序章 柑橘の眩暈と、帝都の相法師

中国の伝統的な術数において、人の吉凶禍福を読む方法は数多い。だが、風水や八字は土地と人生を理解する文化的な体系であって、病気の診断や歴史上の因果を証明する科学ではない。

数年前、過労のさなかに激しい動悸と目眩を覚えた私は、病院で検査を受けた。緊急性のある疾患は見つからなかったものの、医師は睡眠、食事、血糖を含む経過観察を勧めた。私は毎日大量の柑橘を食べていたことにも気づき、摂取量と生活を整えるうちに症状は軽くなった。

完整な果物の糖を清涼飲料の糖と同一視することはできず、一つの食品だけを原因と断定もできない。胸痛、失神、強い動悸がある場合は、民間療法や占いではなく医療機関へ相談すべきである。

この顛末を会員向けの文章に記したところ、旧知の風水研究家・老黄を紹介してほしいという声が相次いだ。老黄は相談料も法具の販売も受けず、墓制や家族史を読み解く文化相談としてのみ助言していた。

私はその意図を確かめるため、北京郊外にある彼の埃っぽい事務所を訪ねた。

茶卓を挟んで老黄の向かいに座っていたのは、仕立ての良いリネンのシャツを身に纏い、白髪を綺麗に撫で付けた、品格ある初老の紳士であった。

「おお、魚先生。ちょうど良いところに来た」

老黄は私を引き留め、紳士を張先生と紹介した。

「この方の師系は、海峡の東岸へ渡った江氏一族の墓所を、三代にわたって見守ってきたという」

江氏——近代中国の動乱に乗じて南方に政権を築き、のちに内戦に敗れて海峡の島へ渡った軍政家族。その栄光と没落の背後に祖墳の風水があったという話は、史書には存在しない。だが張先生は、師から受け継いだ私記として、静かに語り始めた。

第一章 革命の策士と、西翠屏山の「佛臍穴」

「老江家の風水師」——その響きは、近代中華の興亡を知る者にとって、背筋に冷水を浴びせられるほどの歴史的重量を持っている。

辛亥革命の烽火から軍閥割拠の乱世を駆け抜け、やがて南京に南方政府を打ち立てて中華民国の頂点に君臨した主席・江瑞元。その一族の栄華と、海峡を越えた敗走、そして第三世代に至る不可解な早世の連鎖の背後には、常に国家最高機密として秘匿され続けた「祖墳風水」の影が横たわっていた。

私は姿勢を正し、その海峡東岸の風水師——張(ジャン)先生に向かって礼を尽くした。

「張先生、失礼をお許しください。しかし、あなたのご年齢から拝見するに、大陸におられた頃の江主席の祖墳を直接見立てられたわけではありますまい」

張先生は穏やかな笑みを湛え、白磁の茶杯を指先で回しながら首を横に振った。

「その通りです。江家の先祖の墓所を定めたのは、私の師公(師父の師父)にあたる人物でした。……そして師公は、単なる民間の風水師などではありませんでした」

張先生が語り始めた師公の素性は、私の想像を絶するものであった。

師公は清末の南方の新式軍官学校を優秀な成績で卒業した生粋のエリート軍人であり、革命派の領袖の知遇を得てその秘書官を務め、のちには地方政府の軍政長官の要職に就いて旧軍の首領との軍事交渉や財政官僚との財政協議の最前線に立った、正真正銘の「革命の元勲」であったという。

文武両道の英傑であった師公は、幼少の頃に山中で隠遁道士から地理風水の秘術——「尋龍点穴」の奥義を授かっていた。だが、革命後の泥沼のような権力闘争と腐敗に深く失望した師公は、壮年期にして一切の官位を投げ打ち、紫金山の山裾に隠棲して山水を友とする生活に入っていた。

一九二三年の初夏、失意の底にあった若き日の江瑞元が、その師公の隠棲先を訪れた。

当時、江瑞元は広東の地方軍において参謀長の任にあったが、派閥争いに敗れて軍を追われ、野に下っていた。まさに人生の暗雲が立ち込めていたその時、追い打ちをかけるように、彼が生涯で最も深く愛し、崇敬していた実母・沈采蘭(しん・さいらん)が、病のために六十歳に満たぬ若さで息を引き取ったのである。

