序章 赤土の切り通しと掲示板

インド工科大学や巨大IT企業が集中するベンガルールやハイデラバード、プネーのガラス張りのオフィスビルでは、昼夜を問わず、世界最先端のソフトウェア開発やアルゴリズムの解析が行われている。世界有数のデジタル大国となった現代のインドにおいて、若者たちの言説空間の中心にあるのは、巨大なソーシャルプラットフォームである。

国内最大級のコミュニティや、日常の疑問を投げ合うコミュニティ、そして英語圏の怪異体験が集まるコミュニティのインド関連スレッドには、毎年秋から冬にかけて、決まって数千件もの返信を集める定番の投稿群が存在する。

「インド国内で体験した、本物の超自然現象を教えてくれ」

書き込まれる手記の大半は、都市部の埃っぽいオフィスや大学の寮でキーボードを叩く、教育を受けた合理的な若者たちによるものである。彼らは迷信や宗教的狂信を嘲笑する術を身につけているはずだった。しかし、ひとたび話題が夜間長距離ドライブや、幹線道路(ナショナル・ハイウェイ)の山間部に及ぶと、その筆致は一変して乾いた恐怖と冷や汗に覆われる。

彼らが一様に口にするのは、インド亜大陸という大地の底知れない古さである。何千年もの間、無数の王朝が興亡し、飢饉と戦争、そして疫病の記憶が地層のように堆積したこの土地では、近代的なアスファルト舗装など、大地に薄く張り付いた皮膚の一片に過ぎない。

とりわけ、マハーラーシュトラ州の西海岸、ムンバイとリゾート地ゴアを結ぶ国道六六号線(旧一七号線)の難所「カシェディ峠(カシェディ・ガート)」を巡る体験談は、ネット上の議論において別格の重みを持って語り継がれている。

西ガーツ山脈の険しい岩壁を削り取って作られたその一本道は、モンスーンの季節が過ぎ去っても、夜になるとアラビア海からの湿った空気が深い霧となって立ち込め、見渡す限りの赤土の断崖を白濁した闇へと沈める。そこで長距離トラックの運転手たちや深夜のドライバーたちが遭遇するのは、時速六十キロで疾走する車の窓に張り付く女の影、足首の関節が完全に逆さまに折れ曲がった「反転した足(ウルテ・ペール)」、そして積載した生肉や魚の匂いに引き寄せられて霧の底から這い上がってくる、飢えた死者たちの息遣いである。

第一章 西ガーツの赤色土

アルジュン・シンデが運転する試作型ハイブリッドSUVのフロントガラスを、夕暮れの湿った空気が白く曇らせ始めたのは、十一月中旬の午後五時半を回った頃だった。

プネーのヒンジワディITパークに拠点を置く大手自動車メーカーの電子制御開発部門で、先進運転支援システム(ADAS)の路上評価技師を務める三十二歳のアルジュンは、翌週に迫った新型車両の型式指定試験に向け、最終段階の実車ログ採取を担当していた。

今回のテストルートは、内陸の高地プネーを出発し、西ガーツ山脈の険しい山道を西へ下ってコンカン海岸へと抜け、国道六六号線を南下してチプルーンへ至る往復四百キロの山岳耐久コースだった。車両には、ルーフに設置された三次元ライダー(LiDAS)センサー、フロントバンパー奥のミリ波レーダー、そしてフロントガラス上部に配置された高解像度ステレオカメラが組み込まれ、助手席の足元に据え付けられた頑丈な計測用データロガーが、車両の挙動と外界の認識データを一秒間に百回の頻度でソリッドステートドライブへと書き込み続けていた。

「アルジュン、カシェディ峠に入る前に、必ずポラドプールで長めの休憩を取れよ」

出発前、テストチームのシニアマネージャーである初老のパティルが、チャイのプラスチックカップを片手にオフィスで念を押してきた言葉を、アルジュンは思い出していた。

「あそこは昔から事故が多すぎる。数年前にバイパストンネルの工事が始まったが、古い峠道は今でも夜になると大型トラックの墓場だ。エンジンの冷却水が突然沸騰したり、ブレーキのエアーが抜けたりする。

地元の連中はみんな、あそこの夜道には『足が逆さまの女』がいると信じている。機械のテストだからといって、無理をして夜中に突っ込むなよ」

アルジュンは車内のモニターに表示されるテレメトリーデータを見つめながら、小さく鼻を鳴らした。近代的な車両制御システムにおいて、センサーはミリ秒単位で障害物を検知し、緊急自動ブレーキが物理的な衝突を回避する。迷信深い旧世代の人間が語る怪談など、疲労と視界不良が生み出した認知バイアスに過ぎない。

