序章 選炭場の薄明

午前五時を過ぎたばかりの谷底は、青黒いインクを水で溶いたような湿った薄明に沈んでいた。

基隆河の細い上流が、丸い川石を噛みながら低い水音を立てている。川沿いの斜面に張りつくように建てられた巨大なコンクリートの塊——かつて山から掘り出された石炭を大きさごとに篩い分け、貨車へ積み込んでいた選炭場の廃墟が、霧の底から、打ち捨てられた軍艦のように黒々とそびえていた。

林慧敏は、泥に足を取られながら、懐中電灯の細い光を足元へ走らせていた。

一晩じゅう降り続いた冷たい雨は止んでいたが、シダの生い茂る斜面からは絶え間なく滴が落ち、薄手のウインドブレーカーを芯まで濡らしていた。

呼び集められた十数人の集落の男たちが、竹竿やスコップを手に、二手に分かれて線路の向こうの雑木林を捜していた。黄色いゴム長靴が泥を跳ね上げる音と、台湾語で互いを呼び交わすしゃがれた声が、朝霧の奥へ吸い込まれていく。

「先生、こっちだ!」

前を歩いていた初老の男が、足を止めて叫んだ。

選炭場のホッパー——石炭を貨車へ落とし込むための、逆さのピラミッドのような巨大なコンクリートの漏斗の真下だった。

崩れ落ちた木の足場と、赤錆びた鉄板が散らばる窪地の中に、丸い塊があった。

慧敏は息を詰めて駆け寄った。

泥水の溜まったコンクリートの角に、十歳になる息子の宇が、横向きに丸まっていた。

泥で真っ黒になった半袖シャツに、擦り切れた短パン。履いていたはずのビニールサンダルは片方がなく、むき出しの細い足首には、野茨に引っかかれた赤い筋が何本も走っていた。

