序章 糸杉の影と白い箱
ギリシャ本土の中央部、見渡す限りの肥沃な平原が広がるテッサリア地方の冬は、エーゲ海のリゾート地が誇る眩しい白と青の絵葉書とはまるで異なる色合いを見せる。オリンポス山の神々しい冠雪が北の地平線を威圧するようにそびえ、ピンドス山脈から吹き下ろしてくる湿った冷風が、広大なオリーブ畑と茶褐色に枯れ果てた綿花の茎を激しく波立たせる。
古代から無数の神話と戦火が駆け抜けたこの大地において、村外れの小高い丘の上に作られた墓地(ネクロタフィオ)は、独特の静寂を湛えている。天を突くように整然と林立する深緑の糸杉(キパリッシ)の並木道。その足元には、真っ白な大理石の墓石が幾重にも整然と並び、どの墓の上にも、赤いガラスの小壺に入ったオリーブ油の灯明(カンディリ)が、風に震えながら小さなオレンジ色の炎を揺らめかせている。
しかし、ギリシャ正教の伝統に深く根ざしたこの国の農村において、土の下に遺体が横たわっている期間は、西欧諸国のそれと比べて驚くほど短い。
埋葬から三年、あるいは五年。
限られた墓地の土地を循環させるという現実的な要請と、「土の重みから魂を完全に解き放つ」という宗教的信念に基づき、遺族たちは司祭と墓掘り人を伴って墓を再び掘り返す。改葬・洗骨(エクタフィ)の儀礼である。
棺の蓋を開け、土に還った遺骨を一本一本丁寧に拾い集める。
大腿骨、肋骨、脊椎、そして頭蓋骨。
肉を失い、純白あるいは飴色に洗い清められた二百六本の骨は、村の女性たちによって赤ワインと水で清められ、新鮮なバジルの小枝とともに白い布の上に並べられる。そして、靴箱ほどの大きさの真鍮製、あるいは木製の小さな小箱——オステオシキ(納骨箱)へと収められ、墓地の隅に建つ石造りの納骨堂(オステオフュラキオン)の棚へと安置されるのだ。
英語圏の怪奇体験共有サイト「ユア・ゴースト・ストーリーズ(yourghoststories.com)」のギリシャ地域アーカイブには、この納骨堂と洗骨儀礼にまつわる、息を呑むような証言が少なからず記録されている。
深夜、亡き肉親の骨箱に油灯を灯すために訪れた納骨堂の中で、無数の箱が一斉にガタガタと震え出した記憶。
鍵のかかった冷たい石室の中から聞こえてくる、爪で金属を引っ掻くような音。
そして何よりも——掘り起こした遺体に肉が残っていた時、村人たちが蒼白になって囁き交わす、あの忌まわしい言葉。
肉が腐らず、大地に拒絶された死者。
ギリシャの農村で何百年もの間、吸血鬼や歩く死者の原型として恐れられてきた「ヴリコラカス」の影が、古い信仰と歴史の狭間に今なお沈澱している。
第一章 五年目の掘り起こし(エクタフィ)
コスタス・パパドプロスが、借り受けた小型のフィアット・パンダを運転し、テッサリア平原の北端、オリンポス山南麓の斜面にへばりつく故郷の村アンベラキアへと向かう山道を登りつめたのは、十一月中旬の土曜日の午前十時前のことだった。
アテネの工科大学を出て、首都の建築設計事務所で歴史的建造物の構造調査を担当している三十二歳のコスタスにとって、この村を訪れるのは五年ぶりのことだった。五年前の秋、彼の祖父であるディミトリス・パパドプロスが九十二歳で大往生を遂げ、その葬儀に参列して以来のことである。
今回の帰省の目的は、祖父の改葬(エクタフィ)だった。
ギリシャの村において、死者は埋葬されて終わりではない。五年の歳月を経て土の中で肉体が完全に土へと還ったことを確認し、清められた骨を納骨堂へと移すことによって、初めて死者の魂は真の安息を得ると信じられている。
村の入り口にある広場(プラティア)には、樹齢数百年のスズカケノキが大きな枝を広げ、その下のカフェニオン(喫茶店)では、黒い服を着た老人たちが小さなカップのグリーク・コーヒーを啜りながら、カランカランと手の中で数珠(コムボロイ)を弄んでいた。
