序章 冠岳の急坂と、五百万ウォンの甘房
地下鉄二号線の新林(シルリム)駅を出て、南へ向かってなだらかな坂道を登り始めると、ソウルという大都市が抱え込む独特の生活臭が、湿った熱気とともに肺腑へと流れ込んでくる。
狭隘な路地の両脇には、一階にコンビニエンスストアやチキン屋、コインランドリーを詰め込んだ赤煉瓦造りの多世代住宅(多世帯ヴィラ)が、隙間なくびっしりと立ち並んでいる。電柱から蜘蛛の巣のように垂れ下がる無数の黒いケーブル、急勾配の階段にへばりつくように停められたスクーター、そして公務員試験や就職活動の参考書を抱え、下を向いて足早に行き交う若者たちの群れ。
ソウル特別市冠岳区新林洞——通称「コシチョン(考試村)」。かつて司法試験を目指す浪人生たちが寝起きしたその街は、現在では地方から上京してきた大学生や、非正規雇用で食いつなぐ単身者たちが密集する、ソウルで最も家賃の安い巨大な単身街であった。
二〇一六年春、地方の国立大学を休学し、ソウル市内のIT系ベンチャー企業でのインターンシップに滑り込んだ大学三年生のジフンにとって、住居の確保は文字通り死活問題であった。
保証金一千万ウォン、月税(ウォルセ=家賃)五十万ウォンが相場とされる新林洞の界隈にあって、父親の零細な自営業が傾いていたジフンが工面できた金は、手持ちの全財産である保証金五百万ウォンが限界であった。
何十軒もの不動産屋を回り、半地下のカビ臭い部屋や、窓のない三畳一間の考試院(コシウォン)を案内されて絶望しかけていた彼が、駅裏の寂れた個人仲介所で巡り合った物件——それこそが、丘陵の頂上近くに建つ築浅のワンルームマンションの四階、四〇二号室であった。
「保証金五百万ウォン、月税三十万ウォン」
提示された契約条件を目にした瞬間、ジフンは自らの耳を疑った。相場のほぼ半額。
案内された四〇二号室は、実質六畳ほどのコンパクトな長方形の間取りでありながら、南向きの大きな窓があり、壁紙も床のフローリングも真新しく張り替えられていた。備え付けの小型冷蔵庫、洗濯機、インダクションコンロ、そして部屋の奥の壁一面を覆うように据え付けられた、白く光沢のある背の高い木製クローゼット(洋服ダンス)。
管理人の老人は「前の住人が急な家庭の事情で突然退去してね。空室にしておくよりは、真面目な学生さんに早く入ってもらいたいんだ」と、愛想よく契約書を差し出してきた。
ジフンは疑うことすら忘れ、その日のうちに契約書に拇印を押し、引っ越しを完了させたのである。
第一章 背の高い箪笥と、三十センチの暗黒
引っ越しを終えた最初の夜、ジフンは床に敷いた薄い敷布団の上に大の字になり、新生活の満足感に浸っていた。
窓の外には新林洞の家々の明かりが絨毯のように広がり、狭いながらも自立した城を手に入れたという高揚感が胸を満たしていた。
だが、荷解きを終え、部屋の主照明を消して間接照明だけに切り替えたとき、彼の視線はふと、部屋の東側の壁に据え付けられた「クローゼット」へと引き寄せられた。
その家具は、一般的な一人暮らし用の洋服ダンスとしては異様なほどに背が高かった。
床から天井までの高さはおよそ二メートル四十センチ。クローゼットの全高は二メートル十センチほどあり、上質な白いメラミン化粧板で覆われていた。
奇妙であったのは、その天板と、白い石膏ボードの天井との間に残された「空間」であった。
およそ三十センチ。大人の男の胴体が一枚、横向きに滑り込める程度の、薄暗く細長いスリットのような隙間が、天井に沿って横幅一メートル半にわたり、黒々と口を開けていたのである。
建築の構造上、既製品の背の高い家具を配置すれば生じる当たり前のデッドスペースであった。
しかし、部屋の明かりを消すと、外の街灯の光が窓から差し込んでも、その三十センチの隙間にだけは一切の光が届かなかった。
