序章 保定の凶屋と、名利の始まり

神仏の加護を籠めた「開光」の符や法具というものは、世人が考えるほど安易な現世利益の道具ではない。寺院の門前で数珠や護符を買い求めさえすれば、厄災を都合よく払い落とせる万能の盾になる——そう信じる人は少なくない。

だが信仰の論理において、それは盾であると同時に、自らの内に巣食う穢れや因縁を白日のもとへ炙り出す、無慈悲な鏡として語られることもある。

この世の理を踏み外した「蛇妖の索命」の一件に私が巻き込まれたのは、今から五、六年ほど前のことであった。

当時、私は河北省保定市にある、界隈では知られた凶宅に居を構えていた。日中は庭の花を愛で、数匹の猫に餌をやり、道教の故事に通じた奇人・谷師父と茶を啜る。夜は読者の集まりで、青銅の鏃や古い金剛杵、埃を被った法印を披露しながら筆を執っていた。

その読者群には、高校生の頃から私の著書『黄河古道』を読み続けてくれた、義理堅い青年がいた。実家は裕福で、徳州扒鶏を十数羽も送ってきたり、氷詰めの大きな伊勢海老を届けてくれたりした。

あまりの歓待に恐縮した私は、上海の古刹で僧侶の読経を受けた護身符を数枚、返礼として彼に贈った。その一枚が、広西の密林に埋もれた血塗られた記憶を呼び覚ますとは、その時は知る由もなかった。

第一章 高炉の微睡みと、解ける結び目

青年には、広西チワン族自治区の山間部で鉄鉱石の採掘と製鉄プラントを手広く経営する叔父がいた。事業は成功していたが、その豪奢な生活の裏で、叔父は長年、正体不明の悪夢に苛まれていた。

叔父は自宅の寝室では眠れなかった。柔らかな寝台へ横たわり、瞼を閉じた瞬間に、全身を冷汗で濡らす同じ夢が始まるからである。

辛うじて仮眠を取れる唯一の場所は、轟音と火花が飛び散る製鉄所の敷地内だった。溶鉱炉の熱気、溶接工と運搬員の怒号、煤煙に塗れたプレハブ。その簡易ベッドへ倒れ込んで初めて、数時間の浅い眠りを得られた。

「製鉄所の熱と人いきれが、陰気を寄せ付けないのだ」

叔父はそう言い聞かせていた。青年はただならぬ憔悴を見かね、私から受け取った護身符を広西へ送った。

敬虔な仏教徒ではなかった叔父も、甥の心遣いを無下にはできない。「気休めのお守りだろう」と笑い、朱色の紐を首へ掛けた。

異変は、護符が胸元へ触れた瞬間に生じた。

全身の毛穴が逆立ち、息が詰まるほどの胸苦しさが襲った。紐は生きた鋼線のように喉仏を締め上げ、皮膚には無数の針を突き立てられたような熱い痛みが走った。

叔父が慌てて護符を外すと、不快感は潮が引くように消えた。汗でかぶれただけだと思い、湯を浴びて掛け直した。

数分後、カチャリと乾いた音がした。護符が絨毯の上へ転がっていた。頑丈だったはずの結び目が、綺麗に解けている。

叔父は今度こそ外れぬよう紐を固く二重に結んだ。だが、また数分と経たず護符は落ちた。結び目は最初から結ばれていなかったかのように、完全にほどけていた。

三度目、叔父は居間の革張りのソファへ腰を下ろし、正面の姿見に映る胸元を監視した。テレビを見るふりをしながら、鏡の端へ意識を集中させた。

やがて赤い結び目が、小刻みに蠢き始めた。目に見えない指が隙間へ爪を差し込み、ゆっくり、丁寧に糸をほぐしているかのようだった。最後の輪が抜けると、護符は床へ落ちた。

叔父は震える手で携帯電話を構え、その光景を動画に収めた。映像には、衣擦れとも鱗の摩擦ともつかぬ、かすかな音まで残っていた。

第二章 谷師父の喝破と、北斗七星の結界

その夜、製鉄所へ逃げ帰った叔父から動画を受け取った青年は、深夜二時の保定へ電話を寄こした。

「先生、あの護符は本当に大丈夫なんですか。商売敵が叔父を呪うため、何かを仕込んだのではありませんか」

木枯らしが吹き、古い窓ガラスが鳴っていた。映像を再生した瞬間、私の指先は凍りついた。結び目は確かに意思を持つ蛇のように動いていた。

私は階下の別棟に住む谷師父の扉を叩いた。師父は動画を一瞥すると、鼻で笑った。

「名刹で正しく祈念された法具に、誰かの呪詛が混じったと決めつけるな。問題があるとすれば、護符よりその男のほうだ」

「叔父の身体に、ですか」

「清浄なものへ触れて苦しむというなら、男の内に相容れぬ何かがある——少なくとも、この映像はそういう怪談の型を示しておる。取り憑いたものが護符を嫌い、外そうとしているのだとすれば、放置はできん」