悲嘆に暮れる江瑞元は、母のために天下無双の吉相の地を見つけ出し、手厚く葬ることで冥福を祈りたいと渇望していた。彼は師公の手を取り、自らの故郷である浙江省雲渓県青渓へと懇願して連れ帰ったのである。

四方を険しい山々に囲まれた青渓の地を踏んだ師公は、真鍮の羅盤を手に、白岩山から連なる山脈の龍脈(尾根の気の流れ)を数日間にわたって踏査した。

そして、青渓鎮の北西に位置する「西翠屏山(せイスいへいざん)」の魚鱗坳(ぎょりんおう)と呼ばれるなだらかな山肌に立った瞬間、師公は足を止め、感嘆の息を漏らした。

「見事な気脈だ。……あの山容を見よ。まるで一尊の巨大な弥勒仏が、大地にゆったりと横たわっている姿そのものではないか」

師公が指し示した山肌の中央には、周囲の稜線から一段高く盛り上がった、直径数十メートルほどの円形の平坦な台地が存在していた。

それは恰も、慈悲深き仏陀の腹部の中央——「臍(へそ)」の窪みのように見えた。風水学において「佛臍穴(ぶっさいけつ)」と呼ばれる、極めて希少な貴穴であった。

「この地は四方を巡る青龍と白虎の山襞が完璧に風を遮り、前方には鏡のように澄んだ小川が玉帯となって蛇行している。気の散逸がなく、地中に凝縮された生気は尽きることがない。ここに塚を築き、母君の亡骸を納める円形の土饅頭を据えよ。

先祖の霊魂は永劫に仏の腹中に抱かれ、その龍脈の余慶を吸い上げた子孫からは、必ずや万民の上に君臨する『龍子龍孫』——天下の覇王が誕生するであろう」

江瑞元はその神託に震える手で合掌し、涙を流して感謝したという。

当時、彼は科学主義を標榜する近代軍人であったが、仏教への信仰が篤く、苦難の生涯を送った母をこの上なき霊場に眠らせたいという一念が、彼を風水の深淵へと突き動かしたのだ。

第二章 克夫克子の宿業——孤高の母と拒絶された合葬

だが、この完璧なるはずの「佛臍の吉穴」の選定の背後には、後世に恐るべき呪いとなって跳ね返ることとなる、戦慄すべき「禁忌」が埋め込まれていた。

江瑞元の実母・沈采蘭の半生は、言語を絶する苦難と業火に焼き尽くされた歴史であった。

彼女は若い頃、近隣の農村の男へ最初に嫁いだ。しかし、長男を産み落として間もなく、村を襲ったコレラの猛威によって、生まれたばかりの赤子、夫、そして舅姑が一年のうちに相次いで病死したのである。

無知な村人たちは彼女を指差して「克夫克子(夫を呪い殺し、子を食い殺す凶相の女)」と罵倒し、石を投げつけた。絶望と恥辱に苛まれた彼女は、首を吊って自害を図るも助けられ、髪を落として地元の尼寺(金竹庵)へと逃げ込み、帯髪修行(正式に出家せず髪を残したままの籠居)の身となった。

数年後、不憫に思った彼女の従兄が、青渓で塩と酒の醸造を営んでいた裕福な豪商・江肇文(こう・ちょうぶん)への後妻としての再婚を勧めた。

江肇文はすでに二人の前妻を病で亡くしており、近隣からは「妻を呪い殺す命格の男」と恐れられていた。村人たちは「夫を殺す凶星の女と、妻を殺す凶星の男だ。毒をもって毒を制すれば、互いに死ぬこともなかろう」と嘲笑混じりに噂し合った。

