序章 霧の茶嶺とエステート・バンガロー
インド洋の真珠と呼ばれるスリランカの国土において、南部から中央部にかけて聳えるセイロン中央高地は、海岸沿いの熱帯の蒸し暑さとは完全に隔絶された別世界である。コロンボから山岳鉄道メインラインに揺られ、標高千五百メートルを超えるヌワラエリヤ県やバドゥッラ県、そして名峰スリ・パーダ(アダムス・ピーク)の膝元に広がるハットンへと分け入ると、車窓を埋め尽くすのは、幾何学模様のようにどこまでも斜面を覆い尽くす鮮やかな緑の絨毯——紅茶(セイロンティー)のプランテーションである。
十九世紀後半、イギリス植民地政府によって原生林が切り拓かれ、コーヒーから茶への大規模な転換が進められたこの山岳地帯には、今なおヴィクトリア朝の面影を残す石造りの建築群が静まり返っている。
見渡す限りの茶畑を見下ろす尾根の頂に、孤高の城塞のように佇む広大な邸宅。
エステート・バンガロー。
かつて農園を絶対的な権力で支配した英国人の大旦那(ペリヤ・ドライ)や若旦那(シンナ・ドライ)が暮らしたそれらの邸宅は、花崗岩の分厚い壁、チーク材の磨き抜かれた床、大人二人が立ったまま入れる暖炉、そして農園を一望できるガラス張りのサンルームを備えている。外界の町から何マイルも離れ、周囲を濃密な霧と夜露に濡れた茶の木々に包囲されたその空間では、現在も大手プランテーション企業に雇われた若いスリランカ人の農園管理者たちが、植民地時代から受け継がれた厳しい階級秩序と孤独の中で日々の業務に従事している。
スリランカの現代の若者たちが日夜集うソーシャル掲示板「レディット(Reddit)」の「r/srilanka」や「r/ask_srilanka」には、この中央高地の古いエステート・バンガローにまつわる、尋常ではない生々しさを湛えた体験手記が、定期的に投稿され続けている。
新任の若い副支配人(シンナ・ドライ)たちが、赴任先の宿舎で必ず経験するという奇妙な現象の数々。
真夜中、施錠された長い板張りの廊下を、何者かが裸足で猛烈な勢いで駆け抜けていく足音。
朝起きた時、独身の支配人が眠るダブルベッドの半分に、まるで昨夜誰かが寄り添って眠っていたかのように残されている、氷のように冷たい人型の窪み。
そして、老執事(アプ)から代々口頭でのみ厳格に引き継がれる、ひとつの絶対的な掟。
東側の客間の窓を、夜間に決して閉めてはならない。
もし寒さに耐えかねてその窓を施錠すれば、翌朝には分厚い板ガラスが内側から粉々に破裂し、ベッドの周囲に、乾くことのない濡れた素足の足跡が幾重にも刻み込まれるという。
英国統治の傲慢な支配の記憶、南インドから連れてこられたタミル人茶摘み労働者たちの流血と搾取、そして山林の奥底に眠るシンハラ土着の悪霊信仰(ヤッカ)が複雑に絡み合った茶嶺の大地は、夜の帳が降りるたび、忘れ去られた過去の残滓を冷たい霧とともに立ち上らせていた。
第一章 見習い農園主(シンナ・ドライ)の着任
ディネシュ・ジャヤワルダナが運転する会社支給の赤い四輪駆動ピックアップトラックが、ハットン郊外の未舗装の山道を登りつめ、目的の茶園の正門をくぐったのは、十一月下旬の午後四時を回った頃だった。
コロンボで育ち、ペラデニヤ大学の農学部を優秀な成績で卒業した二十八歳のディネシュは、国内大手の茶葉栽培企業に就職し、六ヶ月間の本社研修を終えて、初めての現場赴任地としてこのマウント・クレスト農園へと送り込まれてきた。肩書はアシスタント・スーパーインテンデント。現地の言葉で言えば、見習い農園主——シンナ・ドライ(若旦那)である。