彼にとって重要なのは、急勾配のカーブにおける回生ブレーキの温度上昇データと、悪天候下でのライダーの点群データ(ポイントクラウド)の欠落率だけだった。

山を海側へと下りきると、空気の質が劇的に変わった。内陸の乾燥した風は消え去り、アラビア海から吹き寄せる熱帯特有の重苦しい湿気と、雨季の名残を留めた青臭い密林の匂いが、エアコンの外気導入ダクトから流れ込んできた。

道路の両脇には、コンカン地方特有のジャンバ・ダガド——手作業で切り出された多孔質の赤色ラテライト石の擁壁が延々と続いていた。雨水に濡れた赤土の壁は、夕暮れの残光を浴びて、まるで生々しい傷口のように赤黒く濡れ光っていた。

第二章 ポラドプールのダーバー

峠の登り口に位置するポラドプールの町外れ、未舗装の広場に大型トラックが十数台停まっている粗末なロードサイド食堂——ダーバーの前に、アルジュンは車を滑り込ませた。

トタン屋根の下には、木製の粗末なベッドにロープを張った長椅子(チャルパイ)が並び、裸電球の周りを巨大な夜の蛾が無数に飛び交っていた。大型の鉄鍋からは、マスタードオイルで炒められたクミンと生姜、そして強烈なマサラの煙が立ち上り、煤けた大気を刺激的に満たしていた。

アルジュンはチャルパイの端に腰を下ろし、店主に熱いカッティング・チャイを注文した。厚手の小さなガラスコップに注がれた濃厚なミルクティー。熱い茶をすすると、カルダモンの甘い香りと強い砂糖の甘みが、長時間の運転で強張っていた首筋の筋肉をわずかに解きほぐした。

隣の席では、筋骨隆々とした二人のスィク教徒のトラック運転手が、ターバンを緩めてダル(豆カレー)とロティを貪り食っていた。彼らの大型タタ・トラックのフロントバンパーには、七本の青唐辛子と一個の青いレモンを黒い糸で編み込んだ魔除け——ニンブー・ミルチが、泥にまみれながらぶら下がっていた。

「おい、旦那」

チャイを運んできた白髪混じりの店主のカカ(親父)が、アルジュンの乗ってきた見慣れないセンサー類を載せた車を一瞥し、低く濁ったマラーティー語で話しかけてきた。

「これからカシェディを越えるのかい」

「ああ、チプルーンまで行く予定だ」

「やめておきな。もうすぐ夜の八時だ。霧が山の上まで降りてきている」

店主は腰に巻いた汚れた布でテーブルを拭きながら、顎で南の暗黒の山並みを指差した。

「特に、その車の中に何か食い物……それも生の肉や魚は積んでいないだろうな」

「肉? そんなものは積んでいないよ。精密機器の測定器だけだ」

アルジュンが答えると、店主はわずかに安堵したように息を吐いたが、その顔の険しさは消えなかった。

「ならいい。昔からこの峠ではな、魚の干物や羊の肉を積んだトラックが、カーブで決まって谷底へ突っ込むんだ。山に巣食っているチュレールどもはな、血と肉の匂いに目がない。

肉の匂いを嗅ぎつけると、霧の中から這い出してきて、車を力任せに止めてすべてを奪っていくのさ」

店主は懐から、すり減った真鍮の小さな護符を取り出し、アルジュンの手元に置いた。

「もし上で車が止まったら、絶対にドアを開けるな。外からどんな音がしても、窓ガラスを叩かれても、決して外を覗くな。奴らの足を見るんじゃないぞ。

奴らの足首はな、前と後ろが逆にくっついているんだ。一度でもその反転した爪先を見ちまえば、魂の向きまでひっくり返されて、二度とあの山から降りられなくなるんだからな」

アルジュンは失笑を禁じえなかったが、地元の老人に対する敬意としてチャイの代金とともに護符を受け取り、ポケットへと滑り込ませた。

車に戻り、プッシュスタートボタンを押す。計器盤のフル液晶ディスプレイが鮮やかに起動し、助手席のノートパソコンが走行ログの記録を再開した。「システム正常。自動操縦準備完了」