こうして嫁いだ沈采蘭が産み落としたのが、幼名を「瑞元」といった江瑞元であった。

だが、運命の神は彼女に平穏を許さなかった。江瑞元がわずか八歳の年、夫の江肇文が突如として急死したのである。

三度、夫に先立たれた未亡人。

残された広大な家産と醸造所は、前妻が生んでいた強欲な継子(義理の兄)によってことごとく奪い取られた。継子は沈采蘭に対し「夫を呪い殺した毒婦」「使用人と密通している」という無残な濡れ衣を着せ、彼女と幼い江瑞元を母屋から追い出し、竹林の脇のあばら家へと叩き出したのである。

親族からも孤立し、寒風吹きすさぶ村の中で、彼女は毎日仏壇の前に平伏し、涙を流して念仏を唱えながら、粗末な内職の針仕事で一人息子の学費を稼ぎ出した。江瑞元が日本への軍事留学を志した際、周囲の親族全員が猛反対する中、自らの形見の装身具をすべて質に入れ、旅費の銀貨を用立てたのも彼女であった。

江瑞元にとって、母・沈采蘭とは単なる肉親を超え、自らの全存在を肯定し、命を賭して護るべき「唯一の聖域」であったのだ。

それゆえに——母が臨終の際、息子の耳元に遺した「最後の遺言」が、風水の掟と真っ向から激突することとなった。

『瑞元よ……。私は三度嫁ぎ、三度夫を見送った。江家の先妻の産んだ子供たちからは泥棒のように罵られ、泥水を啜る屈辱を耐え忍んできた。

……私は死んでも、あの江肇文の墓に入ることだけは絶対に嫌です。あの男の隣に並んで、冷たい視線に晒されるのは御免です。……どうか、私を独りきりで山に埋めておくれ。

誰の妻でもなく、ただお前の母として、静かに次の世を待ちたいのです』

母が息を引き取った後、師公は江瑞元に対し、厳粛な面持ちで風水の鉄則を説いた。

「江将軍、お気持ちは察するが、陰宅の法において『乾坤合徳(夫婦合葬)』は絶対の原則である。天の陽気と地の陰気が合一して初めて、龍脈の気は子孫へと清らかに循環する。父君の遺骨を改葬し、この佛臍穴に母君と並べて合葬せねばならん。

もし母君一人だけを埋葬すれば、それは『独陰不生、孤陽不長(陰のみにして生ぜず、陽のみにして育たず)』の孤絶の墓となる。地気は偏り、福沢は長続きせず、いずれ子孫の血筋を根底から損なうことになろう」

だが、江瑞元の反応は苛烈を極めた。

彼は軍服の腰のサーベルを床に叩きつけ、血走った眼で師公を睨み据えて叫んだのである。

「天下など要らぬ! 子孫の繁栄など知ったことか! 私は母の一生の無念を晴らし、来世の平穏を護るためならば、たとえ一族の命脈が尽き果てようとも、母の単葬を貫く!」

師公はその凄絶な親子の業の深さに息を呑み、静かに天を仰いだ。

「……そこまでの覚悟ならば、我が口を挟む余地はない。だが覚えておかれるがよい。この佛臍穴の龍気は、母の強烈な執念と合一し、貴殿一代の身の上には旭日のごとき天下の権力を授けるであろう。

しかし、それは角を一根しか持たぬ変異の龍——『蛟(みずち)』の栄華に過ぎぬ。その福沢は二代を超えることはできず、第三世代の男子の血は、乾いた大地に吸われる水のごとく、若くして尽き果てる定めに囚われるであろう」

江瑞元はその警告を黙殺した。

一九二三年11月、西翠屏山の魚鱗坳に、沈采蘭ひとりの亡骸を納めた円形の石塚が完成した。江瑞元は母が愛した金竹庵の僧侶を呼び寄せ、自ら粗衣を纏って三日三晩にわたる読経を捧げた。さらに母の初婚の際に夭折していた異父兄の墓をもその傍らへと改葬し、母の魂の寂しさを慰めようとしたのである。

