序章 湖畔の黄昏と、蜂の抜け殻

山東省の省都、済南という街には、水が地底から不断に湧き出る冷涼な気配が今も残されている。

七十二名泉と称される無数の湧水が網の目のように旧市街を巡り、北に広がる大明湖の濁りのない水面には、遠く歴下亭の古びた瓦が夕暮れの影を落としていた。

私が済南という街に足を運ぶのは、決して物見遊山のためばかりではない。かつてこの街の大学に通っていた女性との記憶や、大明湖の通用門で守衛として糊口をしのぐ老いた知遇を訪ねるためであった。九華山で古法に則って蒸熟を重ねた黄精の包みを土産に携え、門番小屋で茶を啜りながら、互いの無駄に伸びた白髪と世俗の垢を嘲笑い合う。

そうした取るに足らない交わりこそが、旅の澱みを洗い流してくれる。

だが、その夜、市街の文化スペースで催された読者交流の座談会を終えた私の前に現れたのは、過去の泥水から這い上がってきたような、全く別の男であった。

夜の九時を過ぎ、春の終わりの生ぬるい夜気がアスファルトを湿らせていた。

建物の外灯の影、人通りの途絶えた歩道に、痩せぎすの男が一人、所在なげに佇んでいた。日に焼けて赤黒くひび割れた皮膚、使い古した軍用リュックサック、そして異様に幅の広い両肩。男は私の顔を見るなり、躊躇いがちに近づき、擦れた声で自らの名を名乗った。

それは、四半世紀近く耳にすることのなかった、故郷・微山湖畔の寒村の響きであった。

記憶の帳をいくら手繰っても、その名前に符合する面影は見出せない。私が困惑の色を浮かべて立ち尽くしていると、男は自嘲するように口元を歪め、右の手のひらを私の前に差し出した。

その手の甲には、無数の微細な瘢痕が、まるで鳥の巣のように引き攣れて白く残っていた。

「……覚えてねえか。小学校の校門前で、蜂に刺されて頭が豚の面みたいに膨れ上がった、あの『黄蜂人(スズメバチ男)』だよ」

その瞬間、忘却の底に沈んでいた少年時代の凄惨な光景が、鮮血のような生々しさをもって脳裏に蘇った。

私の通っていた小学校は、山東と江蘇の境界、微山湖の淀んだ水路に囲まれた、荒廃と暴力の吹き溜まりのような場所にあった。

およそ教育機関と呼ぶには程遠く、生徒の半分は近隣の肉畜解体場やレンガ窯の貧農の子弟であり、喧嘩による負傷、湖での水死、あるいは人買い(拍花子)による神隠しによって、毎学期何人かの机が音もなく片付けられていくのが日常であった。腕の骨を折る程度のことなど怪我のうちに入らず、生き残ること自体が一つの戦いであったあの荒涼たる校庭で、彼が「伝説」となった事件があったのだ。

ある初夏の午後、養蜂業者が蜂箱を満載した大型トラックが、校門の前のぬかるみにハンドルを取られて横転した。

数千個の巣枠が道路に叩きつけられ、数十万匹の蜜蜂が黒い煙のような竜巻となって空を覆った。誰もが悲鳴を上げて民家の雨戸を閉ざす中、その男——当時まだ十二歳だった彼は、竹竿の先に油を浸したボロ布を巻きつけ、蜂蜜を盗み食いしようと火を掲げて蜂群の中へ飛び込んだのである。

結果は、惨劇というほか生ぬるいものであった。

激昂した蜂の大群に全身を覆い尽くされ、彼は生きながら「人間の形をした巨大な蜂の巣」と化した。二人の老校工が命を捨てて濡れ綿布を被り、火焔の中に飛び込んで彼を引っ張り出したとき、彼の肉体は通常の倍近くに膨張し、眼球は腫れ上がった肉の隙間に埋もれ、水死体のように青黒く変色していた。

誰もがその死を確信していたが、彼は半年間の入院を経て、何食わぬ顔で教室に戻ってきた。そればかりか、体内に過剰な抗体が形成されたのか、素手で蜂の群れを掴んでも一切腫れ上がらないという異様な体質を獲得し、子供たちの間で「黄蜂人」という半ば畏怖を込めた渾名で呼ばれるようになったのである。