「おお、コスタス! よく戻ってきたな」
車を停めると、広場の向こうから大股で歩み寄ってきた男がいた。
コスタスと同い年の従兄弟、アレクシスだった。アレクシスは村に残り、父の代から続くオリーブ農園と山羊の放牧を継いでいた。日に焼けた精悍な顔立ちに人懐こい笑みを浮かべていたが、その目の奥には、昨夜から続く緊張の色が微かに滲んでいた。
「アレクシス、久しぶりだな。パパ・ニコスはもう墓地へ向かったのか?」
「ああ、司祭様は十時半に始めると言っている。道具は全部、墓掘りのヤニス爺さんが用意してくれた。……さあ、行こう。母さんたちが家で赤ワインとバジルを用意して待っている」
二人は車を広場に残し、糸杉が黒々と立ち並ぶ丘の上の墓地へと歩いた。
墓地の中央には、白壁に赤いドーム屋根を載せた小さなアギオス・アタナシオス礼拝堂が建っていた。
その脇にあるパパドプロス家の区画には、すでに黒い僧服を纏った白髭の教区司祭、パパ・ニコスが祈祷書を手にして立っていた。足元には、大理石の墓標と十字架が取り外され、盛り上がった土の地面が剥き出しになっていた。
長靴を履いた痩身の墓掘り人、ヤニスが、手にした鉄のシャベルの柄に体重を預けて息を整えていた。
「主を称えよ。時が来た」
パパ・ニコスが厳かに告げ、振り香炉(ティミアト)の鎖をジャラリと鳴らした。
乳香(リバニ)の甘く重い煙が、凍てつく冬の朝の大気の中に立ち上り、松脂の匂いと混ざり合う。
ヤニスがシャベルを土に突き立てた。
サクッ、サクッ、と、湿った黒土が掘り起こされていく。
テッサリアの土は石灰質を含み、水はけが良い。通常であれば、五年も経てば木棺は完全に腐朽し、中には乾いた骨だけが整然と横たわっているはずだった。
一メートルほど掘り進んだ時、シャベルの先端が、鈍い音を立てて硬い木材に当たった。
棺の蓋だった。
「ずいぶん木がしっかり残っているな……」
ヤニスが呟き、額の汗を拭った。
木棺の表面を覆っていた布は泥炭色に変色していたが、松の一枚板で作られた蓋は、腐り落ちることなく原形を留めていた。
パパ・ニコスが祈祷書から目を上げ、眉をひそめた。
「ヤニス、慎重に蓋を外せ」
ヤニスがバールを隙間に差し込み、テコの原理で蓋を持ち上げた。
メキメキッ、という木材が裂ける音が静寂を破った。
その瞬間。
棺の隙間から、強烈な臭気が噴き出した。
土の匂いでも、乾いた骨の匂いでもなかった。
それは、何かが完全に腐敗しきれず、冷たい泥の中で脂を滲ませながら澱んでいたかのような、生々しく甘ったるい死臭だった。
コスタスは思わず鼻を覆い、後ずさりした。
アレクシスの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
「神よ、憐れみたまえ……」
パパ・ニコスが十字を切り、後退した。
棺の底。
そこに横たわっていた祖父ディミトリスの遺体は、白骨化していなかった。
黒い死装束のスーツは泥に濡れて破れていたが、その中にある肉体は、土気色に変色した硬い革のようになって骨にへばりついていた。胸郭の筋肉は萎縮しながらも原形を保ち、両手の指先には、黒ずんだ爪がそのまま残されていた。
そして、その顔面だった。
皮膚は乾燥したミイラのように頭蓋骨に張り付いていたが、眼窩の奥には白濁した組織が残り、乾ききった唇が引き攣れるように歪んで、黄色い歯列を剥き出しにしていた。
それは、五年間土の下にあった遺体の姿ではなかった。
まるで、死後わずか数週間の死者が、冷たい泥の中で眠りを妨げられたかのように、そこに「留まって」いたのだ。
第二章 石造りの納骨堂(オステオフュラキオン)
