序章 サン川の消えた谷
ポーランド南東部、ウクライナおよびスロバキアとの国境が複雑に交わるポドカルパチェ県の最果てに、ビェシュチャディ山地は横たわっている。首都ワルシャワや古都クラクフの洗練された街並みから遠く離れたこの山岳地帯は、国内において「文明を捨てて辿り着く最後の荒野」として知られてきた。見渡す限りのブナの原生林、うねるように連なる草原の稜線ポウォニナ、そして秋の深まりとともに急速に色を失っていく褐色の渓谷。
冬が近づけば、ヨーロッパでも最も人工光の少ないこの暗黒の空の下で、狼の遠吠えと凍てつく風の唸り声だけが世界を満たす。
しかし、この山地が抱える静寂は、太古から続く自然のそれではない。それは、徹底的な暴力によって人為的に作られた静寂だった。
かつてこの谷あいの斜面には、ボイコ人やレムコ人と呼ばれる東方スラヴ系の先住山岳民が築いた数百もの村々がひしめき合っていた。彼らは丸太を組んだ独特の家屋に住み、青銅の三脚十字架を掲げた木造の東方正教会、すなわちツェルキェフの鐘の音とともに、牛を追い、痩せた土地を耕して生きていた。
その数百年にわたる暮らしは、第二次世界大戦直後の千九百四十七年、共産主義政権が断行した「ヴィスワ作戦」によって一瞬にして断絶させられた。民族浄化とゲリラ掃討を名目にした軍の包囲網の中、住民たちはわずか数時間の猶予で全財産を荷車に積むよう命じられ、家畜とともに平野部や旧ドイツ領の西部開拓地へと強制連行された。彼らが去った後、村々は軍の手によって徹底的に焼き払われ、家屋も、水車も、学校も、灰燼に帰した。
地図の上から名前を消されたそれらの集落は、今では「不名誉の谷」あるいは「失われた村々」と呼ばれている。
ポーランド最大級の電子掲示板コミュニティには、怪談やオカルト体験談を集約するタグが存在する。その巨大な言論空間の片隅で、秋から冬にかけて決まって浮上する話題がある。ビェシュチャディの無人地帯に分け入ったトレッカーや写真家、あるいは林業関係者たちが残す、異様な書き込みの数々である。
トヴォリルネ、クリヴェ、フルスキェ、ザヴイ。かつて人が暮らしていたそれらの廃村跡の茂みに入ると、風もないのに草木がざわめき、誰もいない空間から家畜の鳴き声や乳児の泣き声が響く。古い地下室の窪みの前に立つと、急激な悪寒とともにスマートフォンのバッテリーが数秒で干上がってしまう。
そして、最も暗い新月の夜、かつて道だった獣道の上に、黒い荷車を引く無数の影の列が現れるという。
都市伝説として消費されるそれらの言葉の奥には、東欧の血塗られた歴史と、大地そのものが記憶してしまった消せない痛覚が、生々しい傷口のように口を開けていた。
第一章 赤外線の林間
マテウシュ・コヴァルスキが旧型の日産テラノの四輪駆動を停めたのは、サン川の屈曲部を見下ろす泥だらけの林道脇だった。
三十三歳になるマテウシュは、ジェシュフに事務所を構えるフリーランスの写真測量技師だった。地方自治体や自然保護区の委託を受け、ドローンを用いた高精度の三次元地形モデリングや植生分布のデジタル化を請け負うのが彼の本業だった。その年の十一月、彼が引き受けた仕事は、国立公園の緩衝地帯に指定されている旧トヴォリルネ村周辺の、冬期立ち入り制限前の地形スキャン調査だった。
ドアを開けると、金属のように冷たい外気がマテウシュの肺腑を刺した。車の温度計はすでに氷点下二度を示していた。西の空には日没の名残である鈍い鉛色のグラデーションがわずかに残っていたが、オトリト山脈の尾根から吹き下ろしてくる風は、容赦なく落ち葉を巻き上げていた。
マテウシュは荷台から厚手のダウンジャケットと防寒ブーツを取り出し、身を包んだ。首には高解像度のサーマル(熱赤外線)カメラを搭載した産業用ドローンのコントローラーを下げ、腰のベルトに大型のマグライトと衛星通信端末を装着する。