無機質な青いインジケーターの光が、キャビンを現代のシェルターのように満たしていた。アルジュンはシフトレバーをドライブに入れ、ヘッドライトのLEDビームを灯した。白い光の刃が、闇の中に口を開けたカシェディ峠の上り坂を、鋭く切り拓いていった。

第三章 反転した足跡

峠に入って十五分も走らないうちに、世界は一変した。

アラビア海からの湿潤な風が冷え切った山肌に衝突し、急速に凝結した濃霧が、まるで巨大な白い生き物のようにアスファルトの上を這い回っていた。視界は十メートル、いや、五メートル先すら定かではない。センターラインの白いペイントは所々で剥がれ落ち、右側にはガードレールすら存在しない、数百メートルの暗黒の谷底へと続く切り立った崖が口を開けていた。

速度は時速二十キロまで落ちていた。エンジンは静まり返り、電気モーターの微かな高周波の唸り音だけが車内に響く。

パチパチ、と小さな音がした。助手席の計測用パソコンのファンが急激に回転数を上げ、コンソールボックスの通信モジュールが不規則に赤く点滅し始めたのだ。

「なんだ? GPSのクロックエラーか?」

画面を横目で確認すると、衛星航法システムの電波捕捉数が瞬く間にゼロへと脱落していた。同時に、ルーフ上の三次元ライダーの解析画面に、異様なノイズパターンが描かれ始めた。

通常、ライダーの点群データは、道路の路面や側壁のラテライト石を滑らかな幾何学の線として捉える。しかし今、画面上には、車両の前方三十メートルの空間に、まるで激しい吹雪のように無数のランダムな反射点が爆発的に増発していた。

ピピッ、ピピッ。

車内の衝突被害軽減ブレーキ(AEB)の警報音が、短く二回鳴り響いた。インパネの中央に、赤い警告アイコンが点滅する。「前方障害物検知」

アルジュンはブレーキペダルに足を乗せ、目を凝らした。しかし、ヘッドライトのハイビームが照らし出す霧の中には、何もいなかった。落ちてきた落石も、立ち往生したトラックもない。

ただ、白く濁った大気がヘッドライトの光を乱反射させているだけだ。

「センサーの結露か。後で感度閾値のログを修正しないと——」

彼が独り言を呟き、ペダルから足を離そうとした、その瞬間だった。

ガクンッ!

シートベルトが火薬式のプリテンショナーによって猛烈な力で巻き取られ、アルジュンの胸骨をシートに縫い付けた。非常自動ブレーキが作動したのだ。四輪のディスクブレーキが高圧の油圧で一斉にロックし、ABSの激しい振動が床下からペダルを通して伝わってきた。

タイヤが濡れたアスファルトを激しく擦り、焦げたゴムの悪臭が立ち込める中、SUVはカーブの手前、わずか数メートルの位置で急停止した。

車内は完全な沈黙に包まれた。メーターパネルには「前方緊急停止完了」の文字が点灯していた。

「おい、ふざけるな……誤作動(ファルス・ポジティブ)か!」

アルジュンはステアリングを力任せに叩いた。こんな暗闇の急カーブで停止すれば、後続の大型トラックに追突される危険がある。彼はハザードランプのボタンを押し、すぐに車を発進させようとアクセルを踏み込んだ。

しかし、モーターは反応しなかった。液晶画面のシフトポジション表示が「P」と「D」の間で狂ったように明滅し、高電圧バッテリーのインバーター警告灯が赤く点灯した。システム全体が、フリーズしていた。

「頼む、動いてくれ……!」

アルジュンはイグニッションボタンを長押ししてシステムの再起動を試みた。その時だった。

カサ、カサ。

車の外、フロントバンパーのすぐ前の地面から、音が聞こえてきた。

小石を踏みしめる音。濡れた落ち葉が、何者かの足によって擦り潰される湿った音。

アルジュンは操作の手を止め、フロントガラス越しに前方を見据えた。フォグランプの黄色い光が、アスファルトの地表すれすれを扇状に照らし出していた。

そこに、あった。

霧の中から、二本の細い脚が、地面に降り立っていた。

それは人間の脚の形をしていた。しかし、その皮膚は生きている人間の血色を完全に失い、川底のヘドロのように青黒く変色し、泥と古い乾いた血が幾重にもこびりついていた。

そして、その足首から下だった。

アルジュンの喉の奥から、乾いた息が漏れ出た。

爪先が、車の方向を向いていなかった。踵の骨が前に突き出し、五本の歪に伸びた足の指が、完全に真後ろ——怪異の背後の闇へ向かって折れ曲がっていた。

反転した足。ウルテ・ペール。

その足は、歩いてはいなかった。足首の関節が動くこともなく、泥にまみれた皮膚が地面を踏みしめることもなく、まるで目に見えない糸で操られた操り人形のように、路面から数ミリ浮いた状態で、滑るようにして車のボンネットへと近づいてきていた。

