序章 泥の胎内と、鬼月の灯篭
メコン河の水の色を、旅人は往々にして「カフェオレのようだ」と表現する。
だが、その表現はあまりに都会的で、この巨大な水脈の底に潜む暴力的な生命の匂いを削ぎ落としてしまっている。乾季から雨季の境目、上流のチベット高原から削り取られた赤土と、ラオスやタイの熱帯雨林が吐き出した腐植土をたっぷりと呑み込んだその水流は、水というよりも、生ぬるい液状の泥炭そのものである。粘りつくような熱気の中、濁った水面を無数のホテイアオイの浮草が千切れては流れ、岸辺の密林からは名もなき鳥たちの引き裂くような啼き声が絶え間なく降り注ぐ。
この大河のほとりに立つとき、人間は己の足元にある文明の薄皮が一瞬で剥ぎ取られるのを感じざるを得ない。
仏教の国と称されながら、その祈りの皮膚を一枚めくれば、そこには仏陀の教えが伝来する数千年前からこの泥水に息づいてきた、生々しいアニミズムの肉塊が横たわっている。四角い電線管を這う毒蛇、水上高床住居の床下で腐敗する魚肉、そして人々の胸の奥に根を下ろす「ピー(精霊・亡霊)」への底知れぬ畏怖。
旧暦七月十五日、東アジアでいう中元節——いわゆる「鬼月(ゴースト・マンス)」の満月が昇る頃、メコンの川辺には死者たちの渇きを癒すための粗末な灯篭が流される。
三年前のまさにその夜、タイ、ラオス、ミャンマーの国境が複雑に絡み合う黄金の三角地帯のさらに奥地、地図の上にも確かな集落名が記されていない泥の岸辺で、私は自らの眼の網膜を、そして生物学の常識を永遠に狂わせることになる「ある異形の共生」を目撃したのである。
第一章 国境の渡し守と、消えた案内人
その村に滞在して一ヶ月が過ぎた頃、私の精神はすでに限界に達していた。
任務の詳細は伏せるが、周辺国の国境警備隊と密貿易商人が睨み合うその山間の寒村には、娯楽と呼べるものが何一つ存在しなかった。粗末な竹組みの市場に行けば、盥の中にぶつ切りにされた巨大なニシキヘビの白い肉や、鰐の燻製が蝿にまみれて並んでいるだけであり、どれほど懐を膨らませて紙幣を持っていようとも、使い道などありはしない。
退屈に耐えかねた私は、村に出入りしていた華人系の通訳兼ガイドの男に、法外な日当を握らせて「退屈しのぎに、メコンの安全な入江で釣りができる場所へ連れて行ってくれ」と頼み込んだ。
だが、その案内人は口先だけの俗物であった。隙あらば国境沿いのいかがわしい風俗店や麻薬の煙窟へ私を連れ込もうとし、大声で己の蓄財や愛人の自慢話を捲し立てる。耐えかねた私が「もうお前はいい、代わりにこの川を熟知している本物の地元民を呼んでこい」と一喝したところ、男が憮然とした顔で連れてきたのが、その青年であった。
「ピラニアでも釣りたいって言うなら、山を二日歩かなきゃいけませんが、川の主ならここから舟を出せばすぐですよ」
青年の口から滑らかに零れ落ちたのは、訛りのない流暢な北京官話(標準中国語)であった。
私が目を丸くして立ち尽くしていると、彼は薄い唇に微かな笑みを浮かべ、今度は完璧なクイーンズ・イングリッシュで言葉を継いだ。
「驚かせて申し訳ありません。英語のほうがよろしければ、英語でお話しします」
青年の肌は、熱帯の太陽に灼かれて赤銅色に黒光りしていた。
小柄で細身の体躯、手足には無数の古傷があり、泥にまみれた短いズボンを履いたその佇まいは、どこからどう見てもメコンの川漁師そのものであった。だが、背筋はミリ単位の狂いもなく真っ直ぐに伸び、その双眸の奥には、周囲の貧農たちとは決定的に異なる、深く研ぎ澄まされた知性の光が宿っていた。
名をキティサックといった。
詳しく話を聞くと、彼はかつてバンコクの最高学府であるチュラロンコン大学で生物学を専攻していた俊英であったという。しかし、故郷に残してきた妻が重い病を得て、常に誰かが傍らに付き添っていなければならない状態となったため、彼は将来を約束されていた学業をすべて投げ打ち、この文明の果ての寒村へと戻り、日々の投網と舟守で糊口をしのいでいるのだと静かに語った。