まるで、光を吸い込む黒い帯のように、天井の直下に貼り付いている無音の亀裂。
ジフンは敷布団の上に横たわりながら、何気なくその隙間を見上げた。
(……埃が溜まりそうだな。明日、長いモップを買ってきて掃除しておこう)
そう心の中で呟き、枕元にスマートフォンを置いて目を閉じた。
異変が始まったのは、その入居初日の深夜であった。
カチ……カチ……カチ……。
静まり返った部屋の中で、不意に耳元で微小な音が響いた。
時計の秒針ではない。部屋にはデジタル時計しかなかった。
それは、乾燥した爪が、硬い木板の表面を規則正しく引っ掻くような、極めて小さな擦過音であった。
ジフンは寝返りを打とうとした。
だが、身体が動かなかった。
第二章 折れた頸椎と、音なき哄笑
金縛り——韓国の言葉でいう「カウィヌルリム」であった。
古くから「ハサミで全身を切り刻まれ、縫い止められる」と形容されるその現象は、肉体が睡眠状態にあるにもかかわらず、意識だけが覚醒してしまう睡眠麻痺として医学的に説明される。
ジフンも高校時代、受験勉強の疲労から何度か経験したことがあった。
(またか……慣れない引っ越しの疲れが出たんだな)
彼は呼吸を整え、再び眠りに落ちるのを待とうとした。手足の指先をわずかに動かし、神経の接続を取り戻そうと試みる。
だが、今夜の金縛りは、かつて経験したものとは決定的に異なっていた。
胸の上に、冷水で湿りきった数百キログラムの石臼を直接載せられたような、圧倒的な「重量」が加わっていたのだ。
息が吸えない。喉の奥がヒュー、ヒューと音を立て、胸郭がメリメリと軋むような痛みが走る。
同時に、部屋の空気が、真冬の保冷車の中に放り込まれたかのように、急速に熱を失っていった。
鼻腔を突いたのは、真新しい壁紙の糊の匂いではなかった。
長年閉ざされた床下に溜まった泥水と、人間の古い頭皮の皮脂が混ざり合ったような、饐えた、冷たい悪臭。
誰かが、部屋の中にいる。
気配は、施錠された玄関ドアからでも、窓の外からでもなかった。
それは、あり得ない高さ——部屋の最も高い場所から、冷酷な重力をもって、ジフンの無防備な顔面へと真っ直ぐに降り注いでいた。
ジフンは恐怖に痙攣しながら、必死の思いで眼球だけを上へと動かした。
天井。
そして、あのクローゼットの天板。
三十センチの暗黒の隙間。
そこに、挟まっていた。
ジフンの心臓が、破裂せんばかりに跳ね上がった。
女であった。
死人のように青白く、骨と皮ばかりに痩せ衰えた全裸の女の肉体が、クローゼットの天板と天井の間のわずか三十センチの隙間に、横向きになって、無理やり押し込まれていたのだ。
肋骨が浮き出た背中は天井の石膏ボードに擦り付けられ、尖った骨盤の骨がタンスの木板に食い込んでいる。
手足は奇妙に折り畳まれ、狭い隙間に挟まったまま微動だにしなかった。
そして——最も戦慄すべきは、その女の「頭部」であった。
横たわった胴体に対し、女の首の骨は、直角——いや、百八十度近く真下へと、ゴキリと音を立てて完全に「逆折れ」にへし折られていたのである。
ボサボサに乱れた長い黒髪が、天板の縁からカーテンのように垂れ下がり、その髪の隙間から覗く、赤黒く血走った二つの眼球が。
敷布団の上に横たわるジフンの瞳を、真上から、数メートルの至近距離で、瞬き一つせずに見下ろしていた。
目が、合った。
その瞬間、女の乾ききった紫色の唇が、左右の耳の付け根まで引き裂かれるように、ぐにゃりと歪んだ。
音はなかった。
声帯が潰れているのか、女はただ喉の奥をヒクヒクと痙攣させながら、声にならない「哄笑」の形に口を開け、狂気じみた歓喜の表情で、ジフンの恐怖を貪るように見つめ続けていたのだ。
