんでいるような音がね。

それだけじゃない。誰もいないはずの四十二番から、夜中の二時や三時に、フロア内の別の席へ内線がかかってくることがあるの。出ても、何も言わない。

ただ、キーボードを叩くカチャカチャという音と、かすかな呻き声だけが聞こえるのよ」

その話を聞いて以来、ロエルは四十二番ステーションを直視できなくなっていた。だが、過酷なコールセンターの夜において、怪談は決して珍しいものではない。極度の睡眠不足と疲労、密閉された空間、そしてアメリカ人の理不尽な怒号を何時間も浴び続ける精神的ストレス。

そうした環境が、人間に幻聴や幻覚を見せるのだと、ロエルは自分に言い聞かせていた。

しかし、その夜の出来事は、単なる疲労の産物として片付けるには、あまりにも輪郭がはっきりとしていた。

第二章 保留音の向こう側

十一月の第三木曜日、時刻は午前二時四十五分を回っていた。

フロアの人口密度は最も低くなる時間帯だった。休憩を取るために階下のコンビニエンスストアへ降りていく者や、仮眠室のソファに倒れ込んでいる者が多く、作業エリアにはカタカタという乾いたタイピングの音と、ぽつりぽつりと交わされる英語の会話だけが漂っていた。

ロエルの頭は鉛のように重かった。前の通話で、ルーターの初期化方法が理解できないテキサス州の男性から二十分間にわたって罵倒され続けた直後だった。こめかみのあたりが脈打つように痛む。

彼は首筋にミントオイルを塗り、大きく息を吐き出した。

ピピッ、という甲高い電子音がヘッドセットのイヤーパッドに響いた。自動振り分けシステムが、次の入電を彼の回線へと繋いだ合図だった。

「お電話ありがとうございます。カスタマーサポートのアキノが承ります。本日はどのようなご用件でしょうか」

ロエルは訓練された滑らかな英語で定型句を口にした。

『もしもし? ああ、やっと繋がった』

受話器の向こうから聞こえてきたのは、少しかすれた、年配の女性の声だった。ノイズの混じり方からして、アメリカ本土の田舎町からの固定電話のようだった。

『請求書が届いたんだけど、先月より四十ドルも高いのよ。自動引き落としにしているのに、どうしてこんな金額になるの? 明細を確認してちょうだい』

「かしこまりました。ご不便をおかけして申し訳ございません。直ちにアカウントをお調べいたしますので、お名前と電話番号をお伺いできますでしょうか」

ロエルは顧客の情報を聞き取り、専用の管理画面に打ち込んだ。回線速度が落ちているのか、顧客データの読み込みを示すインジケーターが円を描いて回り続けている。

「お客様、詳細なデータを開くまで少々お時間がかかっております。お調べする間、一時的にお電話を保留にさせていただいてもよろしいでしょうか。二分ほどで戻ります」

『ええ、早くしてね。これから出かけなきゃいけないんだから』

「ありがとうございます。それでは保留にいたします」

ロエルは画面上の「HOLD」ボタンをクリックした。

システムが保留状態に入ると、顧客の側には軽快なピアノの保留音が流れ、オペレーター側のヘッドセットからは一切の音が遮断され、完全な無音になるはずだった。それはシステム上の厳格な仕様であり、オペレーターの独り言やオフィスの雑音が顧客に漏れないための設計だった。

しかし、ボタンを押した瞬間、ロエルの耳元で、カチリと何かが噛み合うような鈍い音がした。

無音ではなかった。

微弱なホワイトノイズが、ヘッドセットのスピーカーからかすかに流れ続けていた。

通信エラーか、とロエルは思った。システムが古いせいで、時折ミュートが正常に機能しない不具合が発生することは現場でも知られていた。彼はマイクの物理スイッチがオフになっていることを確認し、モニターの読み込みバーを見つめた。

その時だった。

ノイズの向こう側から、音が聞こえてきた。

コ、コ、コ、コ……。

プラスチックの破片が硬い表面を規則正しく叩くような音。タイピングの音だった。だが、それはロエル自身のキーボードの音ではない。彼の手はキーボードから離れ、冷えた指先を組んでいた。

音は、ヘッドセットの右側からだけ聞こえていた。非常に近く、まるで誰かがロエルのすぐ隣に立ち、耳元に小型のマイクを突きつけているかのような生々しさがあった。

カチャ、カチャカチャ、カチャ。

タイピングの速度が徐々に上がっていく。それは通常の文章を入力するリズムではなかった。同じキーを何度も狂ったように連打しているかのような、不均等で、焦燥感に満ちた打鍵音。