私が彼を雇うことを決め、あの下品な案内人に倍の日当を投げつけて追い払おうとした際、案内人は「分け前が足りない」と激昂し、私に向かってナイフをちらつかせて脅迫してきた。
警察を呼ぶべきか逡巡した私の前に、キティサックが静かに進み出た。
彼は案内人の耳元に顔を寄せ、タイ語の低い掠れ声で、わずか二言、三言の囁きを落とした。
その瞬間であった。
案内人の顔面から血の気がサッと引き、唇がガタガタと痙攣を始めたのだ。男は恐怖のあまり脱糞せんばかりの勢いで後ずさり、私に向かって何度も合掌して謝罪すると、一度も振り返ることなく脱兎のごとく密林の小道へと逃げ去っていった。
「……あいつに、何を言ったんだ?」
私の問いに、キティサックは白い歯を見せて穏やかに笑った。
「今日は旧暦の七月十五日、死者たちが川底から這い上がってくる中元節ですからね。この川の淵には昔から恐ろしいものが棲んでいる、あんたのような生臭い欲に塗れた人間は真っ先に引きずり込まれるぞ、と教えてあげただけです」
当時の私は、それを単なる土着の迷信を利用した知的な脅し文句に過ぎないと思い、腹を抱えて笑い飛ばした。
だが、その時の私はまだ知らなかったのだ。彼が口にした「恐ろしいもの」が、比喩でも神話でもなく、現実にこの泥水の下で熱い肺呼吸を繰り返している肉塊であったことを。
第二章 原始の魚雨と、見えざる妻の気配
キティサックの操る舟は、細長い一本の丸太をくり抜いて作られた、伝統的な木造の「ルア・ハン・ヤーオ(長尾舟)」であった。
船尾に据え付けられた年代物の自動車用ディーゼルエンジンが、轟音とともに黒煙を吐き出し、長いプロペラシャフトが濁った水面を激しく叩いて舟を前進させる。
水流は矢のように速く、両岸からは巨大な熱帯樹の枝が水面すれすれまで垂れ下がり、無数の太い蔓植物が網のように視界を遮っていた。
舟が急流を抜け、水流の淀む巨大な湾曲部へと滑り込んだとき、キティサックはおもむろにエンジンを停止させた。
静寂が戻った川面で、彼は足元に転がっていた一本の頑丈な木の枝を拾い上げ、岸辺の蔓を一本引きちぎってその先端に結びつけた。
針も糸もない。彼は草むらに這っていた太い青虫を一匹捕まえると、その蔓の端に無造作に巻きつけ、そのままドボンと濁流の中へ放り込んだのである。
「おい、針もつけずに釣れるわけが……」
私の言葉が宙で凍りついた。
枝を水に漬けたわずか数秒後、蔓がピーンと張り詰め、水面が激しく破裂したのだ。
キティサックが腕を一閃させると、三十センチを超える銀色に輝く巨大な鯉が、空中に弧を描いて舟底へと跳ね込んできた。
魚は甲板の上で狂ったように尾鰭を叩きつけ、生々しい水飛沫を私の顔に撒き散らした。
「この川では、小手先の仕掛けなど不要です」
キティサックは平然と魚の頭を木の棒で叩き、笑った。
「世界野生生物基金(WWF)の調査によれば、メコン河には世界で最も多くの巨大淡水魚が生息しています。犬の肉を好んで喰らう三メートル級のメコンオオナマズ、体重三百キロに達する巨大鯉パーカーホ、毒針を持つ巨大エイ、そして五メートルを超える雷魚。彼らは常に飢えており、水面に落ちるあらゆる動く肉を丸呑みにしようと待ち構えているのです」
巨大魚の捕獲について、私にも些かの知識があった。かつて長江の三峡付近で、現地の一本釣り漁師たちが、数百個の鋭利な鉄鉤を桐油に漬けた麻縄に並べ、川底に這わせて千斤(五百キロ)を超えるチョウザメや怪魚を仕留める「滾鉤(ローリングフック)」の現場を見たことがあった。
巨大な魚になればなるほど、その筋力は数トンのダンプカーに匹敵する。一度針にかかれば舟ごと引きずり回され、縄を切断して逃げ去るか、さもなくば人間が水底へ引きずり込まれて死ぬ。