「う、あ……ああっ……!」
ジフンは声にならない悲鳴を上げ、渾身の力で右手の親指を跳ね上げた。
プツン、と何かの糸が切れたように金縛りが解けた。
ジフンは敷布団を蹴飛ばして飛び起き、壁の照明スイッチを力任せに叩きつけた。
パッと部屋全体に白い蛍光灯の光が満ちる。
クローゼットの上を見上げた。
そこには——誰もいなかった。
ただ、白茶けた天井板と、埃の積もったタンスの天板、そして暗い三十センチの空間が、何事もなかったかのように静まり返っていた。
だが、ジフンは敷布団の上に崩れ落ちたまま、自らの下腹部が冷たく濡れていることに気づいた。二十歳を過ぎた男が、ただ一度の悪夢によって、失禁するほどの恐怖に叩き落とされていたのである。
第三章 不動産屋の白地と、消えた女子大生
夜が明けるまでの数時間、ジフンは部屋の隅に背中を押し付け、全照明を点灯させたまま、震える手でナイフを握りしめて過ごした。
一睡もできなかった。天井の隙間から、常に誰かの冷たい呼気が落ちてきているような錯覚が消え去ることはなかった。
午前九時、街が活動を始めた瞬間、ジフンは財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込み、転がるようにして部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、朝の冷たい空気を吸い込んだとき、ようやく肺腑に酸素が戻ったような気がした。
向かったのは、あの契約を交わした新林駅裏の古い不動産仲介所であった。
ガラス戸を勢いよく開けると、奥の机で新聞を読んでいた初老の店主が、血相を変えて飛び込んできたジフンの姿を見て、露骨に眉をひそめた。
「なんだい、学生さん。朝っぱらからそんな恐ろしい顔をして」
ジフンは机に両手を叩きつけた。
「契約を解除してください。今すぐです。違約金でも何でも払いますから、あの部屋の保証金を返してください!」
店主の眼鏡の奥の眼が、ピクリと動いた。
「……おいおい、まだ一日しか経ってないじゃないか。何があったんだい。部屋の設備に不具合でもあったのか?」
「出たんです!」ジフンは掠れた声で叫んだ。「クローゼットの上です! あのタンスの上の隙間に、首の折れた女が挟まって……僕を見下ろして笑っていたんだ!」
その言葉を口にした瞬間であった。
店主の赤ら顔から、潮が引くように血の気が引いていった。
店主は手元にあった新聞を取り落とし、半開きになった唇をワナワナと震わせながら、ジフンの顔を凝視した。
その反応は、突拍子もない苦情を笑い飛ばす人間のそれとは根本的に異なっていた。店主の瞳の奥に浮かんでいたのは、長年恐れていた「爆弾」がついに炸裂したことを悟った者の、純粋な絶望の色であった。
「……見たのか」
店主の声は、先ほどまでの愛想の良さが嘘のように低く、湿っていた。
「お前さんも……あの女を、見たんだな」
店主が震える手で引き出しから取り出し、机の上に放り出したのは、四〇二号室の過去の賃貸管理台帳であった。
そこに記録されていたのは、異常極まる入居者たちの「履歴」であった。
二〇一四年八月入居:二十代男性(就活生)——入居から十一日目に退去。
二〇一五年二月入居:二十代女性(会社員)——入居から一週間で行方不明、後に親族が契約解除。
二〇一五年九月入居:二十代男性(大学生)——入居から三日目に精神錯乱で救急搬送、即日退去。
そして、ジフンの直前の住人であった二十代の予備校生——入居からわずか二週間で、荷物をすべて部屋に残したまま実家へ逃げ帰り、「天井から誰かが降りてくる」と泣き叫んで二度と戻らなかったという。
「……あの部屋はね、三年前までは普通の部屋だったんだよ」
店主はタバコに火をつけ、灰皿の縁を見つめながらポツリと語り始めた。