そして、その音の隙間から、別の音が混ざり始めた。

すう、と空気を吸い込む音。

だが、その吸気は途中で喉の奥に引っかかり、ヒュー、という湿った摩擦音に変わる。まるで、気管に液体が詰まった人間が、必死に肺胞を広げようともがいているかのような音だった。

ロエルの心臓が跳ね上がった。全身の毛穴が収縮し、エアコンの冷気が直接皮膚を刺すように感じられた。

(誰だ?)

彼は首を巡らせ、周囲のキュービクルを見回した。左隣の三十七番には誰もいない。持ち主は休憩中だった。

右隣の三十九番には同僚のパオロが座っていたが、彼はヘッドセットを首にかけ、目を閉じて船を漕いでいた。誰もタイピングなどしていない。

その時、ロエルの視線は、通路を挟んだ向かい側、四十二番ステーションへと吸い寄せられた。

薄暗いパーテーションの陰。消えているはずのモニターの画面に、かすかな緑色の光が反射していた。待機中を示す電話機のLEDではない。

もっと青白く、弱々しい光。そして、その椅子の背もたれが、ほんの数ミリ、ゆっくりと軋むような音を立てて揺れていた。

ヒュー……ッ、ゴホッ……。

受話器の奥の呼吸音が、一段と大きくなった。それはもはや顧客の回線から混入したノイズなどではなかった。このフロアの、すぐそこにある空間から拾い上げられている音だった。

ロエルは震える指でマウスを握り、保留を解除するボタンを押そうとした。顧客を待たせていることへの恐怖よりも、この回線を一刻も早く切断したいという本能的な恐怖が勝っていた。

だが、画面上のカーソルがピタリと止まり、動かなくなった。フリーズだった。管理システム全体が固まり、砂時計のアイコンが点滅を繰り返している。

「嘘だろ……頼む、動いてくれ」

ロエルは小声で呟いた。その声が、自分のマイクを通して拾われたのかどうかはわからなかった。なぜなら、その直後、ヘッドセットのスピーカーから、息の混じった囁き声がはっきりと鼓膜を震わせたからだった。

『……アカウントが……開かないの……』

女性の声だった。タガログ語の訛りがわずかに残る、低く、掠れた英語。

『ログアウト……できない……まだ……通話が……終わってないの……』

ロエルは息を止めた。指先が凍りつき、椅子から立ち上がることすらできなかった。声は、耳元で直接囁かれているようでもあり、同時に、数メートル先の四十二番ステーションの暗がりから直接響いてきているようでもあった。

カチャカチャカチャカチャカチャ!

猛烈な勢いでキーボードを乱打する音がヘッドセットを満たした。それは人間の指が物理的に打てる速度を超えていた。まるで何十本もの硬直した指が、爪を立ててキーボードのプラスチックを剥ぎ取ろうとしているかのような狂乱の音。

「うわっ!」

ロエルは思わずヘッドセットを頭から引き剥がし、デスクの上に投げ捨てた。プラスチックのヘッドバンドがデスクの天板に当たって乾いた音を立て、投げ出された小さなイヤーパッドから、なおもヒューヒューという苦しげな呼吸音が漏れ聞こえていた。

「おい、ロエル、どうした?」

前の席に座っていたスーパーバイザーのアントニオが、パーテーションの上から顔を覗かせた。五十代のベテランで、いつも無表情に部下の通話時間と離席ログを監視している男だった。

「アントニオさん……システムが……それに、この回線、変なんです」

ロエルは青ざめた顔で自分のモニターと、投げ捨てられたヘッドセットを指差した。アントニオは怪訝そうに眉をひそめ、ロエルの席へと歩み寄ってきた。彼はデスクの上に転がったヘッドセットを拾い上げ、片耳に当てた。

数秒の沈黙が流れた。

アントニオの眉間の皺が、見る見るうちに深くなっていくのをロエルは見ていた。アントニオの視線が、ロエルのモニターから、ゆっくりと四十二番ステーションへと移動した。その目は、恐怖というよりも、過去に何度も同じものを見てきた人間特有の、深く暗い諦念に満ちていた。