「大地が……受け取っていない」
墓掘りのヤニスが、震える声でシャベルを取り落とした。
鉄の刃先が小石に当たり、乾いた金属音を立てた。
ギリシャの農村において、これ以上の不吉は存在しない。
洗骨の際、遺体が骨になっていないということは、死者が生前に犯した恐るべき大罪が神に赦されていないこと、あるいは教会から破門された呪いを抱えたまま死んだことを意味していた。
そして何より、肉を保ったままの死者は、夜になると墓を抜け出して生者を襲う魔物——「ヴリコラカス」になり得ると、村の古老たちは例外なく信じていた。
「静かにしなさい、ヤニス!」
パパ・ニコスが鋭い声で制した。老司祭の手の中で、香炉の鎖が激しく震えていた。
「ディミトリスは教会の敬虔な信徒だった。生涯を通じて神に背くことなどなかったはずだ。……これは、土の湿気の加減だ。この区画の水はけが悪かったのだ」
司祭は自分に言い聞かせるように早口で言ったが、その額には冷たい汗が滲んでいた。
「どうするんですか、司祭様」
アレクシスが掠れた声で尋ねた。
「もう一度、埋め戻すんですか?」
ギリシャの慣習では、肉が残っている遺体は祈祷を捧げ直した上で、さらに一年間土の中に戻すか、あるいは未消化の組織を剥ぎ取らなければならない。しかし、墓地管理の規定では、すでに次の埋葬予定が決まっており、この区画をこれ以上占有することは許されていなかった。
パパ・ニコスは祈祷書を固く閉じ、決断を下した。
「……骨を外す。完全に肉が落ちている頭蓋骨と、腕、脚の太い骨だけを拾い上げるのだ。残りの部分は、清めの祈祷を行い、教会の地下納骨壕へ丁重に移す。
ディミトリスの骨箱は、今夜のうちに納骨堂へ納め、四十日間の特別祈祷(サラコバ)を行う」
ヤニスは青ざめた顔でゴム手袋を二重に嵌め、震える手で作業を始めた。
肉が完全に削げ落ちていた大腿骨と脛骨、そして頭蓋骨だけが、金属のヘラを使って慎重に棺から取り出された。
コスタスとアレクシスは、広げられた白いリネンの布の上に、祖父の骨を並べた。
骨は冷たく、湿っていた。
アレクシスの母親が震える手で差し出した水差しから、温められた赤ワインが骨の上に注がれた。
濃紅色の液体が骨の表面を洗い流し、こびりついていた黒い泥を落としていく。ワインの芳醇な葡萄の香りと、立ち上る死臭が混ざり合い、吐き気を催すような異様な匂いが立ち込めた。
最後に、新鮮なバジルの緑の葉が骨の周りに添えられた。
バジル——ギリシャ語で「バシリコス(王の草)」と呼ばれるその芳香植物は、キリストの十字架が発見された場所に生えていたとされる聖なる草であり、死者の魂を悪霊から護るための絶対的な防壁だった。
骨は、真鍮製の頑丈な小箱へと収められた。
横幅五十センチ、高さ三十センチほどの長方形の箱。正面には、生前のディミトリスの柔和な笑顔が焼き付けられた楕円形の陶器プレートと、十字架の彫刻が施されていた。
箱の蓋が閉じられ、小さな南京錠が掛けられた。
正午過ぎ、その骨箱は、墓地の北西の隅に建つ石造りの納骨堂へと運ばれた。
オステオフュラキオン。
外壁は白く塗られていたが、下地の花崗岩の冷たさが透けて見えるような、窓のない小さな平屋の石室だった。
重い鉄の扉を開けると、内部には身を切るような冷気が澱んでいた。
壁一面に組まれた木製の頑丈な棚には、過去百年にわたってこの村で亡くなった何百人もの先祖たちの骨箱が、隙間なく整然と並べられていた。
木箱、真鍮箱、ブリキ缶。それぞれの箱の前に置かれた小さなガラスのコップの中で、オリーブ油に浸された灯心の微かな火が、チロチロと頼りなく揺らめいている。
ディミトリスの真鍮箱は、最下段の、影の濃い一角へと滑り込まされた。
「今夜、もう一度来なければならない」
