序章 帰った人数
「ほかに、まだ誰かいます?」
入口から訊かれて、私は奥を振り返った。
誰もいない、と答えるまでに少し時間がかかった。人影を探したのではない。朝から誰が来て、誰が帰ったかを、頭の中で数えたのだ。
上着を抱えたメイヴが、私の返事を待っていた。肩から鞄の紐がずり落ち、彼女は肘で押し上げた。その動きを見て、早く帰してやらなければと思った。
「もう私だけだよ」
メイヴは頷いた。扉が閉まり、ガラス越しに彼女の姿が通り過ぎた。私は作業台へ戻り、揃えていた紙の束を持ち上げた。端が一枚だけ飛び出していたので、爪で押し戻した。
第一章 名前のある紙
その晩に仕上げていたのは、舞台のプログラムだった。
大きな劇場の仕事ではない。明日の夕方、公演が始まるまでに届けばいい。表紙には団体の名前と演目、内側には出演者と協力者の名前が並ぶ。写真も飾りも少なく、紙を折って綴じれば薄い冊子になる。
簡単な仕事に見えるものほど、途中で何かが変わる。
出演者が一人交代した。
協力者の名前が一人抜けていた。
最後に、公演を手伝った人たちの一覧が届いた。
それぞれは小さな変更だった。誰か一人を責めるほどのことではない。ただ、小さな変更にも、それを反映する時間が必要だった。
私たちのところでは、印刷された紙が自動的に完成品になって出てくるわけではなかった。出来上がったものを確かめ、揃え、折り、綴じ、数を合わせて箱へ入れる。機械の音が止まってからも、人の手でやることが残る。
私はその部分を引き受けていた。
メイヴは来たばかりだった。紙の束を持つとき、落とすまいとして強く握りすぎる癖がある。表紙に指の跡がついたのを見て、初めて自分の力加減を知る。
その日の午後も、私は二度、彼女に言った。
「持ち上げる前に、下へ手を入れて」
三度目には、何も言わなかった。
彼女が私を見る前に、手を入れ直したからだ。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
夕方、最終的な原稿と見本を並べて確かめていると、メイヴが一覧の一箇所を指した。似た名前が二つある。同じ人を二度載せたのかもしれないという。
私は、勝手に一つにしないように言った。
「似てるだけかもしれない」
「分かってます。だから訊いたんです」
責めるような口調ではなかった。
それでも私は、余計な言い方をしたと思った。彼女は間違いを直そうとしていたのではなく、確かめようとしていたのだ。
依頼主へ連絡すると、別の二人だと分かった。
片方は舞台に立ち、もう片方は舞台の外で働く。その説明を聞きながら、私は紙に並んだ二つの名前を見た。こちらでは一行ずつの文字でも、向こうでは、それぞれ別の顔を持った人だった。
電話を終えてから、メイヴへ伝えた。
「二人いるそうだ」
彼女は頷き、確認済みの印をつけた。
そのあとは作業が進んだ。私が束を揃え、彼女が出来上がったものを数えた。間に一枚ずつ紙を挟んで区切りを作る。数え直すときに、最初からやり直さなくてよいようにするためだった。
窓の外が暗くなり、上司のブレンダンが帰り支度を始めた。
残りは翌朝でも間に合う、と言われた。
私は、ここまでやったから終わらせると答えた。
無理を命じられたわけではない。早く来て続きをする方が楽だということも、分かっていた。それでも、途中まで揃えた紙をそのまま置いて帰るのが嫌だった。
ブレンダンは、戸締まりを頼むと言った。
メイヴは、まだ手伝えると言った。
私は二人とも帰した。
そのときには、それが親切であり、自分の手際を信用した判断でもあると思っていた。
第二章 働いている間の顔
私は、あの仕事場の音をよく知っていた。
機械が動いている音だけではない。
紙を台へ置く音。戸棚の金具が戻る音。床の上で箱を引いたときの、短く擦れる音。奥で誰かが水を使うと、壁際で配管が鳴ることもある。
働き始めた頃は、いちいち振り返った。
誰かが呼んだのかと思い、顔を上げる。別の人も顔を上げている。二人とも何も言っていないと分かり、作業へ戻る。