標高千六百メートル。車から一歩外へ踏み出した瞬間、ディネシュは肌着を通して伝わってくる湿った冷気に小さく肩をすくめた。
コロンボのあの肌にまとわりつくような三十度超の蒸し暑さはどこにもない。大気の温度はすでに十二度近くまで落ち込んでおり、吸い込んだ空気が鼻腔の奥をツンと冷たく刺激した。
見渡す限りの急斜面には、腰の高さまで刈り込まれた中国種とアッサム種の交配茶樹が、緑の波のようにうねりながら広がっている。霧が谷底から煙のように這い上がり、茶摘みのタミル人女性たちが背負う大きな竹籠と、彼女たちの頭を覆う色鮮やかなサリーの端を、乳白色の帳の向こう側へとぼんやりと霞ませていた。
丘の頂に、目的の宿舎が建っていた。
千九百十年代、英国人の手によって築かれたという二階建ての花崗岩のバンガロー。
黒ずんだスレートの三角屋根、煙突から立ち上る細い薪の煙、そして建物の正面をぐるりと取り囲む白い手すりのついた広いベランダ。かつての大英帝国の栄華をそのまま山中に凍結させたような重厚な佇まいだった。
車を停めると、重いチーク材の玄関ドアが静かに開き、一人の老人が姿を現した。
白い綿のシャツの上に、擦り切れた黒いベストを几帳面に羽織り、白髪を綺麗に撫で付けた小柄な老人。
このバンガローで四十年にわたって歴代の支配人たちに仕えてきたという、家政を取り仕切る執事——アプのムトゥサミだった。タミル人のムトゥサミは、ディネシュの顔を見るなり、両手を胸の前で合わせて深々と頭を下げた。
「ようこそおいでになりました、シンナ・ドライ。お部屋はすべて整っております」
老人の英語は、古風で丁寧な植民地時代の響きを帯びていた。
案内された二階の主寝室は、二十畳ほどの広さがあった。
床には手作業で磨き抜かれたチークの古材が敷き詰められ、部屋の中央には、天蓋のついた重厚なキングサイズの木製ベッドが鎮座していた。壁際にはマホガニーの洋服ダンスと書き物机、そして部屋の隅にはレンガ造りの暖炉があり、トンプソンオークの薪が赤々とパチパチ音を立てて爆ぜていた。
ディネシュが荷物を解きながら窓辺へ歩み寄った時、ふとある違和感に気づいた。
部屋の東側、深い谷と茶畑を見下ろす位置にある格子窓。
その真鍮の留め金が外され、ガラス戸が外側へ向かって十センチほど開け放たれていたのだ。
外からは、氷のように冷たい霧の湿気が、白い煙の帯となって室内へ絶え間なく流れ込んでいた。
「ムトゥサミ、この窓の鍵が壊れているのかい? 外はひどい寒さだ。閉めておいてくれ」
ディネシュが手を伸ばして窓を引き寄せようとした瞬間だった。
「お手を触れてはなりません、サー!」
普段の物静かな態度からは想像もつかない、鋭い叫び声が響いた。
振り返ると、トレイに熱いセイロンティーのポットを載せたムトゥサミが、血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。
「……どうしたんだ、そんな大声を出して」
「申し訳ありません、シンナ・ドライ」
ムトゥサミはトレイをテーブルに置くと、恐る恐る窓辺へと歩み寄り、開いた窓の隙間をじっと見つめた。老人の手のひらが、微かに震えているのをディネシュは見逃さなかった。
「この窓は、昼も夜も、雨の日も風の日も、決して閉めてはならないのです。……歴代のシンナ・ドライの方々にも、例外なくそうお伝えしてまいりました」
「なぜだ? 隙間風で部屋が冷え切ってしまうじゃないか」
「閉めれば、割れるのです」
老人は声を落とし、囁くように言った。
「もし夜間にこの鍵をかければ、夜明け前にガラスが内側から粉々に砕け散ります。それだけではありません。閉ざされた扉を叩くあの足音が、ベッドのすぐ横まで入ってきてしまうのです。
