序章 四億年の山脈とポッドキャスト
スマートフォンの画面が放つ青白い光の中で、数百万ものアメリカ人たちが、毎夜のようにヘッドフォンを耳に差し込み、見知らぬ他人の肉声に耳を澄ませている。ここ十数年の間に英語圏で爆発的な聴取者を獲得した「実体験怪談ポッドキャスト」というジャンルにおいて、いくつかの番組はもはや現代のフォークロアを記録する巨大なアーカイブとして機能している。
全米の目撃者から寄せられた留守番電話メッセージをそのまま放送する番組。長年にわたり個人の奇妙な体験を電話インタビュー形式で拾い上げ続ける老舗番組。緻密な取材と当事者への徹底的な聞き取りで不可解な事件の輪郭を浮き彫りにする調査型の番組。
そして、公共ラジオ局の洗練された音響空間の中で、語り手が自らの言葉で過去の悪夢を吐露する番組。
これらの番組に寄せられる膨大な音声ファイルを聞き込んでいくと、ある特定の地理的領域に、異様なほど高い密度で怪異の証言が集中していることに気づかされる。
アメリカ合衆国東部を南北に貫く、アパラチア山脈である。
ロッキー山脈やアルプス山脈、ヒマラヤ山脈といった名立たる高峰が誕生する遥か以前、今から四億八千万年以上前、恐竜すら地上を歩いていなかった古生代に形成されたこの山脈は、地球上で最も古い山岳地帯の一つである。気の遠くなるような歳月をかけて風雨に削られ、丸みを帯びた稜線は、現在、見渡す限りの深い温帯落葉樹林によって覆い尽くされている。深い霧に閉ざされた無数の谷間——地元で「ホロウ(Hollow)」と呼ばれる袋小路の渓谷の奥深くには、外部の世界から隔絶された集落や、放棄された古い鉱山町が静かに沈んでいる。
アパラチアの住民たちの間には、子供の頃から骨の髄まで叩き込まれる、奇妙なほど具体的で厳しい掟が存在する。
夜になったら、絶対に森へ入ってはならない。
森の奥から口笛が聞こえても、決して口笛を吹き返してはならない。
木々の隙間から自分の名を呼ぶ声が聞こえても、絶対に返事をしてはならない。
夜中に窓の外で何かが動いていても、決してブラインドを開けて外を覗いてはならない。
そして、森で何かを見たり聞いたりしても、決して誰にも言ってはならない——「お前は何も見なかったし、何も聞かなかった(If you see something in the woods, no you didn't)」。
ポッドキャストの回線を通じて語られるそれらの手記は、大都市の若者たちが抱くようなロマンチックなオカルト趣味を冷酷に拒絶する。そこにあるのは、太古の森そのものが持つ底知れない悪意と、人間の姿や声を器用に真似て獲物を誘い出そうとする「模倣者(ミミック)」と呼ばれる存在に対する、生々しい防衛本能の記録である。
第一章 ブラックウッド・ホロウのキャビン
イーサン・コールが運転するスバル・アウトバックの底面を、砂利と乾いた泥の塊が激しく叩き上げたのは、十月最後の金曜日の午後四時を回った頃だった。
ペンシルベニア州ピッツバーグで、インディペンデント映画やゲーム制作会社向けに環境音(フォーリー・サウンド)の録音と音響設計を請け負っている三十歳のイーサンは、三日間の休暇と録音素材の収集を兼ねて、ウェストバージニア州ファイエット郡の山奥を目指していた。
彼が民泊仲介サイトで見つけた物件は、ニューリバー渓谷の幹線道路からさらに未舗装の林道を三十分以上分け入った、ブラックウッド・ホロウと呼ばれる深い谷の最奥に建つ古い丸太小屋だった。かつて二十世紀の初頭、この一帯で無煙炭の大規模な採掘が行われていた時代に、炭鉱会社の現場監督官が居館として使っていたという築百年のキャビン。電力は引かれておらず、屋根に取り付けられたソーラーパネルと蓄電池、そして調理用のプロパンガスボンベだけで維持されている完全なオフグリッド(自立型)の小屋だった。
舗装路が途切れ、携帯電話のアンテナマークが一本、また一本と消えて「サービス圏外」の文字に変わった時、フロントガラスの向こう側には、燃えるような紅葉を終えて冬の訪れを待つ、茶褐色のアパラチアの原生林が壁のように立ちはだかっていた。
