序章 均質な時間という迷妄

近代社会で、人が最も無条件に信じているもの。それは「時間は逆戻りしない」という前提かもしれない。

水晶振動子の脈動、原子時計が定める標準、スマートフォンに浮かぶ数字。私たちは精密な計時によって生活を揃え、昨日から今日、現在から未来へと一方向に進んでいる。

だが神話や民俗の時間は、必ずしも一本の線ではない。湿った布のように弛み、川のように渦を巻き、ある場所では折り重なる。

とりわけ黄昏は、昼と夜のどちらにも属さない。日本では逢魔が時、フランス語圏では「犬と狼のあいだの時」と呼ばれる薄明に、人は見慣れたものと異形を見分けられなくなる。

これは関東のオフィス街で働いていた、ごく平凡な会社員が体験したという九十分の逆流の記録である。

第一章 午後六時の打刻——判で押した日常

男の日々は、都市生活者らしい規則正しさに支配されていた。

午前八時半に出社し、端末と帳票へ向かう。午後六時のチャイムが鳴ると社員証を読み取り機へかざし、退勤時刻を記録する。それが何年も変わらない日課だった。

その日にも前兆はなかった。十月半ば。冷たい秋風がビルの谷間を抜け、コートの裾を揺らしていた。

男は鞄を閉じ、出入口で社員証を読み取らせた。端末は「18:01」と表示した。同僚へ会釈し、エレベーターへ乗った。

家は都心から離れた新興住宅地にある。地下鉄でターミナル駅へ出て、近郊電車で約一時間。さらに駅前から路線バスで十数分。徒歩を含めれば一時間二十分から一時間半の帰路だった。

乗る車両も、階段に近いドアも、乗り換えで歩く順路も毎日同じだった。何番目の鉄柱を過ぎれば電車が減速し、どの踏切で車内灯が一瞬だけ揺れるかまで、身体が覚えていた。だから後に男は、別の駅や別の列車を取り違えたという説明だけは受け入れられなかった。

午後六時十四分、八両編成の電車がホームへ入った。帰宅客で混み始めていたが、男はドア脇のロングシートに空席を見つけた。

座った途端、一日中画面を見ていた目の奥から重い疲労が広がった。

男は腕時計を持たない。時刻は壁時計か携帯電話で見ればよい。その夜は充電が残り少なく、業務通知も見たくなかったので、電話を鞄から出さなかった。

窓へ頭を預けると、車輪の低い律動が意識を眠りの底へ引いていった。

眠る直前、向かいの窓に映る乗客たちが、全員同じ方向へ顔を向けているように見えた。視線の先は車両前方でも広告でもなく、男が映る窓だった。だが瞼が重く、確かめる前に暗闇へ落ちた。

第二章 揺らぐ車窓と、黄昏の停留所

目を覚ましたのは、耳慣れた車内チャイムだった。

『まもなく、終点です。お降りの際は足元にご注意ください』

男は乾いた唇を舐めた。首は強張っていたが、寝過ごしてはいない。窓の外には、いつもの駅前の駐輪場とロータリーが見えた。

鞄を持ち、開いたドアからホームへ降りた。冷たい空気が火照った頬へ触れた。

跨線橋を渡り、定期券で改札を出る。三番乗り場には住宅街へ向かうバスが停まっていた。

男が後部座席へ座ると、バスは湿った坂道を登った。街並みはいつも通りだった。ただ、世界の色だけが少し狂っていた。

空が明るすぎた。

普段なら、一時間の電車を降りる頃には夜になっている。だが西の稜線には、赤黒い残照が薄い帯となって残っていた。

「今日は夕焼けが長いな」

男は秋の天候のせいだと思った。疲れた頭は、それ以上を考えなかった。

自宅近くの停留所で降り、三分ほど歩いた。門を開け、玄関の鍵を回し、靴を脱いだ。

「ただいま」

第三章 凍結した文字盤——午後六時の戦慄

台所から妻が顔を出した。夫の帰宅を喜ぶより先に、困惑が浮かんだ。

「どうしたの、こんな時間に。会社で何かあった?」

「何って、普通に定時まで働いて帰ってきた」

「でも」

妻は居間の壁を指した。

「まだ六時よ」

振り子時計の短針は六の直前、長針は十二の一分手前にあった。十七時五十九分。

男は意味を理解できなかった。十八時一分に会社を出て、一時間以上電車に乗り、バスへ乗り換えた。どれほど急いでも、帰宅は十九時二十分を過ぎる。

妻によれば、玄関が開く直前まで家の前を通る車の音も、門扉の金属音も聞こえなかったという。気づいた時には引き戸が開き、夫が「ただいま」と立っていた。濡れたコートの肩には、家の周辺では降っていない細かな雨粒が残っていた。