車から降りて足元を見ると、分厚い落ち葉の下に、苔むした丸石が規則正しく並んでいるのがわかった。
旧集落のメインストリートだった。かつて百数十戸のボイコ人の家々が軒を連ね、子供たちが駆け回っていた道は、七十余年の歳月を経て完全に雑木林へと呑み込まれていた。道の両脇には、人の背丈ほどに伸びた茶枯れたイラクサとアザミが茂り、その奥に、かつて屋敷を囲んでいたのであろう巨木——樹齢数百年のリパ(菩提樹)の巨躯が、黒々とした骨のように枝を広げていた。
この廃村の存在を示す最も確実な指標は、野生化したリンゴの木だった。森のあちこちに、かつての果樹園の名残である小ぶりなリンゴの木が自生しており、地面には熟して落ち、霜に打たれて黒ずんだ無数の果実が転がっていた。足を踏み出すたびに、グチャリと靴底で果実が潰れ、アルコール発酵したような甘酸っぱい匂いと、腐食した黒土の冷たい匂いが立ち上った。
マテウシュは平らな石組みの土台を探し、ドローンの離陸地点を確保した。炭素繊維でできた黒い機体を設置し、プロペラを展開する。コントローラーの電源を入れると、液晶画面が青く発光し、GPS衛星の捕捉シグナルが六、七、八と増えていった。
「調査エリアA、走査開始」
独り言を呟きながら、スティックを押し上げる。四つのモーターが鋭い甲高い風切り音を立て、機体は垂直に夜空へと舞い上がった。十メートル、五十メートル、百メートル。
ドローンが高度を上げるにつれて、プロペラの音は地上の風の唸り声にかき消され、視界から見えなくなった。ただ、機体の底部で点滅する小さな緑と赤の衝突防止灯だけが、暗黒の空に針の穴のように瞬いていた。
手元のコントローラーの画面を、通常の光学カメラからサーマルモードへと切り替える。画面の色彩が一変した。
冷却された大気と冷え切った地表は、深い紫と濃紺のグラデーションで塗り潰されている。ところどころに見える明るい紫の帯は、凍結していないサン川の水流だった。地表の温度はおよそ氷点下三度。
生物の体温があれば、そこだけが鮮やかな黄色やオレンジ色、あるいは白熱した白となって浮かび上がるはずだった。
マテウシュは自動航行プログラムを実行し、ドローンを予定された格子状のルートに沿って飛行させた。画面の右上に、赤外線センサーが捉えた温度の最高点と最低点がデジタル数値で表示されている。
画面の中央、かつての村の中心部をドローンが通過した時だった。
ピピッ、とコントローラーが微小な警告音を鳴らした。画面の左隅、深い青色の中に、ポツリと小さな白い光点が現れた。
マテウシュは眉をひそめた。シカかイノシシだろうか。この山域には野生動物が無数に生息している。しかし、その光点は動物のように動いてはいなかった。しかも、一つではなかった。
ドローンが高度を百二十メートルまで上げた瞬間、画面の中央に広がる谷底全体に、無数の白い光の粒が、まるで暗闇の中で点灯した街灯のように、次々と浮かび上がってきたのだ。
第二章 地下室の冷気
マテウシュの指がコントローラーのスティックの上で凍りついた。
画面に映し出されているのは、かつて村の家々が存在していた区画の並びと完全に一致していた。四角い形に並んだ十数個の熱源。それぞれの熱源は、人間の体温に近い摂氏三十五度から三十七度を示していた。
それらは、地面から生え出たかのように静止し、規則正しく長方形の輪郭を描いて蠢いていた。
(地熱の異常か? いや、そんな火山性の地質じゃない)
マテウシュは画面をピンチアウトし、最も強い熱反応を示している地点を拡大した。旧集落の北側の斜面、教会の跡地の手前にある、かつての豪農の屋敷跡と思われる場所だった。
画面の中の熱源は、単なる不定形の塊ではなかった。それは、明らかな輪郭を持っていた。頭部があり、肩があり、二本の腕を垂らした、直立する人間の形をしていた。