谷の入り口にある、古びたトタン屋根のガソリンスタンド兼ジェネラルストアに立ち寄った際、店主である初老の男マックは、イーサンが車のトランクから下ろした高価な指向性マイクや録音機材の頑丈なペリカンケースを見て、噛みタバコを吐き捨てながら言った。
「兄ちゃん、ブラックウッド・ホロウの奥へ入るのか」
「ええ、週末の間、あそこの古いキャビンを借りています。自然の音を録りに来たんです。風の音や、夜の鳥の声、小川のせせらぎをね」
マックは埃をかぶったレジスターの横に寄りかかり、薄汚れたキャップのつばを指先で押し上げた。その濁った灰色の目には、観光客に対する愛想笑いなど微塵も浮かんでいなかった。
「音を録るだと? ……兄ちゃん、外から来た連中に一つだけ忠告しておく」
老人は低く、しわがれた声で言った。
「あのホロウの奥には、昔の炭鉱の坑口がいくつも開いている。百年前、落盤事故で何十人もの鉱夫が生き埋めになってそのまま塞がれた場所だ。夜になったら、絶対にキャビンの外へ出るな。ポーチの灯りは消しておけ。それから……」
マックは身を乗り出し、イーサンの目を真っ直ぐに見据えた。
「森の奥から、誰かがお前の名前を呼んでも、絶対に耳を貸すな。もし友達や家族の声に聞こえても、絶対に『誰だ』と声を返すな。アパラチアの山じゃな、名前を返すってことは、自分の命の所有権を相手に差し出すのと同じなんだよ」
イーサンは都会的な曖昧な愛想笑いを浮かべ、ガソリン代とミネラルウォーターの代金を支払って店を出た。地元の年寄りが外所者を怖がらせるための、いつもの決まり文句だと思った。古くから孤立した山岳地帯には、どこにでも似たような排他的な迷信が転がっている。
しかし、車を走らせてブラックウッド・ホロウの奥へと進むにつれ、その言葉の棘が、胸の奥に冷たく引っかかり始めていた。
谷底へ下りていく道は、両側から鬱蒼としたナラやトネリコ、そして常緑のシャクナゲの厚い茂みが覆いかぶさり、昼間だというのに薄暗いトンネルのようになっていた。大気は湿り気を帯び、土と古い落葉が発酵したような、濃厚で重い匂いがエアコンの通気口から流れ込んでくる。
やがて、巨岩が転がる渓流の脇に、苔むしたオークの丸太を組んだキャビンが姿を現した。
建物は驚くほど頑丈だったが、周囲を圧倒的な森林に包囲され、まるで大自然という巨大な怪物の胃袋の中にぽつんと置かれた異物のようだった。玄関のポーチには、風雨で白く晒されたロッキングチェアが二脚置かれ、居間の中央には、黒い鉄板を溶接して作られた巨大な薪ストーブが据え付けられていた。
窓という窓には、分厚い木製のブラインドが隙間なく下ろされており、外からの視線を頑なに拒んでいた。
第二章 完全な沈黙と集音マイク
荷物を運び込み、プロパンガスの元栓を開けて暖を取り始めた頃には、外はすでに完全な夕闇に包まれていた。アパラチアの秋の夜は、太陽が沈むと同時に、恐るべき速度で大気を冷却していく。外の気温は摂氏二度まで落ち込んでいた。
イーサンは薪ストーブに太いヒッコリーの薪をくべ、パチパチと爆ぜる火を眺めながら簡単な夕食を済ませた。そして、今夜の本来の目的である録音作業の準備を始めた。
彼は高精度の超低ノイズ・バイノーラルマイク(人間の頭部を模した集音構造を持つ特殊マイク)をキャビンの外、渓流に面したポーチの欄干に固定した。マイクからはシールド加工された細いケーブルを伸ばし、キャビンの重い木製ドアの隙間を通して室内の作業デスクへと引き込む。
デスクの上には、三十二ビットフロート録音に対応した最新のポータブル・オーディオレコーダーと、プロ仕様の密閉型ヘッドフォンが置かれていた。
ヘッドフォンを耳に装着し、ゲインのつまみをゆっくりと右へ回す。
サーッ……。
マイクを通して、夜の森の広大な音響空間が、驚くべき立体感を持ってイーサンの耳朶へと流れ込んできた。冷たい夜風が梢を揺らすサワサワという葉擦れの音。数十メートル下を流れる渓流が、丸石を洗うゴロゴロという低周波の水音。