三年前の夏、地方からソウルの名門女子大に入学したある女子学生が、あの四〇二号室に暮らしていた。
真面目で内向的な娘であったが、悪質な投資詐欺に巻き込まれ、多額の借金を背負わされた末、誰にも相談できぬまま孤立していった。
そしてある猛暑の日、彼女は部屋の内側からドアの隙間に目張りを施し、姿を消した。
異臭に気づいた近隣住民の通報で警察が踏み込んだとき、密室となった室内には遺書が一枚残されていたが、彼女の遺体は床のどこにも見当たらなかった。
捜査員が部屋中を探し回り、最後に脚立を使って覗き込んだ場所——それこそが、あのクローゼットの天板と天井の間、わずか三十センチの暗黒の隙間であった。
彼女は、自らの手足の関節を無理やりに脱臼させ、骨を軋ませながら、その狭隘な空間に自らの身体を横向きにねじ込み、そこで劇毒物を煽って命を絶っていたのだ。
発見されたとき、死後二週間が経過した遺体は、夏の熱気の中で天井の石膏ボードとクローゼットのメラミン板にドロドロに癒着しており、剥がし取るために大掛かりな解体作業を要したという。
「大家は部屋の壁紙を張り替え、床を削り、何百万円もの金をかけて霊媒師を呼んでお祓いをした。だが……駄目だったんだ。あの部屋に入った人間は、例外なく、あの隙間に『何か』を見る」
店主は青ざめた顔で首を横に振った。
「前の男も、その前の娘も、みんな同じことを言って逃げ出したよ。『クローゼットの上から、首を折った女が見下ろしている』ってな……」
第四章 掲示板の返信と、赤い警告
ジフンはその日のうちに四〇二号室の解約手続きを完了させた。保証金の全額返還は認められず、敷金の一部を違約金として毟り取られたが、あの呪われた空間から逃れられるのであれば、金などどうでもよかった。
身の回りの荷物をゴミ袋に詰め込み、逃げるように新林洞を去った彼は、当面の宿として、大学の先輩が住む麻浦区(マポグ)の広々としたアパートの客間に転がり込んだ。
その夜、先輩が夜勤で不在の静まり返ったリビングで、ジフンはノートパソコンを開いていた。
恐怖と怒り、そして誰かにこの体験を共有しなければ正気を保てないという切迫感から、彼は韓国最大級のコミュニティサイトのオカルト掲示板に、昨夜から今朝にかけての顛末を、部屋の間取りや家賃の条件を含めて詳細に書き連ねたのである。
スレッドのタイトルは、『新林洞の保証金五百万ウォン、月税三十万ウォンのワンルームの実態』。
投稿からわずか一時間のうちに、その書き込みは凄まじい反響を呼んだ。
「新林洞でその条件は確実に事故物件だろ」「クローゼットの隙間三十センチとか怖すぎる」「写真をアップしてくれ」といった野次馬のコメントが何百件と連なり、スレッドはリアルタイムランキングのトップへと駆け上がっていった。
ネットの住人たちの軽薄な反応を眺めるうち、ジフンは自らの恐怖が客観的な「怪談話」へと薄められていくような、束の間の安堵感を覚えていた。
だが、深夜午前二時を回った頃。
掲示板の通知欄に、ある一つの短い返信が届いた。
投稿者のIDは、ランダムな英数字の羅列。
そのアカウントは、このスレッドに返信するためだけに作られた、捨てアカウントであった。
画面に表示されたその文面を目にした瞬間、ジフンの指先は凍りついた。
投稿者:anon_8821
『四〇二号室ですね。……私は、あなたの二代前にあの部屋に住んでいた者です。
すぐに部屋を出たのは賢明でした。あそこの大家と不動産屋は、人が死ぬのを分かっていて部屋を回しています。
でも……あなたに、どうしても伝えておかなければならないことがあります。
あの部屋を出ても、無駄ですよ。
あなたは、あの隙間にいた彼女と、完全に目が合ってしまったのでしょう?