第四章 模倣される体温

助手席のノートパソコンの画面が、狂乱の光を放ち始めた。

赤外線サーマルカメラのウィンドウ。外気温は摂氏十四度を示していた。画面全体は冷たい青と紫のグラデーションに沈んでいる。

しかし、フロントグリルの中央、わずか五十センチの場所に現れたその人型の熱源は、信じられない数値を叩き出していた。

マイナス二十度。

生物の熱反応ではなかった。それは、ドライアイスの塊をそのまま人間の形にくり抜いたかのような、絶対的な熱の欠落。周囲の熱エネルギーを貪欲に吸い込み、空間そのものを急速に凍結させていく暗黒の穴だった。

フロントガラスの表面に、パキパキと音を立てて微細な氷の結晶が走り始めた。熱帯のインドの夜において、ガラスの内側に結露した水分が、外からの局所的な冷気によって一瞬にして凍りついたのだ。

シュウウウ……。

ボンネットの鋼板が軋む音がした。怪異の手が、車の先端に触れたのだ。

塗装されたアルミニウムのパネルが、強酸を浴びせられたかのように白く濁り、霜が網目状に広がっていくのが見えた。

そして、その姿が、霧の中からゆっくりと立ち上がった。

女だった。ボロボロに引き裂かれた、かつては鮮やかだったはずの黄色のサリー。布地は泥炭とカビで黒ずみ、裾からは骨のように痩せ細った腕が垂れ下がっていた。

頭部には、油気のない長い黒髪が乱れ狂い、顔面の半分をカーテンのように覆い隠していた。

その髪の隙間から覗く、顔。

皮膚は引き攣れ、鼻梁の軟骨は削ぎ落とされ、黒ずんだ二つの鼻孔が直接露出していた。そして、その目だった。瞼がなく、見開かれたままの眼球。

その瞳には虹彩が存在せず、ただ白濁した水晶体の奥で、黄色い燐光のようなものが二つ、冷たく渦を巻いていた。

その目が、凍りついたフロントガラスを透過して、運転席に座るアルジュンの目を正確に捉えた。

カチ、カチ、カチ、カチ。

怪異の口元が、小刻みに震え始めた。耳の付け根まで裂けた唇の隙間から、黒く変色した歯が激しい速度で打ち合わされる音が響く。続いて、車載オーディオのスピーカーから、電源を切っていたはずのラジオのノイズがザザッと漏れ出した。

ノイズの底から、声が聞こえてきた。

『……あ・け・て……』

低く、擦れ切れたマラーティー語の声。しかし、その声のトーンは、一瞬ごとに変質していった。見知らぬ老婆の声から、アルジュンの母の声へ。そして、彼がプネーのオフィスに残してきた、同僚の女性エンジニアの流暢な英語へと。

『……Please……open the door……』

『……たすけて……寒いの……お腹が空いたの……』

声は感情を欠いたまま、ただ波形のパターンを機械的になぞるように反復されていた。人間の声帯の模倣。それは獲物を巣穴から誘い出すために、過去にこの山で命を落とした無数の遭難者たちの最後の言葉を、喉の奥で継ぎ接ぎして再生しているに過ぎなかった。

ドンッ!

フロントガラスの中央に、黒ずんだ手のひらが叩きつけられた。

強化合わせガラスが激しくたわみ、内側のフィルムに蜘蛛の巣状の白い亀裂が放射状に広がった。ガラスの内側に張り付いた氷の隙間から、女の顔が、わずか三十センチの至近距離まで迫っていた。

口の端から、腐敗した川魚の生臭い内臓の匂いと、古い土の匂いが混ざり合った濃密な気体が、エアコンのダクトの隙間をすり抜けて車内へと吹き込んできた。アルジュンの喉が痙攣し、強烈な吐き気が食道を駆け上がった。

女の反転した足が、ボンネットの上へと引き上げられた。骨が砕けるような、ゴキリ、という湿った破裂音。踵が前を向き、泥にまみれた爪先が後ろを向いた二本の足が、フロントガラスの傾斜に爪を立てるようにして張り付いた。

怪異の右手首が、不自然な角度で回転した。細長い指先が、運転席側のドアのゴムパッキンへと伸び、窓ガラスのわずかな隙間に爪をねじ込もうとしていた。

ギリ、ギリ、ギギギッ!