「あの時の悪ガキが、今はどうしているんだ」

私が尋ねると、男は懐かしそうに目を細めた。

「沂蒙山の奥で、蜂を飼ってる。中蜂(トウヨウミツバチ)だ」

「沂蒙山か。風光の美しいところだが、山が深すぎるだろう」

「ああ。深すぎる。……深すぎて、人に言えねえものばかりが溜まる場所だ。お前が済南に来てるってネットの告知で見てな、どうしても話を聞いてほしくて、バスを乗り継いで飛んできたんだよ」

私たちは近くの裏通りにある、羊肉の串焼きを炭火で燻す安酒場へと足を向けた。脂の跳ねる鉄板の煙と、アルコール度数の高い白酒の立ち上る湯気の向こうで、三十年ぶりの同級生は、山林の暗渠に沈んでいた奇妙な歳月を語り始めた。

第一章 追花奪蜜の流転と、石の肺

微山湖の小学校を這い出るように卒業したあとの彼の半生は、現代中国の最底辺を流れる出稼ぎ労働者(民工)の典型的な流転そのものであった。

兵役に志願するも身体検査で撥ねられ、江蘇省昆山の電子部品工場、広東省東莞の製靴工場、深圳の建設現場を転々とした。やがて山東省臨沂出身の女性と知り合って所帯を持ったが、工場の門前で開いた安売り雑貨店は地元のチンピラによる度重なる嫌がらせで立ち行かなくなった。

逃げ場を失った夫婦が辿り着いたのが、妻の実家がある沂蒙山脈の裾野であった。

そこは、春の桃や梨、初夏の棗、秋の荊条(タイワンニンジンボク)と、季節ごとに無数の野花が咲き乱れる山深い土地であった。少年時代のあの事件以来、蜂の針を恐れぬ皮膚を持っていた彼は、義父の手ほどきを受けながら、瞬く間に村でも有数の養蜂家へと成長していった。

「だがな、養蜂なんてものは、世間が思ってるような風流な稼業じゃねえんだよ」

男は白酒を一気に呷り、喉を鳴らした。

「世間の連中は『花を追い、蜜を奪う』なんて詩的なことを言うが、実際は泥棒と詐欺師の群れだ。以前、西洋蜜蜂(イタリア蜂)を飼って各地を移動していた頃は、地獄だった」

西洋蜜蜂は採蜜量が多く、繁殖力も旺盛だが、常に花の咲く前線を追ってトラックで中国全土を移動しなければならない。他省の村外れに陣取れば、夜陰に乗じて地元の農民が押しかけ、法外な「場所代」や蜂蜜の無償提供を強要する。断れば翌朝には蜂箱が蹴り倒され、最悪の場合は深夜に噴霧器で農薬を撒かれる。

一夜にして数百万匹の蜂が全滅し、全財産を失った養蜂家がその場で首を吊る光景を、彼は二度も目撃したという。

人間の悪意に底はない。疲れ果てた彼は移動養蜂を捨て、山東の山深くへ引き籠もる決断を下した。

外来種である西洋蜂を全滅させ、古来よりこの大陸の山林に自生してきた中華蜜蜂——中蜂へと切り替えたのである。

中蜂は寒暖の差に強く、山奥の微小な野草の蜜を丁寧に集める。採蜜量は西洋蜂の数分の一に過ぎないが、その蜜は濃厚で、野性の滋養を湛えた本物の百花蜜となる。大手企業のバイヤーや富裕層が直接買い付けに来るようになり、生活の糧は辛うじて安定した。

彼は沂蒙山の最も奥深い国有林の境界に、丸太とトタンで簡素な番小屋を建て、数百の蜂箱とともに一人で定住を始めた。

子供が進学のために県城(地方都市)の寄宿舎に入り、妻がその世話のために山を下りてからは、完全な孤独が彼の日常となった。

一ヶ月、二ヶ月と、人間の声を聞かない日々が続く。話し相手といえば、巣箱の前で羽音を唸らせる無数の蜂たちと、谷を渡る風、そして風化しかけた巨木ばかりであった。

「大草原や砂漠を旅する人間は、たまに出会う見知らぬ旅人を、自分の家族以上に手厚くもてなすって聞くだろう。あれは本当だ。山の中に一人でいると、人間が恋しくて狂いそうになる。