谷師父は紙へ星の配置を描いた。七枚の護符を北斗の形に置き、寝室の周囲へ結界を作る。最初に送った一枚は男自身が胸元に抱く。七星と、その中心に籠もる者を守る一符——合計八枚という指示だった。

私は上海へ連絡し、追加の七枚を手配した。叔父は師父の示した方角に従って寝室へ七つを配し、残る一枚を胸に抱いて横たわった。

鏡の中の結び目は、もはや動かなかった。叔父は十数年ぶりに、工場の騒音のない自宅で朝まで眠った。

翌朝、叔父は涙を流し、「あの作家先生は、どこの高名な道士なのだ」と青年へ尋ねたという。だが谷師父の顔は険しいままだった。

「七星の陣は籠城に過ぎん。夢の正体を聞き出せ。男が背負っているものを知らねば、いずれ陣は破られる」

第三章 破四旧の炎と、煙突の底の蛇窟

青年に促され、叔父がようやく語った告白は、半世紀前、文化大革命初期の狂乱へ遡った。

一九六〇年代後半、十代だった叔父は、地元の造反派の若者たちに加わっていた。「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を打破せよ」という標語のもと、祠堂や仏閣、墓や古物が次々と壊された時代である。

彼らが目を付けたのは、村外れの森にある小さな「小龍廟」だった。清代から村人の信仰を集めたと伝えられ、中央には太い黒蛇を象った神像が置かれていた。村人はそれを土地と水を守る存在として祀っていた。

叔父は鉄棒と鶴嘴を手に、仲間を率いて廟へ押しかけた。老人たちは門前に跪き、地面へ額を打ち付けた。

「ここだけは壊してはならん。本物の主が眠っておられる。手を出せば、村へ災いが返る」

革命の熱に酔う若者には、それが封建迷信の哀れな命乞いにしか聞こえなかった。叔父は老人を突き退け、大槌で黒蛇の石像を砕いた。

神座の亀裂から、シュー、シューという威嚇音が湧いた。台座の隙間から腕ほどの太さの黒蛇が何十匹も溢れ、赤黒い舌を出して足元を覆った。

同行者は後ずさりした。だが引くに引けなくなった叔父は、鶴嘴をさらに深く叩き込んだ。割れた石板の下に、水瓶ほどの竪穴が口を開けた。

真夏にもかかわらず冷気が吹き上がり、側壁には数え切れない蛇が折り重なっていた。何代にもわたり棲み続けた、本物の蛇窟だったのである。

「油を持ってこい。硫黄も入れろ」

数杯の油と硫黄粉末が穴へ注がれ、松明が投げ込まれた。青黒い火柱が地鳴りとともに立ち上がった。

洞穴の底から、赤子の泣き声にも似た金切り声が何時間も響いた。肉の焦げる臭い、脂の爆ぜる音。焼け爛れた蛇が火をまとって這い出し、土の上でのたうった。小龍廟は灰燼に帰した。

「若い頃は、何とも思っていなかった」

電話の向こうで叔父は震えていた。五十を過ぎて事業が軌道に乗った頃から、毎晩、同じ夢を見るようになった。

夢の中で彼は冷たい蛇窟に立っている。足元には骨が転がり、頭上と壁の隙間から蛇が雨のように落ちてくる。その最後に、焼け焦げた巨大な黒蛇が足首から這い上がる。

黒蛇は年を追うごとに巻き付く位置を上げた。最初は踝、数年後には膝、近頃では腰を幾重にも締め上げていた。蛇が締めるたび現実の心臓まで圧迫され、窒息の痛みで目を覚ました。だから高炉のそばでしか眠れなかった。

谷師父は冷たく息を吐いた。

「鱗あるものは怨みを忘れぬ——そう戒める口伝がある。蛇が腰を越え、胸へ届けば命脈が尽きる、ともな。真偽はともかく、男自身がそう信じ切っている以上、夢はすでに肉体を食い始めておる」