「宇! 宇!」

泥の中に膝をつき、慧敏は息子の肩を抱き起こした。

小さな身体は、骨の芯まで冷えきっていた。

だが、胸に耳を当てると、弱々しい、しかし規則正しい鼓動が、服越しに伝わってきた。

宇は目を閉じたまま、深い眠りの中にいた。

額に泥のついたその顔は、怯えに歪んでいるふうでもなく、ただ長い道を歩き通して力尽きた子供のように、唇を半ば開いていた。

「生きてる。息はあるぞ」

初老の男が安堵の息を漏らし、煙草を取り出した。

慧敏は震える腕で息子を抱きしめた。

ゆうべ、戸締まりをした教員宿舎から、忽然と姿を消した息子。

玄関の太いかんぬきも、真鍮の掛け金も、内側から掛かったままだった。

それなのに、息子は夜の向こうへ消え、集落から一キロ以上も離れた、誰も近づかない廃墟の底で、こうして冷たい泥にまみれて横たわっていた。

少年の右手が、固く握りしめられていた。

慧敏が指を一本ずつ解いていくと、泥に汚れた小さな手のひらから、何かがぽろりとこぼれ落ちた。

石炭の粉ではなかった。

湿気を吸ってふやけた、数センチほどの、黄色い紙の燃えさしのような切れ端だった。

第一章 線路の終わる谷

林慧敏が、台北市内の小学校から、この山あいの集落の小さな分校へ移ってきたのは、一九九一年の八月の終わり、新学期が始まる直前のことだった。

夫を病気で亡くし、頼れる親類も少なかった彼女にとって、台北県平渓郷の分校への赴任は、都会の家賃と喧騒から逃れるための、やむをえない選択だった。

台北から列車に揺られ、瑞芳で平渓線のディーゼルカーに乗り換える。

列車が渓谷の深い緑の中へ分け入るにつれ、窓の外の景色は色を変えていった。

両側から迫る切り立った崖、岩肌を覆う巨大な木生シダ、そして蛇行する基隆河の茶色い流れ。

かつて石炭で栄え、大勢の炭鉱夫とその家族がひしめいていた谷は、一九八〇年代に相次いだ炭鉱事故と、安い輸入炭に押されて、急速に息を潜めつつあった。

終点の菁桐駅に着くと、線路の脇には選炭場の黒い建物が横たわり、錆びたレールの間には雑草が伸びていた。

通りには日本統治時代に建てられた木造の長屋が並び、軒下には古い自転車や、使われなくなった道具が立てかけられていた。

集落を歩く老人たちの手の甲には、長年の坑内の仕事で染み込んだ炭の粉が、青黒い斑点になって残っていた。

慧敏たちが暮らすことになったのは、分校の講堂の裏手に建つ、トタン屋根の教員宿舎だった。

四畳半ほどの板の間が二つと、小さな土間の台所。

壁は薄い板張りで、夜になると裏山から吹き下ろす湿った風が、隙間という隙間を鳴らして通り抜けた。

小学四年生になったばかりの宇は、この暮らしの変化に戸惑っていた。

台北のコンクリートのアパートで育った少年は、父親が亡くなる前に買ってくれたゲームボーイを肌身離さず持ち歩き、白黒の小さな画面の中で落ちてくるブロックを消すことだけに没頭していた。

「外で遊んでいらっしゃい。近所の子たちが線路のところでメンコをしているわよ」

慧敏がそう声をかけても、宇は膝を抱えたまま、小さなボタンをかちかちと押し続けるだけだった。

「言葉が通じないんだ」

ある夕方、宇がぼそりと言った。

集落の子供たちは、教室を一歩出ると、荒っぽい台湾語で喚き合いながら野山を駆け回っていた。

台北育ちの宇が話すのは、教科書どおりの国語だった。

外省人の家で育った慧敏自身、台湾語をある程度は聞き取れても、自分の口から自然な抑揚で返すことはできなかった。

校庭で地元の子供たちが車座になって笑っている輪の端に、宇はいつも一人、ポケットに手を入れて立っていた。

子供たちのあいだには、大人たちから厳しく言い渡された、この土地ならではの決まりごとがいくつかあった。

一つは、大雨の翌日、増水した基隆河の甌穴——川底の岩に水がうがった丸い穴——に近づかないこと。足を滑らせれば、水底の空洞に吸い込まれて浮かんでこないからだ。

もう一つは、山陰の竹藪の奥にある古い石の祠の裏へ、日が暮れてから入らないこと。そこには「魔神仔(モーシンアー)」と呼ばれる小さな山の精が棲んでいて、魅入られた者は口や耳に泥や虫を詰められ、正気を失ったまま山の中を連れ回されると言われていた。

そして最後の一つが、裏山の奥に口を開けている、渓山二坑の廃坑口だった。

「あそこの格子に触るな」

分校の用務員をしている呉老人は、錆びた草刈り鎌を砥石で研ぎながら、放課後の校庭で子供たちに言い聞かせていた。

「坑口に貼ってある黄色い紙は、お札だ。山の中で命を落とした好兄弟——祀ってくれる者のいない仏さんたちが外へ迷い出てこないように、法師様が朱で封じたものだ。あれを剥がしたり破ったりした奴は、暗いところへ引っ張っていかれて、ずっと炭車を押すことになるぞ」