そして——信じがたい怪異が、現実の歴史の盤面の上に顕現し始めた。

第三章 旭日の覇権と、棺木離地三寸の謎

母の埋葬を終えた一九二三年の暮れ、一介の失脚軍人に過ぎなかった江瑞元の運命は、まるで何者かに背中を押されるようにして急上昇を開始した。

翌一九二四年、広東で南方軍閥の反乱が勃発した際、革命政府の指導者の座乗する軍艦「永安艦」へ単身駆けつけた江瑞元は、激しい砲火の中で四十日間にわたり革命政府の指導者を警護し抜き、一躍、革命陣営の最高中枢の信頼を独占した。

革命政府の指導者の死後、彼は南江軍官学校の初代校長に就任して自らの私兵軍団を組織し、南江革命軍総司令として北伐を敢行。軍閥たちを次々と薙ぎ払い、一九三〇年には名実ともに中華民国の最高指導者——実質的な「地上の皇帝」の座へと登り詰めたのである。

失脚からわずか七年足らずの間の電光石火の天下奪取。

軍事史家たちはこれを卓越した政治的権謀術数の成果と分析するが、当時の江瑞元自身は、その栄光のすべてが青渓の「佛臍穴」から噴き出す龍気によるものと固く信じ込んでいた。彼は公務の合間を縫っては頻繁に故郷の母の墓へと戻り、墓前に跪いて涙を流しながら線香を手向け続けた。

だが、師公が予言した「蛟龍の限界」は、あまりにも冷酷な結末を準備していた。

一九五〇年、大陸内戦の全面的な崩壊。

かつて八百万の軍勢を誇った南江軍は大陸全土で敗北を重ね、江瑞元は先祖代々の故郷を追われ、南海の孤島・海峡の島へと逃亡せざるを得なくなった。

故郷・青渓を去る最後の朝、江瑞元は長男の江経文(こう・けいぶん)を伴い、雪の降る西翠屏山の母の墓へと登った。

彼は凍てつく土饅頭の前に額を擦り付けて号泣し、墓の周囲の黄色い土を一握り、白い絹のハンカチに包み込んで胸ポケット深くへと押し込んだという。

「母上、不肖の瑞元、しばしの別れでございます。……必ずや、この土を抱いて戻ってまいります」

海峡の島へ渡ったのち、島都の政庁の執務室の机の上には、常にその「故郷の黄色い土」が真鍮の小箱に納められて置かれていた。江瑞元は朝に夕にその土を見つめ、母の面影を追っていた。

そして、江家が海峡の島において敷いた統治体制は、父・江瑞元から長男・江経文へと引き継がれ、いわゆる「江氏父子の時代」と呼ばれる数十年の強権支配を確立した。師公の予言通り、龍脈の余慶は、第一世代(江瑞元)と第二世代(江経文)の二代にわたって、確実にその権力を維持し続けたのである。

だが、二人の最高権力者がその生涯を閉じた際、海峡東岸を震撼させた異様な「葬送の儀礼」が執り行われた。

一九七六年に江瑞元が世を去り、のちに一九八七年に江経文が没した際、二人の遺骸は、島北の景勝地にある「鏡湖」および「大青渓」の迎賓館へと安置された。

しかし、その重厚な黒御影石の棺は、地下の土の中に埋葬されることは決してなかった。

大理石の台座の上に据えられた巨大な棺は、床面からわずか「三寸(約十センチ)」の隙間を空けて、宙に浮いた状態で安置されたのである。

風水および中国の民間葬送儀礼において、これを「浮厝(ふそく)」と呼ぶ。

棺を土に触れさせず、空中に留め置くことは、それが「正式な埋葬ではない」ことを天に宣言する臨時の措置を意味する。故郷を遠く離れた異郷で客死した者が、いずれ戦乱が収まり、自らの祖廟の土へと帰り咲くその日まで、魂魄を現世の仮宿に繋ぎ止めておくための、悲痛極まる呪術的封印であった。

「父も子も、海峡東岸の土を自らの安住の地とは認めなかったのです」

張先生は深くため息を吐いた。

「棺を宙に浮かせることで、彼らの魂は土に根を下ろさず、常に北の空——大陸の母の墓所を見つめ続けていた。……しかし、大地に還ることのできぬ遺骸は、風水学において『陰気が天に吹き溜まる凶兆』に他なりません。大地から滋養を断たれた江家の龍脈は、この浮厝の儀礼によって、完全にその息の根を止められたのです」