「時計が遅れているんだ」

笑おうとしながら携帯電話を出した。画面には「18:00」。テレビを点けると夕方六時のニュースが始まったところだった。

電子レンジ、妻の腕時計、放送の時刻表示。どれも同じ時間を示した。

男は床へ座り込んだ。時間を飛び越えたのではない。一時間半を移動した結果、世界は彼が会社を出た時刻より前へ戻っていた。

その時、玄関に置いた鞄の中で携帯電話が鳴った。会社の同僚からだった。

『君、もう帰ったよね。机の照明が点いたままなんだけど』

男が何も答えられずにいると、電話の向こうで同僚が小さく息を呑んだ。

『あれ。いま、エレベーターから君が降りてきたように見えた』

通話はそこで切れた。翌日、同僚はそんな電話をしていないと言った。発信履歴だけが男の端末に残っていた。

第四章 消去法という迷宮——打刻記録の証明

その夜、男は眠れなかった。記憶障害か、時計の誤認か。体験を時系列に沿って紙へ書いた。

退勤前に送ったメール。同僚と交わした言葉。駅で買った缶コーヒー。座席の擦れた布の感触。どれも鮮明だった。

現実的な説明はいくつも考えられた。無意識に早退し、退勤時刻を取り違えた。車内で見た景色から別の日の記憶を作った。複数の時計が偶然ずれた。

海外の体験談なら夏時間の切り替えも候補になる。だが日本では当てはまらない。

男は最も安心できる仮説へ縋った。実際には十六時半に会社を出たのに、疲労で十八時だと思い込んだのだ、と。

数日後、月次の勤怠一覧が配布された。問題の日の退勤欄には「18時01分42秒」とあった。

勤怠システムが絶対に正しいわけではない。端末設定、通信遅延、後日の修正、管理上の誤りは起こりうる。だが総務へ確認すると、修正履歴はなかった。

改札の利用履歴も調べた。入場は十八時十一分。ところが自宅側の駅での出場時刻は、空欄になっていた。

駅員へ問い合わせても、当該時間帯に改札障害の報告はなかった。防犯映像の保存期間内だったが、個人の求めで開示はできないと言われた。ただ確認した職員は電話口で長く沈黙したあと、「その時間に似た方が通った記録は見当たりません」とだけ答えた。

バスの交通系IC履歴には乗車も降車も記録されていない。それでも鞄には、運賃箱で両替したはずの硬貨と、車内で拾った路線案内が入っていた。

彼は十八時一分に都心のビルを出た。同じ日の十七時五十九分に、数十キロ離れた家の敷居を跨いだ。

失われたのではない。九十分が世界の帳簿から引き抜かれ、彼だけがその外側を通って帰った。

第五章 運行記録の闇——存在しなかった十八時十四分発

あの車内で何が起きたのか。男は休日ごとに時刻表、運行情報、掲示板の過去ログを調べた。

すると問題の日、彼が乗ったはずの十八時十四分発という列車が、公開時刻表に見当たらなかった。前後には十八時九分と十八時十九分がある。十四分発は臨時列車としても記録されていない。

ホームの発車案内を見間違えた可能性はある。男自身、乗車時には携帯電話を見ていない。それでも彼は、十八時十四分という数字をなぜか正確に覚えていた。

調査を続けるうち、鉄道関係者を名乗る匿名の人物から連絡が来た。のちに男は、退職した元運転士と郊外の喫茶店で会ったという。

「十月十七日の夕方、河川橋梁を通った電車に乗ったと言ったな」

老人は冷めた珈琲を見たまま話した。

「公式記録では平穏に終点まで走った。だが保線の間で回った、出所不明の紙がある」

差し出されたのは感熱紙を複写したような一枚だった。真正な内部資料か、誰かが作ったものか、男には確かめられなかった。

そこには十八時三十五分、河川敷の鉄橋付近で軌道回路の信号が一時消失し、複数の計時装置が不整合を示したと記されていた。

異常は九十二秒続いたとされる。その間、橋の両端にある信号扱所では時計の秒針が逆へ進み、非常電話には誰も話していないのに、満員列車のブレーキ音と大勢の悲鳴が流れ続けた——紙にはそう書かれていた。