もし誰かが山を越えて小屋に来てくれたら、手持ちの蜜でも酒でも、何もかもくれてやりたくなるんだよ」

だが、彼が身を置いた沂蒙山の深部は、ただ静寂が支配するだけの自然ではなかった。

そこは、大地の皮膚の下に、近代の戦争の傷痕と太古の空洞が複雑に絡み合った、異様な磁場を持つ土地であった。

かつて一九六〇年代、中ソ対立の緊迫のさなかに推進された「大三線建設」。

沿海部の主要産業や軍需施設を内陸の山岳地帯へと疎開させたあの巨大な国家プロジェクトの残骸が、沂蒙山の深い谷あいに今なお黒々と口を開けていた。打ち捨てられた弾薬工場、蔦に覆われた兵舎、山腹を貫く無人の鉄道引き込み線。

ある夏の深夜、地鳴りのような重低音に叩き起こされた彼が尾根に登ると、誰も通らないはずの廃止された軍用道路を、黒い幌を被せた数十台の軍用トラックの車列が、ヘッドライトの光を細く絞ったまま、一言の会話もなく深山へと消えていくのを目撃したこともあった。

さらに、天の異変もあった。

ある酷暑の午後、青空が突如として墨を流したように暗転した。雨雲ではない。見上げると、何万、何十万羽という正体不明の野鳥の群れが、低空で激しく衝突し合い、空中戦を繰り広げていたのだ。

バタバタと頭上から無数の羽毛が降り注ぎ、山肌はまるで赤い斑点のある雪が降ったかのように埋め尽くされた。彼が小屋の軒先で息を殺していると、顔に生温かい滴が落ちた。指で拭うと、それは純粋な血であった。

鳥の群れは半日かけて互いを引き裂き合い、やがて嵐の去ったあとのように静まり返ったが、あの降り積もった血の羽毛の臭いは、数週間にわたって谷底から消えなかったという。

「山を歩き回るうちに、俺は地底に潜るようになった」

男は箸を止め、遠い目をした。

「沂蒙山の地下にはな、無数の鍾乳洞があるんだ。地元の古い話じゃ、昔の馬賊(土匪)が略奪した金銀を隠した洞窟があちこちにあるって言われてる。退屈紛れに松明を作って、地下の穴を這い回るようになったのさ」

地下の鍾乳洞は、外の酷暑を忘れさせるほど冷え切っていた。

無数の石筍と鍾乳石が林立する空間は、松明の赤い炎に照らされると、太古の宮殿のようにも見えた。水深の知れない漆黒の地底湖があり、突き出た巨石を飛び移りながら奥へと進むのが、彼の唯一の冒険であった。

そしてある日、その最深部において、彼は「大地の主」と遭遇したのである。

洞窟の奥へ進むにつれ、鼻を突く強烈な生臭さが立ち込めてきた。魚の腐乱した内臓と、硫黄の煙が混ざり合ったような悪臭。危険を察知した彼が腰のナタを抜き、慎重に後退しようとしたまさにその瞬間であった。

ズズズ……ドォォンッ!

頭上の岩盤が軋み、前方の地底湖に何トンもの巨岩が落下したような凄まじい水煙が上がった。

水面が激しく波打ち、底知れぬ暗黒の深淵から、巨大な「何か」が身をよじりながら浮上してきたのだ。

松明の頼りない光に照らし出されたのは、大人の胴回りほどもある、濡れた暗緑色の鱗の連なりであった。十数メートルに及ぶ巨躯。それは伝説にいう大蛇——あるいは、地下水脈の泥炭を吸って肥え太った「地龍」の類であった。

怪物が鎌首をもたげ、獲物を捕食せんと彼に向かって突進してきた瞬間、洞窟の天井を揺るがすような一喝が響き渡った。

「退けッ!」

声のした岩棚を見上げると、そこに一人の老人が立っていた。

頭頂に小さく結った髷、霜のように真っ白な長い髭、そして泥にまみれた麻の道袍。老人が虚空に向かって複雑な印を結び、喉の奥から地鳴りのような単音の呪言を発した瞬間、猛り狂っていた巨蛇の動きがピタリと停止した。