呉老人の右手は、人差し指と中指の先が欠けていた。若い頃、坑内の落盤で挟まれたのだという。

その欠けた指が示す裏山の深い谷間を、宇は遠くからじっと見つめていた。

緑の葉が絡み合う斜面の裂け目に、黒い四角い穴が、開いたままの傷口のように見え隠れしていた。

第二章 渓山二坑の度胸試し

事が起きたのは、十月の初め、蒸し暑い南風が吹き返した土曜日の午後だった。

授業は午前中で終わり、慧敏は職員室で、翌月の指導計画を書いていた。

宇は一人で宿舎に戻り、昼食の冷めた肉まんをかじっていた。

そこへ、引き戸を叩く音がした。

開けると、校庭でいつも威張っている五年生の阿発が、子分格の二人を従えて立っていた。

阿発の足には泥がこびりつき、手には細い竹の棒が握られていた。

「おい、台北の」

阿発は、わざとぎこちない国語で声をかけてきた。

「お前、仲間に入りたいんだろ。ゲームばっかりやってないで、ついてこいよ」

宇は息を呑んだ。

警戒よりも、一人きりの輪の端から抜け出したい気持ちが勝った。宇はゲームボーイをポケットに押し込み、サンダルをつっかけて外へ出た。

少年たちが向かったのは、川沿いに打ち捨てられたトロッコの軌道だった。

枕木の間から背丈ほどのススキが伸び、赤錆びたレールは途中で崖崩れに巻き込まれて宙に浮いていた。

子供たちはススキを掻き分け、山肌を這い上がるようにして、薄暗い沢沿いの踏み分け道を進んでいった。

空気が急に冷えていくのを、宇は肌で感じていた。

谷の奥へ入るにつれて川の音は遠のき、頭上を覆うヘゴやクワズイモの大きな葉が、日の光をすっかり遮った。

地面は湿った腐葉土と、かつて炭車からこぼれ落ちた石炭のかけらで、ねっとりと黒く光っていた。

やがて、岩壁を切り開いた場所に、それが現れた。

渓山二坑の坑口だった。

厚いコンクリートで固めた半円形のアーチは、長年の湿気で黒い黴と苔に覆われ、口には太い鉄筋を格子に組んだ扉が嵌め込まれていた。

扉は太い鎖と大きな南京錠で閉ざされていた。

格子の向こうは、まったくの闇だった。

手をかざすと、地の底から吹き上がってくるような冷たい空気が、生ぬるい外の空気に向かって絶え間なく吐き出されていた。濡れた岩の匂いと、古い機械油のような匂いが鼻を突いた。

その鉄格子の真ん中、大人の胸の高さの鉄棒に、一枚の紙が貼りつけてあった。

縦が三十センチ、横が十センチほど。

かつては鮮やかな黄色だったはずの紙は、長い年月の雨と坑口からの湿気でくすんだ土色に変わり、朱で書かれた複雑な符の文字は、雨に滲んで半ば消えかけていた。

紙の四隅はもう千切れかけていて、湿った風が吹き抜けるたびに、ぱたぱたと弱々しく震えていた。

「これだよ」

阿発が竹の棒で、その黄色い紙を指した。

「呉の爺さんが言ってたろ。これに触ったら手が腐るってな。嘘に決まってる。度胸試しだ。あそこまで行って、あの紙に触って戻ってきたら、お前を俺たちの秘密基地に入れてやる」