……どうか、老人の戯言とお笑いにならず、この窓だけはそのままにしておいてくださいませ」
ディネシュは眉をひそめたが、初対面の老執事と無用な摩擦を起こすことを避け、曖昧に頷いて見せた。
都会の大学を出た合理主義者の彼にとって、それは迷信深い山岳地帯の農村によくある、前時代的な言い伝えの一つに過ぎなかった。
第二章 真夜中の廊下と冷たい窪み
ディネシュが割り当てられた農園の業務は、想像を絶する重労働だった。
朝の五時半、霧が最も深い時間に起床し、点呼場で何百人もの茶摘み労働者たちにその日の割り当て区画を指示する。その後は長靴を履いて急斜面を歩き回り、新芽の摘み取り状況や害虫の発生、肥料の散布状態をチェックする。
事務所で茶葉の出荷台帳の整理を終え、バンガローに戻る頃には、いつも夜の八時を回っていた。
ムトゥサミが作ってくれる熱いマトンのスリランカカレーと、サンバル、湯気の立つ赤米の夕食は美味だったが、食事が終われば、広大な屋敷には底知れない静寂だけが残された。
テレビはなく、スマートフォンの電波も途切れがちだった。
聞こえるのは、暖炉の中で薪が崩れる音と、遠くの森で啼く夜鳥の湿った声だけ。
ディネシュは暖炉の火を小さく落とし、十時前には二段重ねの厚いウール毛布を被ってベッドに入った。
異変が起きたのは、赴任して四日目の木曜日の深夜だった。
パタ、パタ、パタ。
乾いた音が、ディネシュの眠りの底を揺さぶった。
最初は、屋根板を叩く夜露の雫かと思った。しかし、その音は規則正しく、加速しながら近づいてきていた。
一階から二階へと続く、幅の広いチーク材の階段。
そこを、何者かが裸足で、一段飛ばしに駆け上がってくる音だった。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタッ!
濡れた足の裏が、磨き抜かれた木肌に吸い付いては離れるような、湿り気を含んだ生々しい摩擦音。
子供の足音ではない。大人の、それも体重の軽い若い人間の疾走する足取りだった。
ディネシュはベッドの中で目を開け、毛布を握り締めた。
泥棒か。
しかし、このバンガローの周囲には高い鉄柵があり、夜間は門番が正門を施錠しているはずだった。それに、階下の犬たちが吠えた気配すら微塵もなかった。
足音は二階の踊り場に達し、長い廊下を一直線にこちらへ向かって走ってきた。
ペタペタペタペタペタッ!
疾走音は、ディネシュの寝室の扉の真ん前で、ピタリと止まった。
静寂が訪れた。
耳が痛くなるほどの無音。
ディネシュは息を殺し、枕元の懐中電灯に手を伸ばした。
ギィ……。
施錠されているはずの重いチークのドアが、内側へ向かって、ほんの数ミリだけ軋みながらたわんだ。
ドアの下の隙間から、冷気の帯とともに、あの匂いが滑り込んできた。
甘い、ジャスミンの花の匂い。
しかしそれは、摘みたての花の清涼な香りではなかった。長期間水に浸かって腐敗しかけた花びらと、古い樟脳(ショウノウ)の粉末が混ざり合った、胸の奥を締め付けるような澱んだ匂いだった。
カタ……カタ……。
真鍮のドアノブが、外側からゆっくりと、微細なストロークで上下に揺れ動いた。
誰かがノブを握り、音を立てないように回そうとしている。
ディネシュの心臓が早鐘のように跳ね上がった。
彼は懐中電灯を掴んで跳ね起き、ベッドから飛び降りた。
「誰だ!」
叫びながらドアへと駆け寄り、内側のキーを一気に回してドアを乱暴に引き開けた。
強いLEDの光条が、暗黒の廊下を一閃した。
誰もいなかった。