あの女はね、部屋に憑いている地縛霊じゃないんです。
自らの骨を折って天井の隙間に潜り込んだあの日から、彼女は「隙間そのもの」の概念になってしまった。
一度目が合ってしまった人間は、もうあの部屋から逃げても関係ありません。
彼女は部屋についてくるんじゃない。
あなたがこれから行く、天井がある場所のすべてについてくるんです』
液晶画面の青白い光が、ジフンの瞳の中で激しく明滅した。
指先が痙攣し、マウスを取り落とした。
「……嘘だ」
声が震えていた。
「ただの愉快犯の書き込みだ。ネットのオカルトマニアが、怖がらせようとしてデタラメを書いているだけだ……」
ジフンは画面を乱暴に閉じ、立ち上がった。
水を飲もうとキッチンの方向へ向かおうとした、その時であった。
ミシ……。
頭上から、音が降ってきた。
第五章 実家の梁と、遮るもののない天板
ジフンは立ち止まり、恐る恐る視線を持ち上げた。
そこは、先輩のアパートの広々としたリビングであった。天井の高さは三メートル近くあり、天井と家具の間には何十センチもの隙間など存在しない、フラットな壁紙が広がっているはずであった。
だが——リビングの片隅に置かれていた、大型の冷蔵庫。
そのスチール製の天板と、石膏ボードの天井との間。
わずか二十センチほどの、埃の溜まった薄暗いスリット。
その暗闇の中から、二つの「血走った光点」が、ジフンを見下ろしていた。
ギチ……ギチ……ギチ……。
首の骨を万力でねじ曲げるような、乾いた骨の擦過音が静寂を切り裂いた。
冷蔵庫の上の隙間から、あのボサボサの黒髪が、スルスルと黒い糸の滝のように垂れ下がってきた。
そして、あの耳まで裂けた唇が、音のない笑みを浮かべながら、ジフンの瞳を捕らえたのだ。
『……みィ……つ……け……た……』
「うわあああああああっ!!」
ジフンは絶叫し、財布も携帯電話も放り出してアパートを飛び出した。
外は雨が降っていたが、傘を差す余裕すらなかった。彼は夜のソウルの街を、狂ったように走り続けた。
コンビニエンスストアの蛍光灯の下、地下鉄の地下通路、公衆トイレ——屋根のある場所、天井のある場所に足を踏み入れるたび、棚の上、換気口の隙間、非常口の標識の裏側の暗闇から、あの女の血走った眼球が、首を折って自分を覗き込んでいる気配が背筋に突き刺さる。
彼はソウルから逃げ出した。
始発の高速バスに飛び乗り、数百キロ離れた全羅南道の山間部にある、自らの実家へと逃げ帰ったのである。
築六十年を超える、伝統的な韓屋(ハノク)造りの古い平屋建ての生家。
泥まみれになって転がり込んできた息子の錯乱ぶりに、両親は驚愕し、急ぎ近隣の寺院から僧侶を呼び、居間で読経の儀礼を執り行った。
「もう大丈夫だ、ジフン。ここは先祖代々の土地だ。悪霊など入ってこられるはずがない」
父親は憔悴したジフンの肩を抱き、温かいコムタン(牛骨スープ)を口に運ばせてくれた。
部屋には高い家具など何一つ置かれていなかった。箪笥も本棚もなく、天井は剥き出しの太い松の「梁(はり)」が交差し、遮るもののない白塗りの韓紙が貼られているだけであった。
(ここなら大丈夫だ……隙間なんて、どこにもないんだから)
ジフンは涙を流し、両親の温もりにすがりつきながら、三日ぶりに敷布団の上へと横たわった。
だが、時計の針が午前三時を指した瞬間。
部屋の空気は、再びあの絶対零度の凍結へと叩き落とされたのである。
金縛りが、彼の四肢を万力のように締め上げた。
呼吸が止まる。