「メコンでも大魚を捕る時は舟と命のやり取りになります」キティサックは煙草を燻らせながら言った。「夜になっても引き上げられない大魚は、仕掛けを切って捨てねばなりません。さもないと、暗闇の中で魚のほうから舟底に体当たりを喰らわせ、転覆させて人間を貪り食いますから」
「夜のメコンは、それほど危険なのか?」
「ええ。普通の漁師は、日が落ちたら絶対に舟を出しません」
「なら、お前はどうなんだ? 夜に舟を出すことはあるのか?」
私の問いに、キティサックは何の衒いもなく、深く頷いた。
「私は出しますよ。夜でも、嵐でも」
「なぜだ?」
彼は胸元に手を当て、敬虔な信徒が神の名を口にするかのような、熱を帯びた眼差しでこう答えたのだ。
「私の妻が、常に私を守ってくれているからです」
彼が妻の存在を口にしたのは、これで三度目であった。
重病で家に引き籠もっているという妻。遠く離れた村の小屋にいながら、どうやって夜の急流で夫を守るというのか。私はただ、彼が極度の愛妻家であり、過酷な現実から逃避するために、妻への思慕を一種の守護霊信仰へと昇華させているのだと解釈した。
舟はさらに下流へと進み、川幅が狭まる奇妙な峡谷へと差し掛かった。
両岸からせり出した赤黒い奇岩が頭上を覆い、昼間であるにもかかわらず、水面は薄暗い宵闇のように淀んでいた。
その時であった。
ドォォォォンッ!
突然、私たちの舟の真下の水底で、何かが激しく破裂したような衝撃が走った。
続いて、周囲数十メートルの水面が一斉に沸騰したかのように泡立ち、川全体が狂乱の坩堝へと叩き落とされたのだ。
バシャバシャバシャッ!
銀色や褐色の巨大な魚たちが、何かに追撃されたかのように、狂ったように水面から空中へと飛び跳ね始めた。一匹、二匹ではない。数十匹、数百匹の魚が、まるで天から降り注ぐ大粒の雹のように、私たちの頭上を飛び交い、舟の甲板へとドタバタと雪崩れ込んできたのである。
「魚の雨だ……! おい、何が起きてるんだ!」
私は飛び込んできた巨大な雷魚のぬめりを手で押さえつけながら叫んだ。
だが、キティサックは櫂を握ったまま、飛沫を浴びて微笑んでいた。その表情には、驚きも恐怖も一片たりとも存在しなかった。彼は水面に向かって静かに合掌し、優しく呟いたのだ。
「妻です。……彼女が、あなたを歓迎しているんですよ」
第三章 水底の焔と、人首蛇身の系譜
「……妻だって?」
私の喉から、引き攣った声が漏れた。
「お前の奥さんが、どうやって川底の魚を舟に飛び込ませるんだ? 奥さんは人間じゃないのか?」
キティサックは水面を見つめたまま、静かに振り返った。
その黒い瞳の奥に、水底の藻のように揺らめく、底知れぬ静寂があった。
「私の妻は、人間ではありません」
それ以上の追及を拒むかのように、舟は狭隘な水道を抜け、淀んだ広大な淵へと滑り出した。
川岸には鬱蒼としたバナナの木が垂れ下がり、その根元には、太い朽ち木のような灰色の物体が幾重にも折り重なって水面に浮いていた。
キティサックが櫂を止め、声を潜めて言った。
「先生、身体を低くして、決して大きな音を立てないでください。ここから先は、鰐の縄張りです」
水面に浮かんでいた無数の「朽ち木」——その表面に刻まれた、ゴツゴツとした硬質の鱗と、水面から突き出た黄色い眼球を捉えた瞬間、私の心臓は喉元まで跳ね上がった。
シャムワニ、そして汽水域から遡上してきたイリエワニの群れであった。
体長四メートルから五メートル。最大級の個体に至っては六メートルを優に超え、牛の骨をも一撃で粉砕する顎を持つ淡水の絶対捕食者たちが、舟の周囲わずか数メートルの泥水の中を、音もなく旋回していたのだ。