幅二メートルの長い廊下には、ただ冷たい空気が滞留しているだけで、左右の壁の燭台も、床の赤いカーペットも、静止したままだった。
窓の外を見ても、人影が飛び降りた気配はない。
「……気のせいか」
ディネシュは震える手で額の冷や汗を拭った。過密な労働と、標高の高さによる軽い高山病が見せた幻聴に違いない。そう自分に言い聞かせ、ドアに二重の鍵をかけてベッドへと戻った。
毛布を跳ね上げ、シーツの中に潜り込もうとした瞬間。
ディネシュの手が、ベッドの右半分のシーツに触れた。
冷たかった。
まるで、巨大な氷の塊を長時間置いていたかのように、その部分だけが異常な冷気を放っていたのだ。
懐中電灯の光を落とす。
ディネシュが寝ていた左側のシーツは、体温で温まり、乱れていた。
しかし、誰も寝ていないはずの右側のシーツの中央に、はっきりと残されていた。
人間の身体の形をした、深い窪み。
頭部が沈んだ枕の凹み、肩から腰にかけての滑らかなカーブ、そして丸まった脚の輪郭。
その窪みからは、あの甘ったるいジャスミンと樟脳の匂いが、目に見えない湯気のように立ち上っていた。
ディネシュの喉から、声にならない空気が漏れ出た。
彼はベッドから飛び退き、壁に背中を押し当てた。
東側の開け放たれた窓から、夜の霧が音もなく流れ込み、白いカーテンを幽霊の衣のように静かに揺らしていた。
第三章 割れたガラスと四つん這いの影
翌朝、青白い顔で食堂に降りてきたディネシュに、朝食のトーストと紅茶を運んできたムトゥサミは、何も尋ねなかった。
ただ、ディネシュの目の下の深い隈と、強張った指先を一瞥すると、銀のティーポットを置き、静かに頭を垂れただけだった。
「ムトゥサミ」
ディネシュは紅茶に手をつけず、低く掠れた声で切り出した。
「この家で、過去に何があったんだ。正直に話してくれ。昨夜、廊下で足音を聞いた。……ベッドにも、誰かがいた」
ムトゥサミの手が、わずかに止まった。
老人は周囲を用心深く見回し、それから食堂のドアをしっかりと閉めた。
「……シンナ・ドライ。あの方の名は、メナカと申します」
老人は声を絞り出すようにして語り始めた。
「今から百年前、千九百二十年代のことです。この農園を管理していた英国人の若い副支配人……エドワードという男がおりました。エドワード様は、農園の茶摘み労働者の娘であったメナカと、密かに恋仲になられたのです」
ムトゥサミの濁った瞳が、遠い過去の闇を見つめるように揺れた。
「しかし、当時の厳格な植民地社会において、英国人の支配階級が現地の労働者の娘と結ばれることなど、絶対に許されない大罪でした。エドワード様の本国の両親がそれを知り、彼を強制的に英国へ連れ戻すために本国から監視役を送り込んできたのです。出発の前夜、エドワード様はこのバンガローの主寝室で、メナカに『必ず戻ってくる、迎えに来る』と約束されました」
「その約束は……」
「果たされませんでした。エドワード様を乗せた船は本国へ戻り、二度とこのセイロンの土を踏むことはありませんでした。残されたメナカは、毎夜、あの主寝室の東側の窓を開け放ち、彼が夜の霧を抜けて戻ってくるのを待ち続けました。
……しかし、数ヶ月後、彼女のお腹に新しい命が宿っていることが農園中に知れ渡ったのです」
老人の指先が、テーブルの上で固く握り締められた。
「当時の大旦那(ペリヤ・ドライ)は、農園の風紀を乱したとして、彼女とその家族を茶園から追放することを決定しました。行き場を失ったメナカは……ある激しい嵐の夜、白いつむぎのサリーを身に纏い、あの東側の窓から身を投げたのです。下の岩だらけの谷底へ」
冷たい風が、食堂の窓枠をカタカタと揺らした。