納骨堂の鉄扉に鍵をかけながら、アレクシスがコスタスの耳元で小声で言った。
「最初の夜は、親族が夜中にカンディリ(油灯)の油を足しに来るのが村の掟だ。火を絶やしちゃいけない。……特に、あんな状態だったんだ。もし今夜、火が消えたら、本当に爺さんの魂が迷い出してしまう」
コスタスは無言で頷いた。
合理的な思考を重んじるはずの彼の胸の奥で、棺の底で見た祖父の引き攣れた口元が、冷たいトゲのように刺さって離れなくなっていた。
第三章 真夜中の油灯(カンディリ)
夜の十一時半、村の家々は深い眠りに落ちていた。
谷底から吹き上げてくる北風が、古い民家の鎧戸をガタガタと揺らし、遠くの山肌で放牧されている山羊の首鈴が、チリン、チリンと不規則に鳴り響いていた。
コスタスとアレクシスは、厚手のウールジャケットを着込み、手元を照らす充電式ランタンと、オリーブ油の入ったガラス瓶を手に、墓地へと続く坂道を登っていた。
空には月がなく、無数の冷たい星々が、黒々としたオリンポス山の稜線を鋭く切り取っていた。
墓地の鉄の門扉を押すと、ギーッという甲高い軋み音が夜の静寂を引き裂いた。
二人は並んで、糸杉の影が落ちる通路を歩いた。
周囲の墓石の上のカンディリが、赤や緑のガラス越しに、無数の燐光のように揺らめいている。
昼間にはただ厳かだった墓地が、夜になると、まるで生者の体温を拒絶する異界の空間へと変貌していた。
墓地の最奥、石造りの納骨堂の前に立った。
白い漆喰の壁が、星明かりを浴びて青白く浮かび上がっている。
アレクシスが鍵束を取り出し、鉄扉の南京錠に差し込んだ。
カチャリ、と重い金属音が響く。
扉を押し開けると、あの昼間の匂いが、凝縮された塊となって二人の顔面を直撃した。
古い石の冷気。
何百本もの骨が放つ、乾いたカルシウムの粉末の匂い。
何十個もの油灯から立ち上る、オリーブ油の燃える独特の油煙の匂い。
そして、その奥底に潜む、昼間嗅いだあの甘ったるい死臭の残り香。
ランタンの光を灯し、二人は狭い石室の中へと足を踏み入れた。
足元は冷たい敷石で、壁際の棚には無数の骨箱が沈黙を守って並んでいる。箱に貼られた古い白黒写真の死者たちが、ランタンの光を反射して、無表情に二人を見つめ返していた。
最下段の奥、祖父ディミトリスの真鍮箱の前に屈み込む。
昼間に灯したはずのガラスのカンディリ。
その芯の火は、すでに消えかけていた。油が不自然に減っており、黒ずんだ綿の芯が、チリチリと最後の煙を上げていた。
「おい、油がもうないぞ……」
アレクシスが怯えた声で言った。
満たしたはずの油が、わずか半日で干上がるはずがなかった。まるで、目に見えない何かが、その油を貪欲に吸い尽くしたかのようだった。
コスタスは持参したガラス瓶から、新鮮なオリーブ油を注ぎ足した。
黄金色の液体がガラスの器を満たしていく。
マッチを擦り、芯に火を移す。
パチッと小さな音を立てて、オレンジ色の炎が再び立ち上がり、祖父の陶器プレートの笑顔を歪に照らし出した。
「よし、これでいい。早く出よう」
アレクシスが踵を返そうとした、その瞬間だった。
カタ、と音がした。
二人の足が止まった。
音は、祖父の真鍮箱からではなかった。
石室の反対側、向かいの壁の中段に置かれた、古びた木製の骨箱からだった。
カタカタ、カタカタ。
何かが、箱の内側から、木板を小突くような音。
ネズミではない。乾いた硬い骨が、箱の壁にリズミカルにぶつかり合うような、軽快で無機質な音だった。
「アレクシス……聞こえたか?」
「風だ。すきま風で箱が揺れてるだけだ」
アレクシスの声は震えていた。
しかし、納骨堂の分厚い石壁には窓などなく、鉄扉は背後で半分閉ざされていた。風など一筋も吹いていなかった。
カタカタカタカタッ!