恐怖のあまり指先が痙攣する私に対し、キティサックの態度は信じがたいほど沈着であった。彼はワニの群れをただの邪魔な浮草であるかのように視線で払い、水底の深みを指差しながら、生物学者特有の平淡な口調で語り始めた。
「先生、あなたは『ナーガ(パヤーナーク)』をご存知ですね。タイの寺院の階段の欄干に刻まれている、多頭の蛇神です。……世間の人間はそれを、単なる仏教の意匠、あるいは想像上の霊獣だと思い込んでいます。
ですが、生物学の進化論の観点から見れば、このメコンの熱帯雨林ほど、巨大な爬虫類が無制限に肥大化するための完璧な条件を備えた環境は地球上に他にありません」
キティサックは、毎年十月の解夏節(オークパンサー)の満月の夜、タイ東北部のノンカーイ一帯のメコン河底から、淡い赤色の火球が無数に噴き上がり、天空へと昇って消えていく世界的怪異「ナーガの火の玉(バンファイ・パヤーナーク)」の現象について言及した。
科学者たちは長年、河底の堆積物が発酵して生じたメタンガスの自然発火現象であると主張してきた。しかし、メタンの燃焼炎は青白く、大気中に浮上した瞬間に弾けて消滅する。数十メートルもの高度まで規則正しく上昇し続けるあの赤い燐光の正体を、流体力学も有機化学も未だ完璧には証明し得ていない。
「現地の古い人々は知っています。あれはメタンなどではなく、川底の巨大な空洞で眠る主たちが、呼吸の合間に吐き出す生体発光の飛沫なのだと。……中国の古代神話において、人類の始祖とされる伏羲や女媧は、すべて人面蛇身の姿で描かれていましたね。
仏教の八部衆の一角、摩睺羅伽(マホーラガ)もまた、大蛇の神格化です。古代の人類は、自らの血の中に、この冷血の主たちの遺伝子を混淆させていたのではないか……そう考えたことはありませんか?」
「人間と……蛇が交わるだと?」
私の問いに、キティサックは嘲笑うでもなく、ただ哀しげに目を伏せた。
「愛という情念の引力は、人間が作り上げた浅薄な種族の境界など、容易に踏み越えてしまうものですよ。……現に、私の心臓は、彼女なしでは一秒たりとも動かないのですから」
その狂気の告白の余韻を破ったのは、私の愚かな指先が引き起こした、致命的な「過失」であった。
第四章 死の澱みと、牙を鳴らす巨鰐
川岸のぬかるんだ砂洲の上に、一頭の異様な巨躯が横たわっていた。
全長七メートルに達しようかという、化石のような巨大ワニであった。胴回りは樹齢百年の巨木ほどもあり、背中の隆起した鱗甲にはびっしりと青苔がこびりついていた。
巨鰐は泥の上で大口を無防備に開き、死んだように日光浴をしていた。
そして、その鋸のような鋭利な歯の隙間を、一羽の白と赤の斑紋を持つ小鳥——ワニドリ(エジプシャン・プローバーに似た水鳥)が、小刻みに跳ね回りながら、歯肉に挟まった腐肉の残滓を啄んでいたのである。
共生関係の奇跡。
動物図鑑の挿絵でしか見たことのない、狂暴な捕食者と無防備な鳥の絶対の調和。
野生動物の撮影を趣味としていた私の理性のタガが、その決定的瞬間を前にして完全に弾け飛んでしまった。
「撮らなければならない」
恐怖を好奇心が塗り潰した。私はキティサックの制止の手を払いのけ、バックパックから望遠レンズを装着した一眼レフカメラを引っ張り出した。
ファインダーを覗き込み、フォーカスリングを回す。
巨鰐の濁った黄色い虹彩、歯肉に食い込む肉片、小鳥の細い嘴。完璧な構図。
人差し指が、無意識のうちにシャッターボタンを深く押し込んでいた。
カシャッ……巻き上げ音、チッ。
最新鋭のカメラの静音シャッターであった。
だが、あの無音の熱帯雨林の澱みにおいて、その機械的な金属の摩擦音は、まるで静寂のガラスを金槌で叩き割ったかのように、鋭く空間を切り裂いた。
小鳥が弾かれたように飛び立った。
巨鰐の黄色い眼球が、ギロリと水平に回転し、ファインダー越しに私の瞳と完全に合致した。
グルルルルル……ッ!