しかも、その人型の熱源の周囲には、もっと小さな、四つ足の動物のような熱の影がいくつも寄り添っていた。
マテウシュは息を呑んだ。液晶画面の熱源たちは、静止しているわけではなかった。彼らはゆっくりと、極めて緩慢な動作で、四角い基礎の枠の中を行き来していた。
何かを持ち上げ、地面に置き、再び腰を屈める。まるで、目に見えない荷物をまとめ、荷造りをしているかのような反復動作。
突然、ドローンの高度警告アラームがけたたましく鳴り響いた。
画面の端で、バッテリー残量のインジケーターが、八十五パーセントから一気に二十パーセントへと急落した。同時に、コンパスエラーの警告が赤く点滅し、機体が激しいジャイロの乱れを起こして旋回を始めた。
「嘘だろ、新品のバッテリーだぞ!」
マテウシュは手動操縦に切り替え、リターントゥホーム(自動帰還)のボタンを押した。だが、ドローンは応答しなかった。コントローラーの画面が砂嵐のようにザザッと乱れ、赤外線映像の最後に、信じられない光景が映し出された。
谷底にいた無数の熱源の頭部が一斉に跳ね上がり、百メートル上空のドローンを正確に見上げたのだ。彼らの顔の部分には、目や鼻の熱反応がなく、ただ口のあたりだけが、まるで氷のように冷たい漆黒の穴となってパックリと開いていた。
プツン。
通信が完全に途絶した。画面は真っ黒になり、「シグナルロスト」の無機質な白い文字だけが点滅を繰り返した。
静寂が戻ってきた。上空を見上げても、あの赤と緑のランプは見えなかった。モーターの音も完全に消え去っていた。墜落したのだ。
マテウシュはコントローラーを握りしめたまま、激しい悪寒に震えた。ドローン自体は高価な機材であり、保険もかけてある。だが、内蔵されたメモリーカードには、今月中に納品しなければならない数ギガバイトのスキャンデータが入っていた。
それを失えば、測量会社との契約を打ち切られる可能性があった。
落下予想地点は、コントローラーの最後のログによれば、ここから五百メートルほど奥に入った、旧教会の鐘楼跡の近くだった。
(回収して、すぐに戻る)
マテウシュは自分に言い聞かせた。ただの機材トラブルだ。極度の寒気によるリチウムポリマーバッテリーの電圧降下と、地中の磁鉄鉱によるコンパスの狂い。
あの赤外線の映像も、センサーの誤作動による偽陽性のノイズに過ぎない。自分は疲れているのだ。昨夜も睡眠不足のまま車を走らせてきたのだから。
彼はテラノのトランクから、予備の強力なLEDマグライトと、頑丈なカーボンのトレッキングポールを取り出した。車のドアを閉め、キーをロックする。電子音が夜の静寂に短く響いた。
足を踏み出した瞬間、彼は立ち止まった。
風が止んでいた。先ほどまで梢を揺らしていたオトリト山脈の寒風が、まるで何者かが巨大なガラスの蓋を被せたかのように、完全に凪いでいた。
そして、その無音の大気の底から、音が聞こえてきた。
キシ、キシ、キシ。
凍りついた木と木が擦れ合うような音。あるいは、重い荷物を積んだ木製の荷車の車輪が、泥濘を踏みしめながら、ゆっくりと回転する音だった。
第三章 鐘楼の視線
マテウシュはマグライトのスイッチを入れた。八千ルーメンの強烈な光条が、闇を切り裂いて前方の木々を白日の下に晒した。
光の届く範囲には、枯れ草と裸のブナの幹しかない。だが、光の輪のすぐ外側、影が濃密に溜まる場所から、あの軋み音が確実に近づいてきていた。
彼はトレッキングポールを強く握り締め、足早に旧道を奥へと進んだ。足元には、かつての排水溝と思われる石組みが顔を出しており、所々に崩落した地下室(ピヴニツァ)の開口部が口を開けていた。ボイコ人の伝統的な家屋では、住居の下に石を積んだ半地下の貯蔵庫を作り、ジャガイモやビート、塩漬けの肉を保管していた。