音が連鎖した。
向かいの棚だけではない。
右の棚のブリキ箱、左の棚の真鍮箱、最上段の古い木箱。
棚という棚に並べられた数十個の骨箱が、まるで何かの合図を受け取ったかのように、一斉に小刻みに震え始めたのだ。
ガタガタガタガタガタガタッ!
無数の金属と木材が擦れ合い、打ち鳴らされる凄まじい不協和音。
骨箱の前に置かれたガラスのカンディリが一斉に波打ち、油が零れて炎が激しく明滅を繰り返す。
「出よう! コスタス、早くしろ!」
アレクシスが叫び、鉄扉へと飛びついた。
しかし、扉の取っ手を掴んだ瞬間、外側から突風が吹き込み、バタンッ! という凄まじい音を立てて扉が完全に閉ざされた。
カチリ。
内側から触れてもいないのに、外側の南京錠が、自ら噛み合うような鈍い音が響いた。
「開かない! 嘘だろ、外から鍵がかかった!」
アレクシスが狂ったように鉄扉を体当たりで揺さぶったが、分厚い鉄板はビクともしなかった。
室内のランタンの明かりが、電圧が落ちたように急激に薄暗くなっていった。
そして、最下段の奥。
祖父ディミトリスの真鍮箱の前に置かれたカンディリの炎が、ボッと音を立てて、不吉な青白い光へと変色した。
第四章 腐敗せぬ肉(ヴリコラカスの兆候)
キィィィィ……。
真鍮箱の蓋を止めていた、小さな南京錠が軋む音がした。
金属のツルが、目に見えない力で引き絞られ、パチンと弾け飛んだ。
真鍮の蓋が、内側からゆっくりと、数ミリずつ押し上げられていく。
蓋の隙間から、黒い煙のような冷気が、滝のように床の敷石へと流れ出してきた。
その冷気とともに、あの匂いが爆発した。
赤ワインの酸っぱい匂い。
枯れ果てたバジルの異臭。
そして、昼間の何倍もの濃度を持った、濃密な腐敗と獣の脂の匂い。
室内の気温が、零下へと急降下した。
コスタスの吐き出す息が一瞬で白く凍りつき、ジャケットの表面に微細な霜が張り付いていく。
真鍮箱の中から、何かが這い出てきた。
それは、昼間に洗って納めたはずの、あの祖父の骨だった。
しかし、骨だけではなかった。
大腿骨と肋骨の周りに、黒ずんだ赤褐色の肉の繊維が、まるで生きている苔のように急速にまとわりつき、血管のような細い筋を伸ばしながら増殖していたのだ。
土の下で分解を拒んだあの呪われた肉が、冷気を吸い込んで再生を始めていた。
骨と肉の塊が、敷石の上で蠢き、関節を繋ぎ合わせていく。
ボキボキ、ゴキリ、という、生々しい骨の軋轢音。
立ち上がったのは、人型の異形だった。
身長は一・五メートルほど。
首から上には、あの昼間に洗った頭蓋骨が載っていた。
しかし、眼窩の奥には、濁った赤黒い光が爛々と灯り、剥き出しの歯列の隙間から、タールのような黒い粘液が糸を引いて滴り落ちていた。
その異形が、ゆっくりと首を巡らせた。
関節がギチギチと音を立てる。
その濁った視線が、扉の前に立ち竦むアレクシスを、そしてコスタスを、正確に捉えた。
カチ、カチ、カチ。
下顎の骨が小刻みに打ち鳴らされた。
続いて、石室の壁全体が共鳴するような、低く湿った唸り声が響き渡った。
『……なぜ……掘り出した……』
声は耳から聞こえたのではなかった。
二人の頭蓋骨の奥、脳の芯に直接突き刺さるような、冷酷な思考の波。
『……なぜ……眠らせて……くれなかった……』
異形の腕が持ち上がった。
肉と骨が剥き出しになった右手が、床を蹴るようにして前へと伸びてきた。
その指先には、黒く鋭利な爪が生え揃っていた。
「うわああああっ!」
アレクシスが絶叫し、足元に転がっていた真鍮の重い燭台を掴んで、異形に向かって力任せに投げつけた。
燭台は異形の胸郭に命中し、ガランと甲高い金属音を立てて跳ね返った。
しかし、異形は痛みを感じる様子もなく、むしろその衝撃に飢えた獣のような反応を示し、一瞬にして距離を詰めてきた。
爪がアレクシスの肩のジャケットを引き裂いた。
布地が裂け、肉に食い込む鋭い音が響く。
アレクシスは悲鳴を上げて床に倒れ込み、肩から鮮血が噴き出した。
血の匂いが立ち込めた瞬間、異形の動きが一層の狂乱を帯びた。
頭蓋骨の顎が耳元まで引き裂かれるように開き、黒い粘液を撒き散らしながら、倒れ込んだアレクシスの喉笛へと喰らいつこうと覆いかぶさった。
「離れろッ!」
コスタスは恐怖をかなぐり捨て、手にしたオリーブ油のガラス瓶を、異形の頭部に向かって叩きつけた。
ガシャン!