そのうち、音に名前をつけるようになった。
箱だ。
水だ。
向こうの部屋だ。
名前をつけられるようになると、聞いていないのと同じくらい気にならなくなる。
夜に一人で残ることも、特別ではなかった。昼間の人の声がなくなっても、建物まで黙るわけではない。むしろ、昼には聞こえなかった小さな音が増える。
私はそれを、静かだとは思っていなかった。
人がいないだけだった。
昼間、自分がどれほど人の動きに合わせて身体を動かしているか、一人になるとよく分かる。
角で肩を引く必要がない。
後ろを通る人のために、椅子を寄せなくていい。
作業台の端へ置いた道具を、他の人が使うかもしれないと気にすることもない。
それなのに、私は一人でも同じように動いていた。
通路へ出るときには顔を上げた。箱を持って角を曲がるときには、向こう側を覗いた。誰もいない部屋へ入るとき、声をかけそうになることさえあった。
癖は、人が帰ったあとにも残る。
その晩、私は完成した冊子を一冊ずつ指でめくっていた。
紙の向きが違っていないか。真ん中が抜けていないか。綴じたところがきちんと収まっているか。
一冊を閉じる。
次の一冊を開く。
そこに書かれた名前を読んでいたわけではない。文字の並びを、模様に近いものとして見ていた。さっきまで誰が誰なのか確かめていたのに、同じものを何度も見ていると、意味が薄れていく。
ある名前のところで、指が止まった。
発音が分からなかった。
それだけだった。
昼間ならメイヴに訊いたかもしれない。自分が知らないことを彼女が知っているのは、よくあることだった。けれど彼女はいない。
私はその名前を声に出さず、冊子を閉じた。
作業台の横には、メイヴが使った椅子が残っていた。帰る前に机の下へ入れたのだろう。背もたれが少し斜めになっていた。
私は足先で真っ直ぐに直した。
誰に見せるわけでもなかった。
第三章 余った一冊
最初の箱を閉じようとしたところで、数が合わなくなった。
一冊多かった。
一冊足りないよりはいい、と最初は思った。だが、多いということは、どこかで別の束が少なくなっている可能性がある。
私は封をせず、箱の中を全部出した。
台の上に、小さな山を作り直す。
一つずつ数える。
区切りの紙を挟む。
さっきやったばかりの作業だった。
こういうとき、自分の頭を疑い始めると終わらない。一度数えたものを信用できず、もう一度数える。二度目が合わないと、三度目には数字そのものが頼りなくなる。
私は手を止め、見本を置いた場所を見た。
一冊ない。
さっき中を確かめた見本を、完成品の山へ戻していたのだ。
間違いはそれだけだった。
私は笑い、見本を別の場所へ置いた。
笑った声が、機械の間で思ったより大きく聞こえた。
疲れているのだと思った。
だが、眠くはなかった。目が重いというより、同じ動作を続けているせいで、考えなくても手が進む。その流れに一度入ると、自分が何をしたか覚えていない部分ができる。
見本を戻したことも、覚えていなかった。
私は紙片に大きく「見本」と書き、冊子へ挟んだ。誰かに見せるには雑な字だった。自分に分かればよかった。
次の箱に取りかかる前に、携帯電話を見た。
メイヴから連絡が来ていた。
明日、少し早く来た方がいいですか。
私は、いつも通りでいいと返した。
まだ終わっていないことは書かなかった。
彼女はもう仕事場を出ている。こちらの様子を気にしながら夜を過ごす必要はない。
返事を送ってから、私は少し嫌な気分になった。
帰したのは私なのに、助けが必要ではないことを彼女へ示そうとしている気がしたのだ。
仕事を覚えたばかりの頃、私は先輩が一人で何でも終わらせるのを見て、早くそうなりたいと思っていた。
何を訊かれても答えられる。
何かが足りなくても、別の方法を知っている。
誰かが帰っても、自分は困らない。
それが熟練というものだと思っていた。
実際には、一人で終わらせることと、一人でしか終わらせられない状態にすることは違う。
私は携帯電話をもう一度手に取った。