窓枠のモーターが悲鳴を上げ、ガラスが数ミリ、外側へ押し広げられた。車内の気温が、目に見える速度で急落していく。吐き出す息が真っ白になり、ステアリングを握るアルジュンの両手の皮膚が、急速に紫色の凍傷の斑点に覆われ始めた。

(入ってくる)

この強固な自動車という鉄の檻が、何の意味も持たないことをアルジュンは悟った。怪異は物理的な力で車を破壊しようとしているのではない。熱を、電気を、そして生命そのものを、この空間の隙間から貪り食おうとしているのだ。

手足の震えが止まらず、思考が白い霧の中に溶け落ちそうになる極限の混濁の中で、アルジュンの右手が、ダウンジャケットのポケットの奥底にある硬い異物に触れた。

あのポラドプールのダーバーの店主から渡された、真鍮の護符。そして、出発前に給油所の売店で何気なく買い、ダッシュボードのカップホルダーに放置していた、一本の使い捨てプラスチックライター。

アルジュンは凍りついた指先を叱咤し、護符とライターを握り締めた。護符の裏側には、ヒンドゥー教のハヌマーン神の神聖な武器——ガダー(棍棒)のレリーフが彫り込まれていた。

ハヌマーン。風の神の息子であり、あらゆる悪霊、幽鬼、そして夜の魔物を踏み砕く、絶対的な守護の神。

迷信を信じないはずの技術者の唇から、幼い頃に祖母から教え込まれた祈りの言葉が、電撃のように蘇った。

「ハヌマーン・チャーリーサー(ハヌマーン讃歌)」

アルジュンは目を固く閉じ、奥歯を噛み締めながら、腹の底から声を絞り出した。

「ブート・ピシャイチ・ニカト・ナヒーン・アーヴェイ(悪霊も悪鬼も、近づくことは叶わない)!」

彼の絶叫が、狭いキャビンの中に反響した。

「マハヴィール・ジャブ・ナーム・スナーヴェイ(偉大なる勇者の名を、唱える時には)!」

アルジュンはライターのホイールを親指で激しく擦った。チッ、チッ、ボッ! 黄色い炎が立ち上がった。彼は躊躇することなく、その炎の先端を、真鍮の護符の金属面へと直接押し当てた。

金属が瞬く間に熱を帯びる。彼は熱せられた真鍮の護符を、窓ガラスの隙間から侵入しかけていた、あの黒ずんだ女の指先に向かって、渾身の力で押し付けた。

ジュウウウウウッ!

猛烈な煙が上がった。人間の肉が焼ける匂いではなかった。それは、乾燥したトウガラシと硫黄を炭火にくべたような、息の詰まる激しい刺激臭だった。

ギャァァァァァァァッ!

車内ではなく、アルジュンの頭蓋骨の中心で、耳膜を突き破らんばかりの凄まじい絶叫が炸裂した。フロントガラスに張り付いていた女の全身が、まるで高圧電流を浴びせられたかのように激しく波打ち、跳ね上がった。

女の反転した足首が痙攣し、ガラスから剥ぎ取られるようにして後方へと吹き飛んだ。

ドスン、という重い音がアスファルトの上で響いた。

同時に、車内のすべての警告灯が一瞬にして消灯した。インパネの中央に、緑色のランプが再点灯する。「システム準備完了(READY)」

遮断されていた高電圧リレーが、パチンと乾いた金属音を立てて接続されたのだ。

アルジュンは迷うことなくシフトレバーを「D」に叩き込み、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。

ツインモーターが爆発的なトルクを放出し、四輪駆動のタイヤが赤土の混ざったアスファルトを激しく蹴り上げた。車体が前へと跳ね起きるように急発進する。

ヘッドライトの光の先端、霧の立ち込める路面の上に、倒れ込んでいた影が一瞬だけ映し出された。女は四つん這いになり、その反転した足首を異様な角度で曲げながら、猛烈な速度で道路の脇、深い谷底の茂みへと滑落していくところだった。

アルジュンは一度もバックミラーを見なかった。ワイパーが割れたガラスの上の氷をバリバリと削り落とす音を聞きながら、彼はただ、メーターの針が時速六十キロ、七十キロへと跳ね上がるのを凝視し、闇の峠道を駆け下り続けた。