アントニオは何も言わず、ロエルのパソコンの電源ボタンを長押しした。ブツン、と鈍い音がしてモニターの光が消え、フロアのファンが一瞬だけ唸りを弱めた。強制終了だった。

「ロエル、十五分休憩を取れ」

アントニオは低く、抑えつけたような声で言った。

「システムエラーだ。回線の混線だよ。ログには私が報告を入れておく。外に出て、風を吸ってこい」

「でも、アントニオさん、今の声は——」

「いいから行け」

アントニオはロエルの肩に手を置いた。その手のひらは、ロエルの冷え切った肩よりもさらに冷たかった。

第三章 ログに残らない内線

ビルの非常階段の踊り場は、夜勤オペレーターたちの非公式な避難所だった。ロエルは手すりに寄りかかり、自動販売機で買った冷たい缶コーヒーを握りしめていた。非常口の小さな窓からは、オレンジ色に煙るマニラの夜景が見下ろせる。

生温かい外気が隙間から入り込み、冷房で冷え切った身体の芯をゆっくりと解かしていくようだったが、胸の奥の動悸は一向に収まらなかった。

金属の重いドアが開き、スニーカーの足音が響いた。現れたのはマリセルだった。彼女は煙草の箱を指に挟み、ロエルの青ざめた顔を見るなり、小さく息を吐いた。

「アントニオから聞いたわ。あなた、聞こえたんでしょ」

ロエルは缶コーヒーを見つめたまま、力なく頷いた。

「あれは混線なんかじゃありません。確かに、誰かがそこにいたんです。苦しそうに息をして……ログアウトできないって」

「そうね。あの子は、ログアウトできなかったのよ」

マリセルは煙草に火をつけず、フィルターを唇に挟んだまま言った。この踊り場は禁煙だったが、夜中の三時を過ぎれば警備員も見回りに来ない。

「あの日、グレイスの受話器の向こうにいたのは、信じられないくらい攻撃的なクレーマーだったわ。ネットの接続が途切れたせいで大金を失ったとかで、彼女を口汚く罵り続けた。会社の方針では、顧客から通話を切るまでは、オペレーター側から切断することは絶対に許されない。

たとえ暴言を吐かれても、三回警告を出して、スーパーバイザーの承認を得るまではね」

「そんな……」

「グレイスは真面目すぎたのよ。警告を出すことすら躊躇して、ただ『申し訳ございません』と謝り続けた。心臓が悲鳴を上げていたのに、通話評価のスコアが下がるのを恐れて、席を立つこともしなかった。そして……そのまま倒れたの」

マリセルの声には、怒りと悲しみが均等に混ざり合っていた。

「救急隊が到着した時、彼女の手はまだマウスを握りしめていたわ。画面の通話時間は、一時間を超えていた。彼女が死んだ後、会社が最初にやったことは何だと思う?

 その通話ログをサーバーから消去することよ。過失致死の訴訟を避けるためにね。彼女の死は『個人の持病による突然死』として処理された。

でもね、機械は騙せても、回線そのものは記憶しているのよ」

「回線が……?」

「四十二番の電話機は、今でも社内ネットワークに繋がったままなの。IT部門が何度回線を切断しようとしても、なぜかシステム上で勝手に再接続される。まるで、誰かがまだあの席でログインを試みているみたいにね」

マリセルは煙草を箱に戻し、ロエルの目を真っ直ぐに見つめた。

「ロエル、もし次にあの音が聞こえたら、絶対に返事をしては駄目よ。言葉を返しちゃいけない。あれは、自分の代わりに誰かをあの席に座らせようとしているんだから」

休憩を終えてフロアに戻った時、時刻は午前三時半を過ぎていた。ロエルは再起動した自分のパソコンにログインし、震える手でヘッドセットを装着した。先ほどの恐怖は消えていなかったが、仕事を放棄して帰宅すれば、即座に解雇される。

地方の家族への仕送りを考えれば、この仕事を失うわけにはいかなかった。

フロアは異様なほど静まり返っていた。夜勤のピークは過ぎ、入電の間隔が開き始めていた。キーボードを叩く音すらまばらで、空調の低い唸り声だけが空間を支配している。

ロエルは四十二番ステーションを見ないように努めた。しかし、視界の端に入るその空間は、明らかに周囲の空気と異なっていた。暗がりの中に置かれたデスクの上が、まるでそこだけ光を吸い込むかのように黒々と沈んでいる。