地中深くから響くような、重低音の威嚇音が大気を震わせた。
巨鰐の巨体が、泥を爆発させて跳ね上がった。泥水の中に巨体が滑り込み、次の瞬間には、水面に太いV字の引き波を立てながら、時速数十キロの猛烈な速度で私たちの木舟へと突進してきたのである。
同時に、周囲の浅瀬に潜んでいた十数頭のワニたちが、ボスの咆哮に呼応するように一斉に水面を割り、逃げ場を塞ぐように輪を縮め始めた。
「言わんこっちゃない!」
私は散弾銃も持たぬ己の無力さに絶叫し、舟底にへたり込んだ。
舟は木の葉のように揺れ、突進してくる巨鰐の巨大な吻部が、水面を割って舟べりへと迫る。開かれた顎の深奥、腐敗した肉の悪臭が風に乗って私の顔面を直撃した。あと三秒で、この粗末な木舟は粉々に噛み砕かれ、私は泥水の中で生きたまま解体されるはずであった。
だが——その破滅の秒読みのただ中にあって、キティサックは微動だにしなかった。
彼は立ち上がり、右手を高く掲げると、胸元の翡翠のペンダントを引きちぎり、濁流の中へと投げ落とした。
そして、喉の奥から、人間の言語ではない、鈴の音を何千重にも共鳴させたような、澄み切った高周波の絶叫を水底へと放ったのだ。
「リサッ!!」
第五章 深淵の波紋——水神「リサ」の現出
その叫びが水面に吸い込まれた刹那、川の流れが「逆流」した。
下流へ向かって流れていたはずの濁った水塊が、まるで巨大な見えない堰によって押し留められたかのように盛り上がり、舟の周囲数十メートルにわたって、凄まじい大渦が発生したのだ。
ゴボッ、ゴボボボボッ!
水底から、大人の背丈ほどもある巨大な気泡の群れが無数に噴き上がり、強烈なオゾン臭と、古い洞窟の奥底から吹き出すような清冽な冷気が大気を満たした。
突進してきていた巨鰐が、舟の前方わずか二メートルの位置で、唐突にその動きを止めた。
怪物は水中で狂ったように身悶えし、全身の鱗を逆立て、まるで熱湯を浴びせられたかのように激しく尾を振って後退しようともがいた。
だが、逃げ場はすでに塞がれていた。
ドオォォォォォンッ!!
爆発のような水柱とともに、水底の暗黒を突き破って出現した「それ」の質量を目にした瞬間、私の脳髄の全機能は完全に麻痺した。
巨木ではなかった。潜水艦でもなかった。
水面を割って屹立したのは、水樽を遥かに超える太さを持つ、青黒い鋼鉄のような鱗に覆われた「長大な肉の柱」であった。
水飛沫が豪雨のように私たちの舟へと降り注ぐ中、その肉柱は天を突くように高く、高く持ち上がり、川面から五メートル以上の高さに達した。
その先端にあったのは、菱形に研ぎ澄まされた、太古の恐竜の生き残りを思わせる巨大な蛇の頭部であった。
頭頂には、淡い朱色に発光する鶏冠のような硬質の突起が二本、角のように後方へと伸びていた。
そして、その顔面の両側に据えられた瞳——夕暮れの陽光を浴びて深紅に輝くその巨大な眼球は、野獣の凶暴さではなく、気の遠くなるような時間を生き抜いた超越者だけが湛えることのできる、底知れぬ静謐と哀憐の光を湛えていたのだ。
全長は、水面下に隠された部分を含めれば、三十メートルを優に超えていたはずだ。
その巨躯が身を震わせるたび、メコンの川幅いっぱいに巨大な波頭が立ち、私たちの舟を木の葉のように持ち上げた。
七メートルの巨鰐が、その怪物の威容の前にあっては、まるで大樹の根元を這う小さなヤモリに過ぎなかった。
大蛇は、攻撃することすらしなかった。
ただ、その深紅の双眸をゆっくりと見下ろし、喉の奥から、地鳴りのような重低音の唸りを一声、川面に響かせただけであった。
それだけで、勝負は終わった。
巨鰐は恐怖のあまり半狂乱となって泥水を掻きむしり、自らの顎を岸辺の巨岩に激突させながら、命からがら密林の奥底へと這い蹲って逃走した。周囲を囲んでいた無数のワニたちもまた、一瞬にして潜航し、泥の底へと四散していった。