二人の子分が、薄笑いを浮かべて宇の背中を押した。

「台北の坊ちゃんには無理か。怖がりだもんな」

宇の胸の中で、何かが弾けた。

都会者と見下され、言葉が通じないと笑われ続けたひと月分の悔しさが、少年の頭の中を塗り潰した。

「……触ればいいんだろ」

宇は前へ出た。

足元の濡れた炭の粉が、サンダルの底でぐしゃりと鳴った。

坑口に近づくにつれて、吐き出される冷気が強くなり、腕の産毛が逆立った。

耳の奥で、きいん、と細い風鳴りが聞こえていた。

宇は鉄格子の前に立った。

格子の奥の闇は、光を吸い込む底なしの井戸のように深かった。

その闇の中から、大勢の誰かが、じっと息を殺してこちらを見上げているような気配があった。

宇は唾を飲み込み、震える右手を伸ばした。

触るだけでいい。指先をかすめれば、それで終わりだ。

少年の指が、風化して繊維の浮いた黄色い紙の端に触れた。

その瞬間だった。

坑道の奥から、突風のような冷たい息が噴き出した。

湿って脆くなっていた紙は、指先のわずかな力にも耐えられず、ぱしっ、と小さな音を立てて、真ん中から裂けた。

上半分は鉄格子に張りついたまま残り、朱の文字が書かれた下半分は、千切れて宇の足元へひらひらと舞い落ちた。

黒い泥水の上に落ちた紙片は、墨を吸うように、たちまち泥の色に染まった。

静けさが訪れた。

谷の奥の鳥の声も、風の音も、ふっと途絶えた。

振り返ると、阿発たちの顔から血の気が引いていた。

少年たちは口を開けたまま固まり、誰も何も言わなかった。

次の瞬間、阿発が短い声を上げて、坂道を駆け下りていった。

あとの二人も、転がるようにその後を追った。

宇は一人、坑口の前に取り残された。

足元では、裂けた紙の切れ端が泥に濡れていた。

胸が早鐘のように打っていた。

大人の言いつけを破ってしまった。

宇は震える手で泥の中から紙片を拾い、どうにか元の場所に戻そうとしたが、千切れた紙は指先でぐずぐずに崩れるばかりだった。

格子の向こうの闇の奥で、何かが低く、ざわめいたような気がした。

宇は紙の切れ端を短パンのポケットに押し込むと、振り返りもせず、転がるように山道を駆け下りた。

第三章 戸締まりの夜

その夜、平渓の山あいは激しい雷雨に見舞われた。

トタン屋根を叩く雨音はすさまじく、空から無数の小石を浴びせられているようだった。

慧敏が夕食の支度を終えたとき、宇はもう布団に潜り込んでいた。

「ご飯よ、宇。大根のスープを作ったわ」

声をかけても、宇は毛布を頭から被ったまま、小さく身を縮めていた。

「頭が痛い。いらない」

額に手を当てると、熱はなかったが、肌がひどく冷たく湿っていた。

風邪をひいたのだろうと思い、慧敏は薬を飲ませ、布団をしっかり掛けて寝かせた。

夜九時を回ると、雨はさらに強くなった。

裏山から雨水が滝のように流れ落ち、宿舎のまわりの側溝を茶色い濁流が埋めていた。

停電した。

電球のフィラメントが一瞬赤く瞬き、次の瞬間、あたりはまったくの闇に沈んだ。

慧敏は引き出しから赤い蝋燭を出して火を灯し、食卓の上に置いた。

小さな炎が揺れるたびに、板壁に伸びた影も揺れた。

慧敏は玄関の戸締まりを確かめた。

重い木の引き戸には、太い角材のかんぬきがしっかり差し込んである。

内側の真鍮の掛け金も降ろし、南京錠も掛けた。

外から誰かが入ることも、中から子供が抜け出すこともできないはずだった。

慧敏は宇の寝顔を確かめ、その隣に自分の布団を敷いて横になった。

雨音があまりに激しく、耳を直接押さえつけられているようだった。

風の唸りに混じって、ときおり遠くの山肌で何かが崩れるような、ずずず、という鈍い地鳴りが響いた。

深夜一時過ぎ。

慧敏は、ふいに目を覚ました。

雨の音が止んでいた。

あれほど屋根を叩いていた雨が、嘘のように引いていた。

だが、静けさが戻ったわけではなかった。

部屋の中に、信じられないほどの冷たさが満ちていた。

十月の台湾ではありえない、氷室の扉を開け放ったような、刺すような冷気だった。

息を吐くと、暗闇の中で白く濁るのが分かった。

慧敏は隣の布団へ手を伸ばした。