分厚いガラスが砕け散り、濃厚な油が頭蓋骨と剥き出しの肉の上に降り注いだ。
異形が怯み、苦悶の唸り声を上げて後退した。
コスタスは倒れたアレクシスを引きずり起こし、背後の壁へと押し込んだ。
逃げ場はない。鉄扉は閉ざされ、石室の中には狂乱する死者の肉塊が立ち塞がっている。
異形の全身から、黒い煙が立ち上っていた。
オリーブ油を浴びた肉が、まるで強酸をかけられたかのように泡立ち、パチパチと音を立てていた。
しかし、その傷口はすぐに新しい肉の繊維によって塞がれ、赤黒い光を放つ眼窩が、今度はコスタスを標的に定めて光を放った。
『……お前たちの……血を……寄越せ……』
異形の足が、敷石を踏みしめた。
その足元を見た瞬間、コスタスの全身の思考が、雷撃を受けたように停止した。
異形の足首から下が、人間の歩行の向きとは完全に異なっていた。
爪先の骨が、真後ろ——背後の壁の方を向いていた。
そして、丸い踵の骨が、前方を向いて突き出していたのだ。
反転した足。
大地に拒絶され、天の掟から外れた者だけに現れるという、絶対的な呪いの刻印。
しかし、コスタスの目を真に釘付けにしたのは、その足首の変形ではなかった。
異形が前に踏み出した瞬間、破れた死装束の右胸の奥、肉と骨が絡み合う胸郭の隙間に、何かが挟まり込んでいるのが見えたのだ。
それは、骨の一部ではなかった。
赤黒い錆に覆われた、一本の細長い鉄の破片。
長さ十センチほどの、先端がギザギザに裂けた金属片が、心臓のあったはずの肋骨の裏側に、骨と同化するように深々と突き刺さっていた。
小銃の弾片(榴弾の破片)だった。
そして、その弾片が刺さった骨の表面に、ナイフの先で乱暴に刻み込まれた文字が、ランタンの光を浴びて浮かび上がっていた。
「反逆者(プロドティス)」
コスタスの脳裏で、幼少期の記憶の断片が、恐るべき絵図を結んで爆発した。
一九四八年。
ギリシャ内戦の最悪の嵐が、このテッサリアの山村を吹き荒れていた時代。
政府軍と、共産主義勢力の民主軍(DSE)が、山あいの村々を巡って凄惨な殺戮と報復を繰り返していた。
祖父ディミトリスには、二歳下の弟がいた。名前をヤニスといった。
しかし、家族の歴史の中で、その弟の名が語られることは決してなかった。
「山へ行ったきり、病気で死んだ」とだけ聞かされていた大叔父。
だが、村の古老たちが時折、カフェニオンの隅で囁いていた噂があった。
共産パルチザンに身を投じた弟を、政府軍の民兵隊長だった兄が、密告によって山中で射殺し、その死体を隠蔽したのだという、血塗られた伝説。
(この骨は……誰なんだ?)
コスタスの喉から、掠れた空気の塊が漏れ出た。
目の前で蠢く異形は、祖父ディミトリスなのか。
それとも、名もなき山中で撃ち殺され、兄の墓の中に身代わりとして、あるいは隠蔽のために一緒に埋め込まれていた、あの弟の怨霊なのか。
異形の両腕が、信じられない軌道を描いて振り上げられた。
骨が砕けるような風切り音。
尖った爪先が、コスタスの顔面へと迫る。
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