同じ時刻、対向線の貨物列車に非常制動がかかった。強風か台車異常を検知したという記述もあったが、脱線も衝突も現実には起きていない。

ただし紙の末尾には、誰が書いたか分からない鉛筆の一文があった。

《旅客列車との衝突事象を、直前状態まで復元》

老人はそこで初めて男を見た。

老人自身も当夜、別の列車の乗務を終えて詰所にいたという。十八時三十六分、無線へ同じ列車番号を名乗る運転士の声が二度入った。一方は「橋を通過した」と報告し、もう一方は雑音の奥で「前が塞がれている」と叫んでいた。

二つ目の声だけは運行記録に残らなかった。

「もしこの紙が本物なら、事故は起きなかったんじゃない。一度起きて、戻されたんだ」

貨物列車が軌道を塞ぎ、旅客列車が衝突する。その瞬間、数百人が死を直感した。恐怖が空間の許容量を越え、世界が破綻を避けるため時間を巻き戻した——老人はそう語った。

「眠っていたあんたの意識だけが縫い目からこぼれた。だから巻き戻された世界より先に、いや、前に出てしまった」

第六章 幽霊ダイヤの代償と、同期しない肉体

男が乗った列車は、十八時三十五分に死を迎えるはずだった。だが時間が事故の前へ戻り、列車は何事もなく橋を渡った。

深く眠っていた男だけが戻る座標からずれ、退勤時刻より前の終着駅へ吐き出された。それが老人の説明だった。

証拠は一枚の怪しい複写紙しかない。匿名の老人が本当に元運転士だったかも分からない。それでも男には、ほかのどの説明より納得できた。

あの日に得た九十分は幸運ではない。数百人の死を取り消すために世界が支払った代価の、小さな欠片だった。

数年後、男は時計が自分のそばで狂いやすくなったと訴えた。他人の腕時計は進み、安い置時計は数日で数分ずれる。だが機種も環境も統一して調べたわけではない。

家族は、男自身の時間感覚のほうが変わったのだと言った。約束の場所には必ず早く着き、料理のタイマーが鳴る前に火を止め、相手が言葉を終える一瞬前に返事をする。本人には普通でも、周囲から見れば、常に半歩だけ未来を先取りしているようだった。

四十代前半で髪が白くなり、同年代より老けたとも語った。ストレス、睡眠不足、体質で説明できる変化である。

男だけは違う解釈をしていた。世界から前借りした九十分の利息を、肉体が少しずつ返しているのだ、と。

終章 誰そ彼の帳簿

男は郊外の家を離れ、職場に近い場所へ移った。できるだけ時計を見ずに暮らしている。

部屋から秒針のある時計をすべて外し、目覚ましには朝日を使った。それでも電子機器の待機表示や駅の発車案内、店内放送の時報まで消すことはできない。都市に暮らすかぎり、時間は空気のように男を取り囲み、あの日の矛盾を一分ごとに突きつけてくる。

それでも十八時が近づくと、窓の外の赤黒い空を見て動けなくなる。

橋の上で時間を戻された乗客は、本当に自分と同じ世界を生きているのか。

あるいは自分こそ、あの衝突で死んだのではないか。いま息をしている自分は、破れた時間が帳尻を合わせるため作った余り物の影ではないか。

駅のホームで滑り込む電車の窓を見るたび、背中に冷たい風が触れる。車内には時折、自分によく似た白髪の男が座っている。

その男は決してこちらを見ない。窓へ頭を預け、眠ったまま、存在しない十八時十四分発の列車で帰り続けている。

もし夕闇のトンネルを抜け、見慣れた駅へ着いたなら、改札を出る前に一度だけ時計を見てほしい。

あなたが過ごした一時間は、本当に未来へ流れていた時間だろうか。

それとも世界があなたを殺し損ねた代価として差し出した、借り物の時間なのだろうか。