ありがとう、とだけ送った。
今度の返事はすぐに来た。
おやすみなさい。
私は携帯電話を伏せた。
誰かの一日が、こちらより先に終わった。
第四章 壁際の湯
残りの束を揃えたところで、茶を淹れることにした。
作業台から離れると、腰が少し固くなっていた。長く座っていたわけではない。同じ高さへ手を伸ばし、同じ角度で身体を曲げ続けていた。
壁際の流し台で手を洗った。
爪の縁に紙の細かな粉が残っている。水に濡れると、それまで気づかなかった小さな傷が指にしみた。
戸棚から自分のカップを出した。
白いカップで、持ち手の付け根に茶色い線がある。汚れなのか、表面の細い傷へ色が入ったのか、何度洗っても同じところに残った。
新しいものを買えばいいと思いながら使っていた。
仕事場のカップは、持ち主が決まっているようで、厳密には決まっていない。自分のものが見つからなければ、誰かのものを使う。そのあとで、元の棚へ戻す。
以前いた人のカップも残っていた。
その人が辞めた日のことは覚えていないのに、砂糖を入れる量は覚えている。そういうことがあった。
私は茶の袋を入れ、湯が沸くのを待った。
身体を休めるつもりだったが、目は作業台を見ていた。
箱が一つ閉じている。
もう一つは開いている。
その向こうに、仕上げを待つ紙がある。
ここから見ると、残りは少なく見えた。
作業台のそばへ戻ると、また多く見えるだろう。仕事の量は変わらないのに、自分がどこに立つかで違って見えた。
ケトルの中で水が動き始めた。
壁に近いので、音が籠もる。
私は少し位置をずらした。
そのとき、背後を人が通るときと同じように、肩を引いていたことに気づいた。
何かを見たわけではなかった。
狭いところで待っていると、無意識に場所を空ける。昼間にはよくする動作だった。
私は壁へ寄った自分の肘を見て、元へ戻した。
誰もいないのだ。
湯が沸いた。
茶を淹れ、少し待ってから袋を引き上げた。いつもはその間に、誰かと二言三言話す。納期のこと、食べ物のこと、帰り道のこと。意味のある話でなくても、その時間だけ作業から離れられる。
一人だと、待っている間まで仕事を考えてしまう。
私はカップを持ち、作業台へ戻った。
飲む前に、また一冊を開いた。
第五章 覚えられない顔
その頃、私は人の名前を覚えるのが下手になったと感じていた。
顔を忘れるわけではない。
どの注文で来た人か。何を急いでいたか。紙の色について長く話したか。そうしたことは覚えている。
名前だけが出てこない。
相手が笑って挨拶すると、こちらも笑う。その間に思い出そうとする。思い出せなくても会話は進む。最後まで名前を呼ばずに済むことも多かった。
作業場を訪ねる人は、皆が長く留まるわけではなかった。
見本を持ってくる。
荷物を引き取る。
誰かを迎えに来る。
奥へ声をかけると、知っている人が顔を出す。それで相手が誰なのか分かる。自分が知らなくても、ここにいる理由はあるのだ。
私はそれに慣れていた。
知らない顔があることと、知らない人が入り込んでいることを、同じには考えなかった。
今になって思うと、あの晩も、その習慣が先に働いたのだろう。
だが、その前にもう少し、何でもない時間があった。
私は二つ目の箱へ完成品を入れた。
底に敷いた紙の端が折れていたので、持ち上げて直す。箱を揺すって隙間を確かめる。余った場所へ紙を丸めて入れる。
メイヴがやると、丸め方が柔らかすぎると感じることがあった。自分がやると、今度は詰めすぎる。
どちらが正しいということでもない。
箱を開けた人が、取り出しやすく、冊子の端が潰れていなければいい。
私は一度詰めた紙を取り出し、少し小さくした。
外から車の音が聞こえた。
窓に光が滑り、すぐに消えた。
配達の車ではない。こんな時間に荷物は来ない。
そう思い、それから、自分が来るはずのない人について考えていることに気づいた。
誰か来れば、少し話せる。
本当は、それを期待していたのかもしれない。