静寂が戻った。
波が収まり、舟が水平を取り戻す中、その神話の巨獣は、ゆっくりと、その巨大な頭部を私たちの舟の高さまで下降させてきた。
トラックのボンネットほどもある巨大な顎が、私の鼻先わずか数十センチの位置で静止する。
蛇の鼻孔から吐き出される湿った温風が、私の頬を撫でた。生臭さなど微塵もなかった。それは、雨上がりの蓮の葉が放つような、どこか甘く清らかな香気であった。
キティサックが進み出て、愛おしそうにその冷たい青黒い鱗へと自らの両手を伸ばした。
大蛇は目を細め、まるで飼い主に甘える猫のように、その巨大な頭部を青年の掌へとそっと擦り寄せた。
青年は私を振り返り、誇らしげに、そして限りなく優しい声で言ったのである。
「先生、ご紹介します。……私の妻です。世間の人は彼女をナーガと呼びますが、私にとっては、ただ一人の『リサ』です」
大蛇は、私の凍りついた顔をその紅い瞳で見つめると、まるで人間の礼節を解しているかのように、優雅に、誇らしげに、一度だけ小さく頭を垂れた。
そして、音もなく反転し、巨大な尾鰭で水面を撫でるようにして、再びメコンの泥濘の深淵へと滑り落ちていった。
水面が静まった後、川の上には、驚愕のあまり跳ね上がった無数の魚たちが残した、きらきらと光る白い鱗だけが、夕暮れの金色の光を浴びて無数に漂っていた。
第六章 禁忌の契りと、国境の遁走
帰路の舟の上で、夕闇が密林を黒い影で覆い尽くす中、キティサックはぽつりぽつりと自らの半生を語り始めた。
彼がリサと最初に出会ったのは、今から二十年前——彼がまだ十歳にも満たない幼い少年だった頃のことであった。
貧しい漁師の家に生まれた彼は、父親の目を盗んで小舟を出し、今日私たちが訪れたあのワニの淵へと誤って迷い込んでしまった。舟はワニに体当たりされて転覆し、泥水の中に投げ出された彼が死を覚悟したその瞬間、水底の暗黒から現れたあの大蛇が、ワニの群れを蹴散らし、彼をその広い背に乗せて岸辺へと救い上げたのだという。
命の恩人としての出会い。
それ以来、少年は誰にも言えない秘密として、週に一度、傷んだ魚や果物を抱えてあの淵へ通うようになった。
大蛇は驚くべき知能を持っていた。少年の言葉を理解し、少年の喜怒哀楽を察し、その孤独な心に寄り添い続けた。
数百年、あるいは千年の時をメコンの底で孤独に生き続けてきた霊獣にとってもまた、自らを恐れずに無垢な瞳で話しかけてくるその人間の子供は、暗黒の水底に差し込んだ唯一の温もりであったのかもしれない。
だが、少年が成長し、青年の肉体と理性を持つにつれ、その親愛の情は、言葉にすることすら許されぬ「狂おしい執着」へと純化されていった。
彼は自らの心が、人間という種の限界を越え、あの冷血の巨獣へと完全に奪われていることに戦慄した。
禁忌の愛。世俗の倫理が許すはずもない、神仏への冒涜。
彼は自らの狂気を治療するため、必死の思いで猛勉強を重ね、バンコクのチュラロンコン大学へと進学した。大都会の喧騒と、最先端の自然科学の知識によって、あの泥水の記憶を脳髄から削ぎ落とそうとしたのだ。
だが、無駄であった。
コンクリートの近代建築の中にいても、講義室で顕微鏡を覗いていても、彼の耳底には常に、あのメコンの濁流の底から自らを呼び続ける、リサの悲痛な鳴動が響き続けていた。
大学三年生の夏、彼は自室で突然の激しい高熱と喀血に倒れた。
医師たちは原因を特定できなかったが、彼には分かっていた。遠く数百キロ離れたメコンの底で、リサが自らを失った悲しみゆえに衰弱し、死にかけているのだと。魂の糸が引きちぎれかけていたのだ。
青年は翌朝、退学届を机の上に残し、持てる限りの荷物を捨てて駅へと走った。