ジフンは絶望の涙を流しながら、見上げたくない視線を、ゆっくりと頭上の天井へと向けた。
隙間など、存在しないはずだった。平坦な天井板と、一本の太い松の横木があるだけであった。
だが——その松の梁の「上面」——梁の背中と、天井の韓紙の間の、わずか十数センチの細い窪み。
そこに、あの女の青白い手が、しっかりと爪を立てていた。
ギチ……ギチ……。
梁の上から、首の骨を百八十度真下へへし折った女の頭部が、逆さにぶら下がってきた。
女の顔面は、以前よりもさらに腐敗が進み、皮膚の下から露出した白い頭蓋骨が月光に照らし出されていた。
女はジフンの鼻先わずか数センチの位置まで自らの顔を垂れ下げ、耳元まで引き裂かれた口から、ドロリとした冷たい血の涎をジフンの頬へと滴らせながら、囁いたのだ。
『……どこへ……いっても……むだ……よ……』
『……てんじょうは……ぜんぶ……つながって……いるの……だから……』
終章 天を見上げぬ人々
あれから、十年近い歳月が流れた。
現在、ジフンはソウルのIT企業を完全に退職し、江原道(カンウォンド)の風力発電所が点在する、人里離れた吹き曝しの高原の片隅で、一人きりで暮らしている。
彼の住居は、周囲の農民たちからも奇異の目で見られる、極めて異常な構造をしている。
彼が暮らす平屋の掘っ立て小屋には、「平らな天井」が存在しない。
屋根はトタン板が極端な急勾配を描いて地面すれすれまで切れ落ちており、室内には梁も、柱の窪みも、家具の天板も一切存在しない。
洋服はすべて床の上に直接置かれたプラスチックの衣装ケースに収められ、ベッドも机も置かれていない。
室内には、家具と天井が作り出す「水平の隙間」が、ミリ単位ですら存在しないのだ。
そして、ジフン自身もまた、徹底した奇習を自らに課して生きている。
彼は屋外を歩く際、常に深く鍔の広い帽子を目深に被り、視線を決して地面から離そうとしない。
どれほど晴れ渡った青空の下であっても、ビルの軒下、地下鉄の入り口、トンネル、バスの停留所——「頭上に構造物がある場所」には、決して足を踏み入れない。
もし、日常の中でふとした弾みに、誰かの家のクローゼットの上や、書架の天板の隙間を目にしてしまえば、その瞬間に自らの精神が完全に崩壊することを知っているからだ。
現代社会において、人間が「天井のない空間」だけで生涯を完結させることなど、決して不可能である。
会社、学校、駅、商業施設、そして自宅。
私たちが安全な城であると信じ込んでいるあらゆるコンクリートの箱の内部には、例外なく、人間の頭上数十センチの場所に、家具と天井が作り出す「冷たい隙間」が口を開けている。
今夜、あなたの部屋の明かりを消す前に。
どうか、寝室のクローゼットの上、あるいは本棚の天板の隙間を、一度だけ見上げてみてほしい。
そこには、本当に何も挟まってはいないだろうか。
埃の積もったわずか数十センチの暗黒の奥底から、首を直角に折り曲げた誰かの血走った眼球が、あなたが眠りにつく瞬間を、息を殺して見下ろしてはいないだろうか。
もし、暗闇の中で誰かの視線と完全に目が合ってしまったとしたら——。
どうか、覚えておいてほしい。
その部屋の鍵を投げ捨て、どれほど遠い街へ逃げ出そうとも、この地上のあらゆる屋根の裏側は、あの暗黒の隙間と、最初から一つに繋がっているのだということを。

まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。