ピピッ。

ヘッドセットに短い電子音が鳴った。入電だった。だが、いつもの顧客からの外線着信音ではない。二回連続で短く鳴るそのパターンは、社内内線を示すものだった。

ロエルの心臓が喉元まで跳ね上がった。モニターの右隅に、小さなポップアップウィンドウが表示されていた。

【内線着信:Station 42】

全身の血が引いていくのがわかった。手足の指先から感覚が失われ、冷たい汗が背中を伝い落ちる。

(嘘だろ……誰も座っていないはずだ)

ロエルは恐る恐る、顔を右へ向けた。通路の向こう、四十二番ステーション。パーテーションの隙間から見えるその場所には、やはり誰もいなかった。黒いメッシュのオフィスチェアは、奥に押し込まれたままだ。

だが、そのデスクの上に置かれた電話機が、確かに青白いバックライトを明滅させていた。そして、フックに収まっているはずの受話器が、わずかに数センチ、斜めに浮き上がっていた。まるで、目に見えない透明な指が、それを持ち上げているかのように。

社内内線の呼び出し音が、ヘッドセットの中で規則正しく鳴り響く。プルルル……プルルル……。

出なければいい。無視すれば、十回ほどで自動的に切れるはずだった。ロエルは目をつぶり、耳を塞ごうとした。

その時、画面のポップアップが突然消えた。切れたのか、と安堵した瞬間、ヘッドセットからカチリという接続音が響いた。

ロエルは何も触っていなかった。応答ボタンも押していない。それにもかかわらず、通話は勝手に接続されていた。

受話器の向こうから、あの音が聞こえてきた。荒く、途切れ途切れの、濡れたような呼吸音。ヒュー……ッ、ヒュー……ッ。

そして、微かな衣擦れの音がした。誰かが布を引きずるような、ゆっくりとした動きの気配。

ロエルは金縛りにあったように動けなかった。逃げ出さなければならないと頭では叫んでいるのに、足が床に縫い付けられたように重い。視線が、四十二番ステーションの足元へと吸い寄せられた。

薄暗いパーテーションの影の下、デスクの奥の空間。そこに、何かが垂れ下がっていた。

灰色の、布の端。それは、会社が支給している黒いユニフォームではなかった。グレイスが生前好んで着ていたという、毛羽立った薄手のフリースパーカーの袖だった。

そして、その袖の先から伸びているのは、土気色に変色し、爪の間が黒ずんだ、細い人間の手首だった。

その手が、床の上を這うようにして、ゆっくりとロエルのいる通路のほうへと伸びてきていた。

指先がカーペットを掻きむしる、カサ、カサ、という乾いた音が、静まり返ったフロアに直接響いた。同時に、ヘッドセットのスピーカーからも、まったく同じタイミングで、床を擦るノイズが流れ込んでくる。

(来るな)