「彼女の遺体は翌朝、茶の木々の間に引っかかっているのを発見されました。しかし、身重のまま非業の死を遂げた彼女の魂は、自分が死んだことすら受け入れられず、今もあの窓から寝室へ戻り続けているのです。愛した男が、あのベッドで待っていると信じ込んで……」
ムトゥサミはディネシュの目を真っ直ぐに見つめた。
「ですから、シンナ・ドライ。あの窓を閉めてはならないのです。窓を閉めるということは、彼女に対して『お前はもうここへ入るな』と拒絶を突きつけることと同じです。彼女の哀しみは、一瞬にして猛烈な怨念へと変わってしまうのです」
その話を聞いた後も、ディネシュの心の中で理性が完全に屈服したわけではなかった。
悲劇的な民話だ。しかし、自分はそのエドワードという英国人とは何の関係もない、現代のスリランカ人だ。なぜ見知らぬ他人の亡霊に怯え、毎晩氷点下の寒風を部屋に招き入れなければならないのか。
その夜、ハットン一帯は、季節外れの猛烈な暴風雨に見舞われた。
山を削るような突風が吹き荒れ、大粒の雨が機関銃のようにスレート屋根を乱打していた。
午後十一時、主寝室の室温は摂氏四度まで落ち込んでいた。暖炉に薪をいくら放り込んでも、東側の窓から吹き込む強風によって熱が一瞬で吹き飛ばされ、カーテンが狂ったように室内でバタバタと暴れ回っていた。
シーツは湿気で冷え切り、ディネシュの歯の根はガチガチと音を立てていた。
風で舞い上がった雨水が、床のチーク材の上に水たまりを作り始めている。
「……もう限界だ」
寒さと睡眠不足による苛立ちが、恐怖を上回った。
ディネシュは毛布を跳ね除け、窓辺へと突進した。
彼は外側へ開いていた真鍮のハンドルを力任せに引き寄せ、窓枠に叩きつけるようにして閉めた。
そして、中央の頑丈な真鍮の掛け金を、カチリと音を立てて硬く下ろした。
風の音が遮断され、部屋の中に重苦しい静寂が戻った。
雨水がガラスの外側を激しく流れ落ちていく。
「見ろ、何もないじゃないか」
ディネシュは荒い息を吐きながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
彼は濡れた手を拭い、再びベッドへと潜り込んだ。風が入らなくなった部屋は、暖炉の余熱で少しずつ温もりを取り戻し始めていた。
しかし、日付が変わった午前二時十五分。
その瞬間、世界からすべての雨音が消え失せた。
激しく屋根を叩いていた豪雨の音が、まるで分厚い鉛の板で遮られたかのように、プツリと途絶えたのだ。
訪れたのは、耳鳴りのような完全な真空の静寂。
パリンッ!
耳をつんざくような破壊音が、部屋の中に炸裂した。
ディネシュが跳ね起きた瞬間、東側の窓ガラスの中央が、巨大な鉄のハンマーで打ち抜かれたかのように、内側へ向かって粉々に吹き飛んだ。
鋭利なガラスの破片が無数に飛び散り、床のチーク材を乱打する。
吹き込んできたのは、雨水ではなかった。
それは、氷点下数十度の、猛烈な悪臭を伴った黒い冷気の奔流だった。
腐敗したジャスミンの匂い。
そして、何ヶ月も泥炭の底に沈んでいた肉が放つ、耐え難い死臭。
窓の敷居の上。
割れたガラスの切っ先の上に、何かが乗っていた。
白い布の端。
泥と赤土にまみれ、破れてボロボロになったサリーの裾だった。
そして、その布の中から、音が響いてきた。
ペタ。
ペタ、ペタ。
それは立って歩く音ではなかった。
両手と両膝を床につけ、四つ足の獣のように、関節を異常な角度で折り曲げながら、床のガラス破片を踏み砕いて這い進んでくる音だった。
部屋の隅の暗がりから、その影が、光の届かない床の上を猛烈な速度で這い回っていた。
ザザッ、ザザザッ!