第四章 十年間の滅尽——第三代の血が涸れる刻限

二人の巨星が去り、棺が宙に浮いたままとなった海峡の島において、師公が遺した戦慄の預言——「第三世代における滅亡」は、時計の針が刻む正確さをもって、容赦なくその牙を剥き始めた。

江経文には、亡命者出身の正妻・エレナとの間に生まれた三人の正統な男子がいた。

長男・江孝民(こう・こうみん)。

次男・江孝岳(こう・こうがく)。

三男・江孝寧(こう・こうねい)。

名門の血を引き、莫大な特権と富に囲まれて育ったはずのこの三人の貴公子たちを襲ったのは、医学の常識では説明のつかない、奇怪極まる「早世の連鎖」であった。

発端は、江経文が世を去ってわずか一年後の一九八九年四月のことであった。

長男の江孝民が、長く患っていた代謝疾患と呼吸器の合併症により、病院で息を引き取った。享年五十四歳。

一族が悲嘆に暮れる間もなく、そのわずか二年後の一九九二年七月。

今度は、江家の政治的後継者と見られていた次男の江孝岳が、島都中央病院で急性疾患のため亡くなった。

享年四十五歳。あまりにも唐突な別れであった。

「……何かが、江家の血を内側から食い尽くしている」

恐怖に駆られた一族の生き残りたちは、残された最後の嫡男——三男の江孝寧の命を守るため、必死の防衛策に打って出た。

風水師たちの助言に従い、江孝寧は自ら政治の世界から完全に身を引き、一切の権力を放棄して、遠くカナダのバンクーバーへと一族郎党を連れて逃亡したのである。島という呪われた磁場から数万キロ離れることで、先祖の墓穴から伸びる見えざる死の鎖を断ち切ろうとしたのだ。

だが、大陸の佛臍穴に埋め込まれた因果の針は、太平洋の荒波をも容易く踏み越えていった。

一九九七年、カナダの邸宅で平穏に暮らしていたはずの江孝寧の身体に、突然の激痛が走った。

検査の結果は進行した悪性腫瘍であった。治療は続けられたが、病状を押し戻すことはできなかった。

死期を悟った江孝寧は、自らの命脈が燃え尽きる直前の一九九七年の秋、周囲の猛反対を押し切り、車椅子に酸素ボンベを積んで、厳戒態勢の大陸——あの浙江省雲渓県青渓の「西翠屏山」へと足を踏み入れたのである。

七十年余りの歳月を経て、祖母・沈采蘭の墓石の前に辿り着いた江家の最後の嫡男。

彼は車椅子から泥の地面へと転がり落ちると、枯れ枝のような腕で母の墓の土を抱きしめ、血を吐くような慟哭の声を山林に響かせたという。

「祖母上……! 戻ってまいりました……! どうか、江家の命をお救いください……!」

だが、冷たい花崗岩の墓石は、青白い冬の陽光を浴びて沈黙を守るばかりであった。

海峡の島へ戻ったわずか数ヶ月後の一九九七年十二月、江孝寧は息を引き取った。享年四十八歳。

江経文が没した一九八七年から、三男の江孝寧が絶命した一九九七年までの十年間。

名門の栄華を極めた江家の第三世代の男子三人は、誰一人として五十歳の坂を越えることなく、それぞれ異なる病によって相次いで世を去ったのである。病気そのものに超自然的な原因があったという証拠はない。だが一族の内部では、偶然を受け入れられぬ者たちが祖墳の物語へ答えを求めた。

第五章 玄空の帳簿と、龍脈の復讐

「……十年の間に、三人の直系の男子が全員怪死を遂げたのです」

張先生は茶杯を置き、深い溜息とともに眉間を押さえた。

本文の約77%まで公開

【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます

この先は、記録の結末です。

メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。

登録は無料です。広告メールなどは一切配信しません。