寂しかった、というほどのことではなかった。音のない相手と仕事を続けていると、人の声が恋しくなる。紙は、こちらが何を間違えても黙っている。
完成したものを一冊持ち上げた。
表紙を撫で、背のところを指で押さえた。
明日、この冊子は私の知らない人たちの膝に載る。開演を待つ間に読まれ、途中で閉じられ、椅子の下へ落ちるものもあるだろう。
舞台を見た記憶と一緒に、持ち帰られるものもある。
こちらでは数でしか扱えないものが、向こうでは一冊になる。
私はそれを見本の横へ置いた。
もう一度茶を飲もうとしたが、冷めていた。
第六章 通路を空ける
最後の束に取りかかる前に、冷めた茶を捨てた。
カップの底に濃い色が残っていた。軽く水を回し、流す。今度は少しだけ淹れようと思った。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
残りを翌朝へ回す判断なら、もう少し前にするべきだった。ここまで来たら終わらせようという考えは、何度も同じ形で戻ってきた。
私は湯を用意しながら、終わったあとの順序を考えていた。
見本を依頼票に挟む。
箱へ宛先をつける。
明日の人が分かるところへ置く。
作業台を片づける。
戸締まりをする。
その順序の途中へ、顔を洗うことを足した。
帰る前に、一度、仕事場の匂いを落としたかった。服から消えるわけではないが、冷たい水で顔を洗うと、同じ一日の中に小さな切れ目ができる。
背後に大きな機械が二台あった。
その間や周りに紙が積まれ、通る場所は自然に決まっていた。初めて来た人は一度立ち止まる。慣れた人は、荷物を持っていても身体を斜めにして抜けていく。
私はその通路の端に立っていた。
ケトルの方を向いていたが、部屋全体が見えなくなるわけではない。目の端には扉があり、機械の角があり、明るい床があった。
何かが動けば分かる。
そのときも、動いたものに気づいた。
だが、私は驚かなかった。
作業場で人が通る。
それだけのことだった。
相手がこちらを向き、私は、邪魔をしているのは自分だと思った。
さっきと同じように肩を引いた。
そして、私は挨拶をした。
この話で、自分でもいちばん分からないのは、その挨拶に少しもためらいがなかったことだ。
若い男だった。
まだ十代の終わりか、二十歳になるかならないか、そのくらいに見えた。トイレのある方の扉から現れ、私のそばを通り、顔をこちらへ向けた。
私は軽く笑って会釈した。一瞬目を伏せ、上げると、その人は機械の後ろへ姿を隠すところだった。
それだけだった。
壁を抜けたわけでも、空中へ浮いたわけでもない。
私の知っている人間と、同じように歩いた。
だから私は、顔を上げたあとも、すぐには何も考えなかった。
ケトルを持ち上げた。
カップへ湯を注いだ。
湯気が手に当たり、少し熱かった。
その熱さで、ようやく動作が途切れた。
誰だろう。
思ったのは、それだった。
なぜいるのか、ではない。
誰なのか。
私はカップを置いた。
作業場には、私しか残っていないはずだった。
それは戸締まりの推測ではなかった。数時間前、自分の口でメイヴへそう答えた。誰が帰ったかを数え、もう私だけだと言った。
私は、若者の消えた機械の方を見た。
機械の向こうには、通路が続いている。
昼なら、誰かがそこへ回り込んでも気にしない。用事があるのだろうと思う。名前が分からなければ、あとで別の人に訊けばいい。
だが今は、その別の人がいなかった。
私は一度だけ、声を出した。
「すみません」
呼び止めるには弱い言い方だった。
誰かがいるなら、こちらを向いてほしかった。
返事はなかった。
第七章 声の届く範囲
私は機械の角まで歩いた。
急いではいなかった。
急ぐと、自分が何を怖がっているのか認めることになりそうだった。
機械の後ろには誰もいなかった。
紙の束があり、置いておいた箱があり、昼間に誰かが立てかけた板があった。物の配置は変わっていないように見えた。
向こう側を覗いた。
そちらにも人はいなかった。
私は顔を上げ、入口の方を見た。