枯れ草の隙間を走り回る野ネズミの微小な足音。そして、アパラチアの夜を埋め尽くす、無数の秋の昆虫たちの一定のリズムを持った鳴き声。
それらの音が幾重にも重なり合い、心地よい天然のホワイトノイズとなってイーサンの意識を包み込んだ。素晴らしいテクスチャーだった。都会のスタジオでは決して再現できない、何万本もの樹木が空気を吸い込み、吐き出す息遣いそのものだった。
レコーダーの赤い録音ボタンを押し、ハードディスクへの書き込みを開始する。イーサンはマグカップに注いだバーボンを一口啜り、作業椅子の背もたれに身を預けて目を閉じた。
時間の感覚が、ゆっくりと希薄になっていった。ヘッドフォンから流れる音の波に身を委ね、一時間、二時間が過ぎていった。
時刻が午前二時十五分を回った時だった。
スッ、と。
何の前触れもなく、世界が変質した。
イーサンは目を開けた。ヘッドフォンの中で、それまで鳴り響いていた虫の合唱が、完全に消滅していた。一匹が鳴き止み、それに釣られて周囲が静まるというような、自然なフェードアウトではなかった。
まるで、巨大な録音スタジオのミキシングコンソールで、マスターミュートのスイッチを指一本で叩き切ったかのような、暴力的なまでの「ゼロ」への遮断。
風の音も消えていた。渓流の水音すら、まるで数キロメートル彼方へと遠ざけられたかのように、極端に細く、平坦な音へと痩せ細っていた。
オズ・ファクター(The Oz Factor)。超自然現象の研究者たちが、異様な怪異に遭遇する直前に報告する、空間全体からあらゆる環境音が吸い取られる絶対的な沈黙現象。
イーサンは息を止め、レコーダーの液晶画面を見つめた。二本の入力レベルメーターのインジケーターが、マイナス六十デシベルの底辺に張り付き、微動だにしていない。マイクの故障か、それともケーブルが断線したのか。
彼がヘッドフォンに手をかけ、外そうとした、その瞬間だった。
ザリッ。
右側のイヤーパッドから、極めて明瞭な音が響いた。
キャビンの外、ポーチから十メートルほど離れたシャクナゲの茂み。何かが、凍りついた土と濡れ落ち葉を、重い足取りで踏みしめた音だった。
第三章 模倣される声
ザリッ……ザリッ……。
足音は二足歩行だった。ゆっくりとした、しかし確信に満ちた足取り。クマやシカのような四つ足の動物が移動する際の、不規則な枝の折れる音ではない。人間が、自らの意思で歩幅を測りながら、一歩一歩近づいてくる足音。
イーサンの全身の毛穴が収縮した。こんな真夜中の、零下近い山奥に、誰がいるというのか。密猟者か、それとも不法侵入者か。
彼はヘッドフォンを外さず、ボリュームをわずかに上げた。マイクの超高感度カプセルが、暗闇の微小な振動を克明に拾い上げていた。
足音が、ポーチの階段の手前でピタリと止まった。
数十秒の完全な静寂。イーサンの心臓が、肋骨の内側をドクンドクンと激しく打ち鳴らす。その鼓動の音すら、外の何者かに聞こえてしまうのではないかという恐怖が彼を支配した。
シュウウウ……。
湿った空気が吸い込まれる音が、マイクを通して鼓膜を震わせた。肺の奥深くまで冷気を吸い込むような、長大な吸気音。
そして、声が聞こえた。
『……イーサン……』
イーサンの背骨に、氷水を一気に流し込まれたような激痛が走った。
その声は、女の声だった。低く、少しハスキーで、語尾が柔らかく上がる独特のイントネーション。ピッツバーグに残してきた彼の恋人、サラの声だった。
『……イーサン……寒いよ……開けて……』
イーサンは椅子から飛び起きそうになった。サラがここにいるはずがなかった。彼女は今週末、シカゴの実家へ帰省しているはずだった。三百マイル以上離れた場所にいる人間が、なぜウェストバージニアの山小屋の外に立っているのか。
『……イーサン……中にいるんでしょ……?』
声はマイクのすぐ真横、わずか数十センチの距離から発せられていた。しかし、その声を聞き続けるうちに、イーサンの脳内に猛烈な違和感が膨れ上がっていった。
サラの声に似ていた。音色も、トーンも、確かに彼女のものだった。しかし、その発声には、決定的な何かが欠落していた。