「根本から解く方法はありませんか」

「神像を砕き、棲み処を焼いた。その罪を、術だけで無かったことにはできん。過去のどこかで結んだ善縁が残っているか——あとはそれに懸けるしかない」

第四章 上海の怪僧と、「膿血の災」

七星の配置によって束の間の平穏を得てから数か月後、叔父は業務のため上海へ飛んだ。面会したのは中央で要職を務める同郷の高官で、遠い血縁もあり、長く親交があった。

公務を終え、手土産を持って私邸を訪れると、高官の母が仏間で法要を営んでいた。叔父と入れ違いに、一人の老僧が玄関へ向かうところだった。

すれ違いざま、老僧は足を止めた。埃を被ったような灰色の瞳で叔父を見据え、静かに言った。

「施主よ。貴殿と私には、過去に結ばれた微かな縁がある。それゆえ一言、告げねばならぬ」

叔父が怪訝な顔をすると、老僧は眉一つ動かさなかった。

「近日、貴殿には骨肉を裂く『膿血の災』が訪れる」

室内が凍りついた。祝いの法要が終わった席で、客へ死の予言を告げたのである。金を巻き上げるペテン師なら、このあと高価な札を売りつけるところだろう。

だが老僧は粗末な袖から、濁った小さな玉仏を一つ取り出した。彫りも粗く、露店に並んでいても誰も振り返らないような品だった。

「この先七日、夜には外へ出るな。どうしても出ねばならぬ時だけ、これを肌身離さず掛けておけ」

「七日を過ぎたあとは、どうすれば」

老僧は深く頭を垂れた。

「七日ののちには、もはや何も残っておらぬよ」

それだけを残し、振り返らずに屋敷を去った。叔父は玉仏を首に掛け、上海の宿舎へ籠もった。日が沈んでからの外出を断ち、一日、二日と数え、ついに第七日を迎えた。

第五章 激突の夜——身代わりの粉塵

第七日の午後、高官から急な連絡が入り、経済会合へ呼ばれた。終了予定は午後五時。日没前には戻れる計算だった。

しかし会合後、実業家を次々と紹介され、挨拶と乾杯を重ねるうち、時計は午後七時を回った。建物を出ると、街はすでに夜だった。

「まずい。今日が最後の日だ」

叔父は運転手を待たず、自ら車を走らせた。郊外の暗い幹線道路を、宿舎へ向かって急いだ。

農村の入口へ差しかかった時、脇道から錆びた実用自転車が飛び出した。老人が跨がり、荷台には二、三歳ほどの幼子がいた。

速度は時速六十キロを超えていた。叔父はブレーキを踏み、ハンドルを切った。金属の砕ける音が夜気を裂いた。車の前部はへこみ、自転車は麻花のように捩れて路上へ転がった。

叔父は額をハンドルへ打ちつけ、動けなくなった。老僧の言葉が木霊した。膿血の災。外では老人と子供が血肉になっている——そう思うだけで胃液が込み上げた。

地元の友人へ電話すると、「救急と警察を呼べ。人が集まるまで車から出るな」と怒鳴られた。叔父は震えながら通報した。

やがて警察と救急車が到着した。窓を叩かれ、叔父は泣きながら両手を差し出した。

「私が殺しました。二人を轢きました」

警官は怪訝そうに眉をひそめた。

「何を言っている。降りて相手と話をしろ」

路肩では、撥ね飛ばされたはずの老人が腰へ手を当て、叔父に怒号を浴びせていた。その傍らで幼子が泣いている。二人とも検査は必要だったが、目立つ出血も骨折もなかった。

事情聴取を終えて車へ戻った叔父は、胸元の重みが消えていることに気づいた。座席の下、埃まみれのマットに赤い紐が落ちていた。

その先に玉仏の形はなかった。米粒ほどの細片と白い粉へ、石臼で挽かれたように砕けていた。

「七日ののちには、もはや何も残っておらぬよ」

老僧の言葉の意味を、叔父はそこで初めて理解したという。翡翠や軟玉が衝撃で割れること自体は不思議ではない。それでも叔父にとって、その粉は災厄を代わりに受けたものとしか思えなかった。

第六章 雲水僧の行方と、五十万の読者名簿

翌朝、叔父は線香と布施を抱え、老僧が滞在していたという上海近郊の山寺へ向かった。

山門へ続く石段の麓では、一人の小沙弥が待っていた。叔父の顔を見るなり合掌した。

「師父は昨夜、寺を去られました。貴殿が来ることは承知しておられ、言づてを残しています」

「何と」

「『施主よ、この世における貴殿との縁は、これで尽きた。二度と相見えることはない』と」

叔父は石段の下へ崩れ落ちた。その後に調べても、老僧の素性は分からなかった。寺の所属僧ではなく、半年前からふらりと現れて座禅を組んでいた雲水だった。名も本籍も、どこの寺から来たかも、誰も知らなかった。

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