指先に触れたのは、冷えきった薄いシーツだけだった。

「……宇?」

返事はなかった。

飛び起きて、蝋燭にマッチを擦った。

小さな炎が照らした部屋には、慧敏しかいなかった。

宇の布団には、誰かが寝ていた形のまま、冷たい窪みだけが残っていた。

枕元に脱いであった半袖シャツと短パンも、なくなっていた。

「宇! どこにいるの!」

土間へ駆け出したが、そこにも誰もいなかった。

玄関を見た慧敏は、凍りついた。

太い木のかんぬきは、受け木に差し込まれたままだった。

真鍮の掛け金も、南京錠も、内側から掛かったままだった。

戸締まりをした家の中から、十歳の子供が、煙のように消えていた。

慧敏は震える手でかんぬきを外し、夜の中へ飛び出した。

ぬかるんだ坂道を駆け下り、呉老人の住む宿直室の扉を、狂ったように叩いた。

「宇が! 宇がいなくなったの! どこにもいないの!」

呉老人は飛び起き、慧敏の青ざめた顔を見るなり、裏山の稜線を見上げた。

「……まさか、あそこか」

老人は集落の事務所へ走り、拡声器で呼びかけた。深夜の谷あいに、割れた声が響き渡り、やがて家々に明かりが灯った。

傘を差し、雨合羽を羽織った男たちが、懐中電灯を手に次々と集まってきた。

その中に、母親の後ろに隠れるようにして震えている少年がいた。

阿発だった。

阿発は蒼白な顔で父親の腕にしがみつき、途切れ途切れに叫んだ。

「……破ったんだ! あいつ、昼間に坑口のお札を破っちゃったんだよ!」

その言葉を聞いた瞬間、集落の古老たちの顔から、表情が消えた。

「渓山二坑か」

呉老人の声が低く沈んだ。

「すぐに山へ入れ。夜が明ける前に見つけなきゃならん」

二十人を超える捜索隊ができた。

男たちは二手に分かれ、一隊は裏山の廃坑口へ、もう一隊は線路沿いの廃墟へと散っていった。

慧敏も泥にまみれながら、夜の山を駆け回った。

草を掻き分け、岩陰を覗き込み、喉が裂けるほど息子の名を呼び続けた。

だが、返ってくるのは基隆河の濁流の音と、雨上がりの冷たい風の音だけだった。

第四章 石の下の語らい

明け方、選炭場のホッパーの底で見つかった宇は、すぐに宿舎へ運び込まれた。

熱い生姜湯を少しずつ飲ませ、何枚も毛布を重ねると、青ざめていた頬に、ようやくかすかな血の色が戻ってきた。

けがは足首の擦り傷だけだった。

集落の診療所の医師が診て、ひどい疲れと体の冷えで、深く眠り込んでいるのだろうと言った。

昼過ぎ、集落の廟から法師が呼ばれた。

黄色い道服をまとった年老いた法師は、弟子を一人連れて、裏山の坑口へ登っていった。

慧敏も、呉老人に促されて、その後に続いた。

坑口の前には、話を聞きつけた集落の人たちが、遠巻きに集まっていた。

儀式は、映画で見るような派手なものではなかった。

法師は坑口の前に線香を三本立て、素焼きの鉢の中で紙銭を燃やし、低い声で経を唱えた。

それから、朱を溶いた墨に筆を浸し、新しい黄色い紙に、素早く符を書き上げた。

破れ残っていた古い符の残りを削り落とし、新しい符を、鉄格子の真ん中にしっかりと貼りつけた。

最後に、持ってきた米酒を地面に一筋撒き、坑口の闇に向かって短く一礼した。それだけだった。

「これで、大丈夫なんでしょうか」

慧敏が尋ねると、法師は道具を布に包みながら、静かに首を横に振った。

「山を鎮めたわけではない。破れたところを塞いだだけだ。あの子が戻ってきたのは、向こうが返す気になったからだろう」

法師はそれだけ言うと、弟子とともに山を下りていった。

その日の夕暮れ、明かりを落とした部屋で、宇がようやく目を覚ました。

少年はゆっくりと瞼を開け、枕元に座っていた慧敏の手を、小さな指で握り返した。

「……お母さん」

乾いた、掠れた声だった。

「宇! 気がついたのね。どこか痛いところはある?」

慧敏が涙をこぼしながら抱きしめると、宇は弱々しく首を振った。

そして、母親の顔をじっと見つめながら、ためらうように小さな声で言った。

「お母さん……怒らない?」

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