感情がない。焦燥感も、寒さに震えるニュアンスも、声の調子の中に含まれていない。まるで、録音された彼女の過去の会話データをコンピュータで細切れにし、波形編集ソフトで強引に繋ぎ合わせたかのような、平坦で無機質な反復。
『……イーサン……あ・け・て……』
言葉のアクセントの位置が、一語ごとに不自然に狂っていた。人間の喉と声帯が発する連続した音ではなく、蓄音機の針が傷ついたレコード盤の上を滑るような、機械じみた擬態。
イーサンは両手で口を固く押さえ、喉元まで出かかった悲鳴を必死に押し殺した。マックの言葉が、稲妻のように脳裏に蘇っていた。
——森の奥から、誰かがお前の名前を呼んでも、絶対に耳を貸すな。
——名前を返すってことは、自分の命の所有権を相手に差し出すのと同じなんだ。
ギィ……。
ポーチの木製の床板が、軋む音を立てた。何かが、階段を登り、ポーチの上へと足を踏み入れたのだ。
その体重は尋常ではなかった。一本の丸太がたわむような、ミシリ、ミシリという重々しい軋み音。重量は百キロ、いや、二百キロはある。そんな質量のものが、サラの軽やかな足取りで動けるはずがなかった。
カラン、と乾いた金属音がした。ポーチの手すりに取り付けてあったバイノーラルマイクに、何かが触れた音だった。
レコーダーのディスプレイのインジケーターが、突如として赤色のオーバーロード(音量飽和)を示して点滅した。耳をつんざくような激しいハウリング音。
そして、マイクのすぐ至近距離で、声が変わった。
今度は、サラの声ではなかった。
『……おい、兄ちゃん……』
マックの声だった。あのガソリンスタンドの老人の、かすれて濁ったアパラチア訛りの声。
『……外に出てきな……薪を持ってきてやったぞ……』
続いて、イーサン自身の母親の声。そして、彼が高校時代に死別した祖父の、低く震える声。
それらの無数の声が、まるでラジオのチューニングをデタラメに回した時のように、数秒ごとに目まぐるしく切り替わりながら、マイクに向かって吐き出されていた。
『……あ・け・ろ……』
『……な・か・へ・い・れ・ろ……』
『……イーサン……イーサン……イーサン……』
ガサリ、という激しいノイズとともに、音声がプツンと途絶えた。外部マイクのケーブルが、外側から力任せに引きちぎられたのだ。
ヘッドフォンからは、サーッという完全な無音のホワイトノイズだけが残された。
静寂が、キャビンの内部を再び包み込んだ。しかし今、その怪異は、マイクの向こう側ではなく、ドア一枚を隔てたすぐ外のポーチの上に立っていた。
第四章 夜の窓と剥き出しの関節
イーサンはヘッドフォンをむしり取り、床の上に投げ捨てた。呼吸が荒く乱れ、酸素がうまく肺に入ってこない。部屋の中は薪ストーブの熱で暖かいはずだったが、彼の指先と足先は、氷漬けにされたように感覚を失っていた。
コ、コ、コ。
乾いた音が響いた。
キャビンの正面、ポーチに面した厚いオーク材のドアだった。何者かが、硬い爪の先で、木肌を規則正しく小突いていた。
人間のノックではない。鳥が嘴で木を突くような、あるいは剥き出しの骨が木材にぶつかるような、硬質で感情のない音。
コ、コ、コ、コ……。
イーサンは後ずさりし、部屋の中央にある頑丈な作業デスクの陰に身を隠した。腰のベルトに手を伸ばし、キャンプ用に持参していた大型のフォールディングナイフを引き抜く。刃渡り十センチの鋼鉄の刃が、ストーブの赤い炎を反射して鈍く光った。
しかし、そんな刃物が何の気休めにもならないことは、本能が痛いほど理解していた。
ノックの音が止まった。
訪れたのは、張り詰めた糸のような沈黙だった。やがて、ポーチの上を擦るような、ズリ、ズリ、という重い摩擦音が移動し始めた。怪異はドアから離れ、建物の側面に沿って、ゆっくりと建物の角を回り込んでいた。
その先にあるのは、居間の側面、デスクのすぐ真横にある大きな腰高窓だった。
窓には木製のブラインドが下ろされていた。しかし、スラット(羽根)の角度がわずかに水平に開いており、数ミリの隙間から、外の漆黒の闇が室内の光を吸い込むように覗いていた。