ロエルは心の中で叫んだ。声が出なかった。喉が完全に痙攣していた。

手首の動きが止まった。そして、パーテーションの陰から、ゆっくりと何かが持ち上がった。

乱れた長い黒髪。その隙間から覗く、充血して白目が濁りきった二つの瞳。その顔には皮膚の生気がなく、唇は紫色に変色し、顎のあたりには乾いた唾液の痕が白く残っていた。

それは、四十二番のデスクの下から這い出してきた女の顔だった。

女の視線が、正確にロエルの目を捉えた。その唇が、裂けるようにゆっくりと横に開いた。

ヘッドセットから、耳をつんざくようなノイズとともに、あの声が流れ込んできた。先ほどよりも遥かに近く、耳腔の奥深くに直接針を刺すような、生々しい絶叫。

『……代わって……』

女の首が、不自然な角度でカクンと傾いた。そして、彼女の手が、ロエルの座る三十八番ステーションの仕切り板へと掛けられた。

爪がパーテーションの布地に食い込み、バリバリと繊維を引き裂く音がした。女の顔が、仕切り板の上からヌッとせり出してくる。その距離は、わずか一メートルもなかった。

鼻を突くような、埃と古い薬品が混ざり合った異臭がロエルの鼻腔を襲った。

女の開いた口の奥から、黒ずんだ舌と、カタカタと震える歯が見えた。

『私の代わりに……この電話を……切って……!』

その瞬間、ロエルの視界の端で、自分のモニター画面が狂ったように明滅を始めた。エラーログの羅列。赤い警告メッセージが画面全体を埋め尽くしていく。

その無数のエラーコードの最下行、顧客の電話番号が表示されるはずの欄に、信じられない文字列が浮かび上がっていた。

それは、外部の電話番号ではなかった。ロエル自身の社員IDと、彼の母親が暮らす地方の実家の固定電話番号だった。

なぜその番号が表示されているのかを理解する思考力すら、その時のロエルには残っていなかった。

ただ、目の前にいる女の濁った瞳が、ロエルのモニターをじっと見つめていることだけがわかった。女の乾いた指先が、ロエルのパーテーションを乗り越え、彼が握るマウスへとゆっくりと伸びてくる。冷気が波のように押し寄せ、ロエルの右腕の皮膚が鳥肌で粟立った。

「あ……ああ……」

ロエルの喉から、掠れた空気の塊が漏れ出た。逃げなければならない。だが、マウスから手を離すことができなかった。まるで目に見えない力で手がプラスチックに吸着してしまったかのように、指が一ミリも動かない。

女の顔がさらに近づいた。乱れた髪がロエルの肩にかかり、氷のような冷たさが衣服を通して伝わってくる。女の口から吐き出される息は、完全に冷え切っており、冬の朝の吐息のように白く濁っていた。

『切って……早く……承認を……』

女の指が、ロエルの人差し指の上に重なった。信じられないほどの重圧だった。まるで鉛の棒で指を押し潰されているような感覚。カチリ。ロエルの指が、女の力によって強制的にマウスの左ボタンを押し下げた。

画面上の赤い警告が、一瞬にして消えた。そして、通話管理画面の中央に、黒い太枠のウィンドウがポップアップした。

【強制ログアウト処理:完了】 【オペレーター名:グレイス・バレンシア】 【累積通話時間:9,420時間12分】

画面の数字がゼロに戻った瞬間、ロエルの耳元を満たしていた暴風のようなノイズが、プツンと途切れた。完全な静寂が訪れた。

ロエルの肩にかかっていた重みが、ふっと消えた。異臭も、凍りつくような冷気も、引き潮のように急速に薄れていく。

ロエルは恐る恐る目を開けた。パーテーションの上には誰もいなかった。破られた布地もなく、薄暗い通路には、ただ静まり返った青白い蛍光灯の光が落ちているだけだった。

四十二番ステーションの椅子は、何事もなかったかのようにパーテーションの奥に押し込まれていた。電話機の液晶画面は真っ暗で、待機ランプすら消灯していた。

ロエルはその場に崩れ落ちるように椅子に沈み込んだ。全身から汗が噴き出し、フリースのパーカーがぐっしょりと重く湿っていた。心臓が胸骨を突き破らんばかりに激しく鼓動し、呼吸がうまく整わない。

「おい、アキノ! 何やってるんだ!」

突然、頭上から怒鳴り声が降ってきた。顔を上げると、スーパーバイザーのアントニオが、血相を変えて通路を小走りに近づいてくるところだった。

「お前のステーションから、メインサーバーへの不正アクセス警告が出たぞ! 何をクリックしたんだ?」

アントニオはロエルのデスクに割り込み、画面を覗き込んだ。だが、モニターに表示されていたのは、通常のエラー画面ではなく、完全に初期化されたログイン前のトップ画面だった。

アントニオの視線が、画面から、ロエルの隣の四十二番ステーションへと向いた。彼は四十二番の電話機が完全に沈黙しているのを見て、息を呑んだ。

「……消えたのか」

アントニオが呟いたその声は、震えていた。

「アントニオさん……僕、切ったんです。彼女の……彼女の通話を」

ロエルは震える唇で言った。言葉が途切れ途切れになり、涙が自然と目から溢れ出してきた。恐怖のあまり、顎の震えが止まらなかった。

アントニオはロエルの顔をじっと見つめ、それからフロアの天井を見上げた。防犯カメラのレンズが、黒く静かに二人を見下ろしていた。

「……もういい。アキノ、今日はもう上がれ」

アントニオは静かに言った。その声には、先ほどの怒りは微塵も含まれていなかった。

「タイムカードは私が切っておく。誰にも何も言うな。マリセルにも、他の誰にもだ。いいな?」

ロエルは頷くことしかできなかった。彼は震える手で私物をバッグに詰め込み、逃げるようにフロアを後にした。エレベーターを待つ間も、背後のドアが開いてあの女が追ってくるのではないかという恐怖に怯え、何度も振り返った。

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