扉が閉まっていたことに、特別な意味をつけたくなった。だが、誰かが出たあとで閉まっていることはある。自分が音を聞き逃した可能性もある。
私は入口まで行った。
外を見る。
車が一台通り過ぎた。
歩いている人は見えなかった。
ここまで来る間に、誰かが外へ出たのかもしれない。その場合、なぜ黙っていたのか分からないが、分からないことがあるからといって、人間ではないことにはならない。
私はそう考えた。
考えたところで、胸の奥の重さは取れなかった。
戻る途中、トイレの方へ寄った。
扉へ近づき、もう一度声をかけた。
返事はない。
誰かが使っている気配もなかった。
私はそこで立ち止まった。建物の中を隅まで調べれば安心するのか、それとも、人がいない場所を増やしていくことになるのか、分からなかった。
見たものの顔を思い出そうとした。
目が合った。
それは覚えている。
だが、目の色は分からない。
髪の形も、服の細部も、確信を持って言えるほど残っていなかった。
私はその人を観察していなかった。
挨拶をしていたのだ。
一瞬相手を見て、危険のない人だと受け取り、そのまま視線を外した。
それは、毎日していることだった。
顔を覚えられないほど短い相手にも、道を譲る。名前を知らない相手にも、軽く頷く。
あの若者にだけ、違うことをする理由がなかった。
私は壁際へ戻った。
カップには茶が入っていた。
湯気はもう少なくなっていた。
手を伸ばしたが、飲まなかった。若者に触られたわけでも、何かが入ったわけでもない。ただ、会釈をした自分と、今の自分の間に、そのカップが残されているように感じた。
私は流しへ持っていき、中身を捨てた。
茶の色が薄くなり、水になった。
その単純な変化を、最後まで見ていた。
第八章 終わらせない仕事
作業台へ戻っても、手が進まなかった。
一冊を取る。
開く。
何を見たか覚えていないので、もう一度開く。
同じ頁へ指を置いたところで、自分が仕事をしているふりをしていると分かった。
終わらせて帰ればいい。
さっきまで何度も使っていた言葉だった。
だが、今は、終わらせることだけを理由にここへ残っていた。
私は携帯電話を取り、ブレンダンへ連絡した。
夜も遅かったが、起きていた。
「どうした」
「残り、朝へ回したい」
声に出すと、思っていたより簡単だった。
「だから言っただろう」
彼は笑った。
責めてはいなかった。私はその普通の返事を聞き、肩の力が少し抜けた。
「完成した分と分けておく。見本も置く」
「分かった。帰りなさい」
そこで終わるはずだった。
私は、もう一つ訊いた。
「誰か、戻る予定だった?」
「誰が?」
「誰でも」
少し間があった。
「聞いてない。何かあったのか」
私は、誰か見えた気がした、と答えた。
自分の言い方が小さくなったことに気づいた。見えた気がしたのではなく、見て、挨拶までした。それでも電話では、あの数秒をそのまま言えなかった。
ブレンダンは、外の人かと訊いた。
私は、分からない、と言った。
彼は必要なら来ると言った。
私は断った。
来てもらえば、二人で同じ場所を見て、何もいないことを確かめるだろう。それが無意味だとは思わない。けれど、今の私が必要としていたのは、建物の中に残る理由ではなかった。
帰っていい、と誰かに言ってもらうことだった。
電話を切り、仕上がった箱へ紙を貼った。
完了。
残りの束には、別の紙を載せた。
未確認。
たった三文字を書くだけで、仕事を明日へ渡せた。
私は作業台を片づけた。
若者が通った場所を避けないように歩こうとして、その考え自体が、そこを特別な場所にしていることに気づいた。
結局、いつも通りには歩けなかった。
入口で上着を着た。
灯りを消すとき、機械の後ろを見た。
誰もいなかった。
扉を閉め、鍵を掛ける。
外の空気は冷たかった。
私は少し歩いてから、自分が誰にも最後の挨拶をしていないことに気づいた。
いつも一人で帰るときには、そんなことは考えなかった。
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