見るな。絶対に外を見るな。
頭の中で理性が絶叫していた。アパラチアの掟。窓の外を見ることは、向こう側に「自分はここにいる」と教えることと同じだ。
しかし、人間の視線は、恐怖が極限に達した時、最も恐れている対象へと吸い寄せられてしまう呪縛から逃れられない。イーサンの首が、まるで油の切れた機械のように、ギシギシと音を立てて窓の方角へと向いてしまった。
ブラインドの隙間。そこには、何も見えなかった。ただ、ガラスの外側に、夜の冷気によって発生した微細な結露が白く張り付いているだけだった。
気のせいか。去ったのか。
安堵の呼気が喉から漏れかけた、その瞬間だった。
スッ、と。
窓の外の闇の中から、何かが降りてきた。
それは、頭上から逆さまに垂れ下がってきた。
青白い、月の光すら吸い込まない完全な漆黒の輪郭。人間の頭部ほどの大きさがあるその塊が、ブラインドのわずかな隙間、ガラスのすぐ向こう側、わずか十センチの距離に静止した。
それは、顔だった。
しかし、人間のものではなかった。毛皮を完全に剥ぎ取られたオオカミ、あるいは飢餓によって極限まで干からびた大型のシカの頭蓋骨に、薄い灰色の人間の皮膚を無理やり被せたような、歪な造形。
鼻梁は異常に長く前方に突き出し、鼻腔のあるべき場所には、黒い二つの裂け目が虚ろに口を開けていた。そして、その両目。
眼球が、顔の側面に付いていた。草食動物のように左右に離れた位置に穿たれた眼窩。その奥で、濁った琥珀色の巨大な瞳が、ギチギチと音を立てるように独立して蠢いていた。
その右側の瞳だけが、ブラインドの隙間を透過して、デスクの陰にうずくまるイーサンの目を、正確に、逃げ場のない角度で捉えていた。
口が裂けた。耳の付け根まで引き裂かれた顎の隙間から、何列もの鋭利な歯列が見えた。人間の平たい臼歯と、肉食獣の鋭い犬歯が、無秩序に入り混じって生え揃っている。
その歯の隙間から、タールのように黒く粘り気のある唾液が糸を引き、窓ガラスの内側へと冷気を透過させていた。
ガラスの表面に、パキパキと音を立てて白い霜の結晶が放射状に広がっていく。
ギギ……ギギギ……。
窓枠の上部から、異様なものが伸びてきた。それは、腕だった。しかし、その腕には関節が三つあった。
人間の腕の倍以上の長さを持つ、灰色の骨ばった四肢。皮膚の下で幾重にも重なり合った腱が、太い鋼線のように浮き上がっている。その指先には、黒く変色した獣の蹄と、人間の鋭利な爪が融合したような異形の爪先が備わっていた。
その指先が、窓ガラスの表面に押し当てられた。
ミシリ。
二重ガラスが、外側からの凄まじい圧力で内側へとたわんだ。枠を固定している木ネジが、悲鳴を上げて軋む。
そして、その怪異の裂けた口から、音が出た。
それは声ではなかった。カチカチカチカチカチカチ……! 何百本もの骨と歯を、猛烈な速度で打ち鳴らすような、乾いた狂乱の破裂音。
続いて、イーサンの耳元で直接炸裂したのは、かつて彼が録音の仕事で扱ったことのある、あらゆる悲惨な音のパッチワークだった。
車の衝突事故の金属音。誰かが骨を折られた瞬間の短い悲鳴。そして、古い炭鉱の奥底で、落盤に押し潰された人間たちが暗黒の中で発したであろう、泥を吐き出すような重い喘ぎ声。
『……たす……けて……』
『……出られない……暗い……火をくれ……』
怪異は、過去百年の間にこの谷で命を落としたすべての人間たちの最後の断末魔を、自らの肉体という楽器を使って、狂ったように演奏し続けていたのだ。
窓ガラスに、ピシッ、と一本の亀裂が走った。冷気が刃のように室内に吹き込んでくる。
(破られる)
ガラスが砕ければ、あの三つの関節を持つ腕が室内に雪崩れ込み、自分の喉笛を食いちぎるだろう。恐怖の極致の中で、イーサンの視界の端に、赤々と燃える薪ストーブの火が飛び込んできた。
火だ。そして、鉄だ。
本文の約73%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。