第五章 ケッドの給油所

午前四時半、標高が下がり、カシェディ峠の曲がりくねった下り坂が終わりを告げた時、フロントガラスを覆っていた霧は嘘のように消え去っていた。

夜明け前の青白い大気の中に、ケッドの町の外れにある二十四時間営業の給油所が見えてきた。大型トラックが数台アイドリングを続け、蛍光灯の白い光が濡れたコンクリートの路面を明るく照らし出していた。

アルジュンはガソリンスタンドの洗車スペースに車を滑り込ませ、震える手でパーキングブレーキを引いた。エンジンを切ると、車内にはただ、自分自身の激しい喘ぎ声と、冷え切ったエアコンのダクトがパキパキと音を立てる微小な収縮音だけが残された。

彼はドアを開け、千鳥足で外へ出た。湿った生ぬるい海の風が全身を包み込み、凍りついていた皮膚の表面に、じわりと汗が戻ってきた。

「……おいおい、旦那。ひどい事故に遭ったみたいだな」

燃料ノズルを持った年配の整備士が、アルジュンの車を見て目を丸くしていた。

アルジュンは無言のまま、車の前方に回り込んだ。そして、その場に凍りついた。

フロントバンパーの樹脂製グリルには、何かが鋭利な爪で力任せに掴んだような、深い四本の引き裂き傷が刻まれていた。そして、割れかけたフロントガラスの助手席側。白く霜が降りたガラスの表面に、泥炭の黒い残滓とともに、くっきりと焼き付けられていた。

二つの、足跡。

それは、人間の足の形をしていたが、爪先の五本の指が下を向き、踵の丸い骨が上を向いた、完全な「逆さまの足跡」だった。ガラスの表面を拭き取ろうと指で擦ってみたが、その泥の跡は外側からではなく、まるでガラスの内部の合わせ目の層に直接焼き付けられたかのように、びくともしなかった。

整備士の男がアルジュンの横に立ち、その足跡を見つめた。男の表情から、仕事中の気だるさがスッと消え去った。男は何も言わず、作業着のポケットから小さな水差しを取り出し、車の四輪のタイヤの周りに、静かに水を撒いた。

「……カシェディだな」

整備士は低く、掠れた声で言った。

「若い衆、それ以上何も言うな。車を洗って、すぐに南へ走りなさい。太陽が完全に昇るまで、決して後ろを振り返っちゃいけないよ」

終章 プネーの乾いた風

二日後の夕方、アルジュンはプネーの自宅アパートのベランダに立っていた。

ヒンジワディの幹線道路を見下ろすと、夕方の帰宅ラッシュを迎えた無数の自動車のテールランプが、赤い光の川となってどこまでも連なっていた。クラクションの鋭い不協和音、建設現場の金属音、そして屋台から漂うスパイスの乾いた油煙の匂い。そこには、彼がよく知る、合理的で過密な二十一世紀のインドの日常が息づいていた。

部屋のデスクの上には、今回の走行試験のデータをバックアップした外付けハードディスクが置かれていた。

会社には「夜間走行中に野生の大型レイヨウ(ニルガイ)と衝突した」と報告書を提出し、車両のフロントガラスとバンパーの交換費用は試験予備費から処理された。テレメトリーのデータログから、あの数分間の異常なライダー点群のデータと、マイナス二十度を記録した熱カメラのフレームを削除することは、彼の権限で容易にできた。

しかし、アルジュンはデータを消去しなかった。その不可能な測定値のファイルは、彼個人の暗号化フォルダの奥深く、名もないバイナリデータとして今も保存されている。

ベランダのテーブルの上には、小さな白い陶器のカップに注がれた、淹れたてのチャイが置かれていた。湯気が夕暮れの乾いた風に揺れ、カルダモンの甘い香りが微かに鼻腔をくすぐる。

アルジュンはカップを手に取った。指先には、あの夜、熱せられた真鍮の護符を握りしめた際にできた、小さな火傷の痕が、薄茶色の丸い染みとなって今も残っていた。痛みはもうなかった。

彼は西の空を見上げた。街並みの彼方、夕闇に沈む西ガーツ山脈の青黒い稜線が、地平線を鋭く切り取っていた。あの尾根の向こう側、濃密な霧が渦巻く赤土の谷底で、今夜もまた、誰かがヘッドライトの光を頼りに、息を殺してアクセルを踏み込んでいるのだろうか。

アルジュンは温かいチャイを一口啜り、それからゆっくりと部屋の中へと戻ると、ベランダのガラス戸を静かに、音を立てずに閉めた。