壁を擦り、天井の梁を爪で引っ掻くような乾いた摩擦音が、部屋の四方を旋回する。
ディネシュの喉から、短い悲鳴が漏れた。
彼はベッドの中央で身を縮め、両手で毛布を抱え込んだ。
音が、ベッドの足元で止まった。
ギシ……。
マットレスの端が、沈み込んだ。
何かが、ベッドの木枠を掴み、マットレスの上へと這い上がってきたのだ。
毛布の上を、這い上がってくる重み。
ズシ、ズシ、と、一本ずつ手足が進むたびに、ディネシュの両足の上に鉛のような重圧が加わっていく。
金縛りだった。
指先ひとつ動かせず、叫ぼうとしても声帯が完全に麻痺してヒューという擦れた空気しか出ない。
薄暗い暖炉の残り火の光の中に、その輪郭が浮かび上がった。
乱れ狂った長い黒髪。
その隙間から覗いていたのは、人間の生きた顔面ではなかった。
皮膚は泥水を含んで白くふやけ、所々が剥がれ落ちて頭蓋骨の白い骨が露出していた。
右の眼窩は完全に潰れ、そこから泥の混ざった黒い液体がタールのように頬を伝い落ちていた。
そして、残された左の瞳。
白濁した水晶体の奥で、青白い光が二つ、狂気と飢餓に濡れて爛々と輝いていた。
その顔面が、ディネシュの顔の真上、わずか十センチの距離まで降りてきた。
腐敗したジャスミンの甘美な悪臭が、ディネシュの鼻腔と肺を完全に満たした。
女の首が、不自然な角度でカクンと折れ曲がった。
喉仏の砕けるような、ゴキリという湿った音が静かな部屋に響く。
女の乾いた唇が、耳元まで裂けるように開いた。
『……エドワード……?』
声は、冷たい氷水を直接耳の穴に注ぎ込まれたかのように響いた。
『……なぜ……窓を閉めたの……?』
『……なぜ……私を……締め出したの……!』
女の両手が持ち上がった。
指先には爪がなく、泥にまみれた指骨が剥き出しになっていた。
その凍てつく指先が、ディネシュの喉笛へと向かって、空気を切り裂くように伸ばされた。
皮膚に触れた瞬間、激痛に近い冷気が首筋を走った。
血管の中の血液が一瞬にして凍結していくような感覚。
視界が急速に狭まり、意識の端がチカチカと白く明滅を始めた。
(死ぬ)
エドワードではないと叫びたくても、声が出ない。
この怨霊にとって、この部屋のベッドに眠る男はすべて、自分を裏切り、見捨て、暗黒の谷底へ突き落としたあの英国人の身代わりでしかないのだ。
その時、ディネシュの右手の指先が、シーツの下に押し込まれていた硬い突起に触れた。
昼間、ムトゥサミが「念のために」と、ディネシュの枕の下に滑り込ませていたもの。
カタラガマ神の神聖な鉄の小槍——ヴェール(Vel)のミニチュアと、半分に切られた乾燥した野生のライム(デヒ)の小片だった。
ヒンドゥーと仏教が交差するスリランカの信仰において、鉄(ヤカ・ヤダ)と酸味を持つライムは、あらゆる悪霊(ヤッカ)の侵入を阻む最も原始的で強力な防壁である。
ディネシュは最後の力を振り絞り、麻痺しかけていた右腕を力任せに動かした。
指先で鉄の小槍を鷲掴みにする。
そして、首を絞め上げる女の凍りついた腕に向かって、渾身の力でその刃先を突き立てた。
ジュウウウウッ!
真っ赤に熱した鉄板に水をかけたような、激しい蒸発音が轟いた。
ライムの果汁と鉄の切先が触れた瞬間、女の腕から、真っ黒な煙が噴き上がった。
ギャアアアアアッ!
女の口から、鼓膜を引き裂くような高周波の絶叫が炸裂した。
それは人間の声ではなく、深い谷底の岩盤そのものが軋むような地鳴りの咆哮だった。
首を締め上げていた重圧が一瞬にして吹き飛んだ。
女の影が激しく波打ち、天井に向かって跳ね上がった。
ディネシュは激しく咳き込みながらベッドから転がり落ちた。
床のガラス破片が手のひらに突き刺さり、鮮血がチーク材の上に飛び散った。
その生者の血の匂いに反応したのか、天井に張り付いていた女の影が、再び全身を逆さまに折り曲げ、落下するようにディネシュへと襲いかかろうとした。
その瞬間。
ドォン!
部屋のドアが外側から蹴破られるようにして開いた。
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