家屋が焼き払われた後も、その石造りの地下室だけは壊されず、今も草木に隠れて無数に残されているのだ。
誤って足を取られれば、数メートルの石底に転落して骨折しかねない。マテウシュは慎重に足元を照らしながら進んだ。
ある地下室の窪みの横を通り過ぎようとした時、マグライトの光が、窪みの底に溜まった泥水を照らした。その水面に、何かが浮いていた。
腐った木片ではなかった。手編みの太い毛糸の靴下を履いた、小さな子供の足のような輪郭。マテウシュは息を呑み、思わず光を止めた。しかし、目を凝らして見直すと、それはただの黒ずんだ木の根と、霜を被った苔の塊に過ぎなかった。
(落ち着け。光の屈折だ)
彼は額に滲み出た冷たい汗を拭った。外気温は氷点下まで下がっているというのに、背中には嫌な脂汗がじっとりと張り付いていた。
道は登り坂になり、森の開けた高台へと出た。そこが、かつての教会の敷地、ツェルキスコだった。
かつて村の精神的支柱であった木造の聖堂は、千九百四十七年の夏に軍によって完全に焼き払われ、今は基礎の平石が草に埋もれているだけだった。しかし、聖堂の脇に建てられていた石造りの鐘楼だけは、上部の木造屋根こそ失われていたものの、分厚い石灰岩の壁が四角い巨塔のように夜空へ向かって聳え立っていた。
マグライトの光が、鐘楼の根元を捉えた。草むらの中に、白と黒の機体が転がっていた。ドローンだった。
機体は仰向けに落ちており、プロペラが一本折れていたが、カメラのジンバルは無事に見えた。マテウシュは駆け寄り、膝をついて機体を抱え上げた。バッテリーの接続部を引き抜き、側面のSDカードスロットを開ける。
カードはしっかりと収まっていた。
「よかった……」
安堵の息が口から漏れた。その時だった。
カラン、と頭上で乾いた音がした。
何かが石を叩く音。マテウシュはゆっくりと顔を上げた。
マグライトの光軸を、鐘楼の石壁に沿って上方へと滑らせていく。高さ十メートルほどの場所、かつて大きな青銅の鐘が吊り下げられていたであろう、アーチ状の窓の開口部。
そこに、誰かがいた。
光の円の中に浮かび上がったのは、人間のかたちをした影だった。
古い、羊の毛皮を裏返しにした外套(コジュフ)を羽織り、頭には耳当てのついた黒いフェルトの帽子を目深に被っている。その姿は、民俗博物館の写真でしか見たことのない、かつての伝統的なボイコ人の冬の装束そのものだった。
その人物は、石の窓枠に腰を掛け、両足を外側の虚空へと投げ出していた。だが、その足元を見た瞬間、マテウシュの喉からヒッという引きつった呼吸が漏れた。
羊皮の外套の裾から伸びていたのは、人間の脚ではなかった。それは、幾重にもねじれ合わされた、黒く湿ったトネリコの木の根だった。細い無数の繊維が、石壁の亀裂の奥深くまで血管のようにびっしりと食い込み、身体全体を鐘楼の構造物そのものと縫い合わせていた。
そして、その人物の顔面だった。
マグライトの強烈な光を真正面から浴びているにもかかわらず、その目は細められることも、瞬かれることもなかった。眼球のあるべき場所には、白く濁った薄い膜が張られており、光を一切反射しない。頬の肉は削げ落ち、土気色の皮膚が頭蓋骨の輪郭に直接張り付いている。
そして、その乾いた唇が、ゆっくりと、耳元まで裂けるようにして横に開いた。
歯がなかった。黒ずんだ歯茎の奥から、喉仏を鳴らすような低い音が漏れ出してきた。
ヒュー……ッ、ヒュー……ッ。
それは言葉ではなかった。重い喘息を患った老人が、肺胞の底から無理やり空気を搾り出しているかのような、湿り気を帯びた摩擦音。だが、その音の背後に、微かな音節が混ざり始めた。
ポーランド語ではない。現代のウクライナ語でもない。古風な、山岳地帯特有の訛りに満ちた、ルシン語の響き。
『……ヴイホディテ……(出ろ……)』