家族を捨て、将来を捨て、人間社会のすべてを脱ぎ捨てて、彼はあの泥の岸辺へと舞い戻った。
川岸に立ち、名を呼んだ瞬間、水底から躍り出てきた大蛇の冷たい涙が、彼の胸を濡らしたとき、彼は自らの残りの生涯を、この神話の怪物とともに終えることを誓ったのである。
「先生、人は私を狂人だと笑うでしょう」
夜の帳が完全に降りた川面で、キティサックの横顔は、青白い月光に照らされて聖者のように澄み切っていた。
「ですが、私にとって、愛とは形骸化された倫理の問題ではありません。魂が互いを求め合い、融け合うことこそが愛であるならば、彼女の肉体がどれほど巨大であろうと、どれほど冷たい鱗に覆われていようと、何の違いがあるというのですか」
彼は静かに舵を握り、村の灯りが見える船着き場へと舟を寄せた。
舟を降りる際、私は彼に約束の報酬の数倍の紙幣を差し出したが、彼はその中から本来の正規料金だけを抜き取り、残りを丁寧に押し戻してきた。
「私は金のために彼女を利用しているのではありません。ただ……あなたが彼女の存在を、偏見のない眼で見届けてくれたこと、それだけで十分なのです」
彼は一度だけ深々と頭を下げると、夜の闇の中へと音もなく消え去っていった。
終章 湄公河の残照と、失われた足跡
その翌日、私は激しい熱病に倒れ、国境沿いの粗末な診療所のベッドで三日三晩を高熱にうなされて過ごした。
熱が引き、鉛のように重い身体を引きずって再びあの船着き場へと向かったとき、そこにあの長尾舟の姿はなかった。
村の長老や漁師たちに、キティサックの行方を尋ねて回った。
だが、返ってきた答えは、私の背筋を氷のように冷たく撫で上げるものばかりであった。
「キティサック? ……そんな名前の若者は、この村には昔から一人もおらんよ」
「チュラロンコン出のインテリが、こんな泥溜まりで漁師などするはずがなかろう」
「あんた、中元の夜に一人で舟を借りて出ていったきり、岸辺の藪で行き倒れて運ばれてきたんだぞ。川のピーにでも化かされたんじゃないのか」
誰も、彼の存在を記憶していなかった。
彼が住んでいたという川沿いの粗末な小屋の跡地を訪ねても、そこにはただ、人間の背丈を超える鬱蒼とした竹林と、湿った腐葉土が広がっているだけであった。
残されていたのは、私のカメラのメモリカードの奥底——あの撮影に失敗したはずの暗黒のデータの中に、たった一枚だけ保存されていた、破損した画像ファイルだけであった。
激しくブレたそのノイズだらけの写真の片隅。
泥水の飛沫の向こう側に、確かに写り込んでいたのだ。
夕暮れの残光を浴びて、深紅の光を放つ、巨大な縦長の瞳孔を持つ「一個の眼球」が。
現在、私はコンクリートとアスファルトで覆われた東京の片隅で、この手記を執筆している。
机の上の蛇口を捻れば、無味無臭の透明な水道水が淀みなく流れ落ちる。
だが、その清潔で無機質な水の流れを見つめるたび、私の脳裏には、あのメコンの生温かい泥水の感触と、蓮の香りを纏った巨大な大蛇の吐息が、昨日のことのように生々しく蘇るのだ。
人間は、自らが定めた科学という檻の中に世界を閉じ込め、理性にそぐわぬ怪異を「迷信」という名のゴミ箱へと掃き集めて安心を得ようとする。
だが、地球の血管のように脈打つあの熱帯の濁流の底では、今この瞬間も、人間の言葉を持たぬ太古の巨獣たちが、静かにその巨躯を蠢かせている。
そして、その冷たい鱗の温もりを求めて、自らの人間性を脱ぎ捨てた一人の青年が、月光の届かぬ泥の胎内へと、今宵もまた静かに沈んでいくのかもしれない。
メコンは、すべてを呑み込んで流れ続ける。
神も、獣も、そして狂気と呼ばれた愛の記憶すらも、その悠久たる濁流の底へと、永遠に覆い隠しながら。

まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。