影が囁いた。その声は、十メートル上の窓から降ってきたのではなかった。マテウシュの真後ろ、彼の耳たぶのすぐ後ろの空間から、直接吐きかけられていた。
『……ヴイホディテ……チャス……(出ろ……時間だ……)』
カツン、カツン、カツン。
四方八方から、無数の音が立ち上がった。鐘楼の足元だけではない。背後の茂みから、斜面の下の旧道から、そして周囲の草むらに隠された無数の地下室の底から。
マテウシュはマグライトを振り回した。光条が闇を払うたびに、そこに「それら」の姿が現れた。
一人や二人ではなかった。数十人、いや、百人を超える人影が、木々の隙間から、石垣の陰から、音もなく這い出していた。
彼らは全員、あの古い時代の衣服を身に纏っていた。手織りの粗末なリネンのズボン、すり減った革靴、頭を覆う黒や茶色のスカーフ。女たちは胸の前に粗末な毛布で包んだ赤子のような塊を抱き、男たちは錆びついた手斧や、紐で縛った木箱を背負っていた。
だが、彼らの身体のどこかが、決定的に損壊していた。ある者の顔半分は黒く焼け焦げて炭化しており、ある者の腕は肘から先が失われ、切り株のような骨が露出していた。そして彼らの足元は、一様に地面を踏んでいなかった。
彼らの足首から先は、大地から伸びる黒い泥の蔦のようなものによって、地面に直接繋ぎ止められていた。
彼らはマテウシュを見ていなかった。彼らの濁った視線は、一様に村の南側、サン川の浅瀬を越えて平野部へと続く、かつての街道の出口へと向けられていた。
第四章 荷造りの群衆
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
無数の足が、凍りついた落ち葉を踏みしめる音が重なり合い、地鳴りのような轟音となって谷底を満たし始めた。それは歩行の音ではなかった。彼らは動いていなかった。
その場に立ち尽くし、ただ足を上下に踏み鳴らしながら、虚空に向かって荷物を引き摺る仕草を繰り返していた。
『兵隊が来るぞ』
誰かの掠れた叫び声が、風もない大気の中に響いた。
『火をつけられる! 牛を引け! イワン、早くしろ!』『教会へ行くな、もう囲まれている!』『荷物を捨てるな! 持っていけるものだけを積め!』
混濁した叫び声、悲鳴、家畜の甲高い嘶き、そして木造家屋が猛火に包まれて爆ぜるバチバチという幻聴が、マテウシュの耳孔に直接雪崩れ込んできた。冷気が爆発的に膨張していた。マグライトの光の中で、空気が白く凍結し、ダイヤモンドダストのような微小な氷の刃がマテウシュの頬を切り裂いた。
千九百四十七年四月二十八日の夜。この村が地上から抹殺された、あの決定的な数時間の記憶。強制的に土地から引き剥がされ、すべてを奪われた人々の、恐怖と絶望の残留思念が、氷点下の濃密な空気の中で解凍され、無限に再生されているのだ。
マテウシュはドローンを胸に抱え込み、必死の思いで足を動かした。逃げなければならない。この記憶の奔流に巻き込まれれば、自分の意識もまた、この冷たい土の下へと引きずり降ろされてしまう。
彼は鐘楼の敷地を飛び出し、旧道を転がるようにして駆け下りた。
足元が狂乱していた。道幅いっぱいに、黒い影の群れがひしめき合っていた。マテウシュは彼らを避けようとしたが、道は狭く、すれ違うことは不可能だった。
意を決し、彼は一番手前に立っていた、荷車を押す老人の影に向かって突っ込んだ。
衝突の衝撃はなかった。影を突き抜けた瞬間、マテウシュの全身を襲ったのは、激痛に近い極度の冷気だった。まるで、マイナス四十度の液体窒素の中に頭から飛び込んだかのような感覚。
心臓が一瞬収縮して止まりそうになり、肺の中の空気が凍りついて息ができなくなった。
すれ違いざま、老人の顔がマテウシュの視界の端をかすめた。老人の開いた口の奥から、冷たい灰の粉末が煙のように噴き出し、マテウシュの首筋にかかった。
(止まるな、走れ!)
マテウシュは叫び声を上げながら、影の列を次々と突き抜けて走った。そのたびに、全身の熱が削ぎ落とされていく。手袋の中の指先から感覚が消え、膝の関節が軋み、視界がチカチカと白く明滅し始めた。
背後から、怒号が迫っていた。それはもはや人間の声ではなかった。数百人の死者の喉から同時に吐き出される、大地そのものの咆哮だった。
ガタン!
前方の闇の中に、テラノの四角いシルエットが見えた。車の窓ガラスは、内側からも外側からも真っ白に凍りついていた。
マテウシュは車のボディに倒れ込むように激突した。震える手でポケットからキーを探し出す。指が言うことを聞かず、キーを泥の上に落としそうになったが、かろうじて拾い上げ、ドアの鍵穴に差し込んだ。
集中ロックがガチャリと解除される。彼は運転席に転がり込み、渾身の力でドアを引き閉めた。
直後、フロントガラスの氷の上に、何かが激突した。
ドスン!
車体全体が激しく揺れた。サスペンションが軋み、天井の鉄板が歪むような鈍い音が響く。
マテウシュは身を縮め、ヘッドライトのスイッチを捻った。強烈な光が前方を照らし出した。
ボンネットの上に、黒い泥にまみれた何かが張り付いていた。それは、ボイコ人の女の姿をしていた。ボロボロの毛織物のスカーフから覗く顔面は、皮膚がただれ落ち、鼻腔の骨が剥き出しになっていた。
その女の両手が、凍りついたフロントガラスを爪で狂ったように引っ掻いていた。
ギリ、ギリ、ギリ、ギギギッ!
強化ガラスに白い擦り傷が無数に刻まれていく。女の濁った瞳が、ガラス越しにマテウシュの目を真っ直ぐに見据えていた。その唇が、激しく震えながら動いた。
『……置いていかないで……』
女の声が、ヒーターの通気口から車内へと直接漏れ込んできた。
『……私を……ここに……一人で……土の中に……置いていかないで……!』
マテウシュは絶叫しながら、イグニッションキーを回した。頼む、頼む、頼む!
キュルルルル……ドンッ! 三千直列四気筒のディーゼルエンジンが、爆発的な黒煙を吐き出しながら咆哮を上げた。
マテウシュはシフトレバーをローに叩き込み、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。
四輪駆動の大型タイヤが泥と霜を巻き上げ、テラノが前へと跳ね起きた。ボンネットの上にいた影は、まるで強風に煽られた煙のように千切れ、夜の闇の中へと吹き飛んでいった。
車輪が路面の窪みに落ちて激しく跳ね上がり、マテウシュの頭が天井に激突したが、彼はアクセルを緩めなかった。バックミラーを見ることは決してしなかった。ただ、車の後方から、無数の木製の車輪が激しく軋みながら追いすがってくるような地響きが、谷の出口に達するまでの数分間、ずっと響き続けていた。
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