老人がさらに指先を湖水に向かって一振りすると、怪物は苦悶するように身悶えし、静かに水底の暗闇へと沈み、二度と浮上してこなかった。

恐怖のあまり腰を抜かしていた養蜂家が顔を上げたとき、その岩棚の上には、すでに老人の姿は影も形もなかったという。

第二章 石上の道人と、蜂蜜酒の問答

その老道人と再び相見えたのは、それからわずか数日後のことであった。

初秋の柔らかな陽光が降り注ぐ午後、男が番小屋の前で巣箱の掃除をしていると、林の小径からあの老人が、音もなく歩み出てきたのである。

陽光の下で見ると、老人の風貌は極めて痩身でありながら、その皮膚は赤子のようにきめ細かく、瞳の奥には水底の小石を透かして見るような清冽な光が宿っていた。老人は人懐こい笑みを浮かべ、男に向かって軽く拱手(両手を組む礼)を捧げた。

「蜂飼い殿。不躾ながら、そなたの飼う蜂を数匹、我が身に恵んではくれまいか」

男は呆気にとられたが、あの洞窟での命の恩人である。断る理由などあろうはずもなかった。

理由を尋ねると、老人は自らの麻のズボンを捲り上げて見せた。その両膝の関節は赤黒く腫れ上がり、骨の形がいびつに変形していた。

長年にわたり湿潤な鍾乳洞の奥底に籠もって座禅を続けた結果、重篤な風湿(関節リウマチ)を患い、天候が崩れる前夜には骨を万力で砕かれるような激痛が走るのだという。蜂の針に含まれる毒——アピトキシンが、頑固な血栓と湿気を散らす特効薬であることを、老人は経験から知っていたのだ。

男は手慣れた手つきで巣箱から最も元気な中蜂を数匹つまみ出し、老人の膝のツボ——陽陵泉と足三里へ、次々とその毒針を刺し込ませた。

蜂の針が肉を刺し貫くたび、老人は痛がるどころか、深く長い呼気を吐き出し、その眉間の皺を解いていった。

「おお……通る、通るぞ。天の火が骨を巡るようだ」

人里離れた深山で、思いがけず巡り合えた生きた人間。それも、人知を超えた術を使う奇人である。

孤独に飢えていた養蜂家は、歓喜して小屋から自家製の粗末な巻き煙草を取り出し、さらに山葡萄と百花蜜を発酵させて密かに仕込んでいた「蜂蜜酒」の壺を抱え出してきた。

老道人もまた、そのもてなしを拒まなかった。

「山風霽月(さんぷうせいげつ)も美しくはあるが、いささか寂しゅうてな。酒中の乾坤、山中の日月、これまた古意にかなう」

二人は切り株を卓代わりに、粗末な茶碗に琥珀色の酒を酌み交わし始めた。

問わず語りに老人が明かした素性は、世俗の尺度を遥かに超越していた。

老人は山中の洞窟で修行を続ける道徒であり、自らがこの山に入ってからどれほどの年月が流れたのか、正確な暦の計算すらとうに放棄していたという。

「道は寿を言わず」という言葉の通り、老人は自らの実年齢を語ることはなかったが、その口から漏れ出る地名や人名は、清朝末期の義和団の乱や、民国初期の軍閥の抗争の時代を、まるで昨日のことのように生々しく切り取っていた。

酒が進むにつれ、養蜂家は素朴な疑問を老人にぶつけた。

「なあ、道長(道士への尊称)。修行、修行ってみんな言うが、一体何を修めてるんだ? やっぱり、不老不死になるためなのか?」

老人は白髭を揺らしてカラカラと笑った。

「世人はみな、主客を転倒して捉えておる。長生を得るために修行するのではない。大道の真理を悟るにはあまりにも人間の生が短すぎるゆえ、より長く生き、より深く経文を究めるための時間を稼いでおるだけに過ぎんよ。

命そのものは、真理を盛るためのただの器に過ぎん」

「じゃあ、神通力はどうなんだ? あの洞窟で大蛇を退散させたような術を使えれば、現世で何不自由なく暮らせるだろうに」

「それもまた魔障(ましょう)よ」

老人は碗の酒を見つめ、静かに首を振った。

「初学の者はみな、雲に乗り、風を呼び、世俗の富貴と美色を意のままにすることを夢見て山に入る。だがな、修行の歳月が重なるにつれ、そうした神通や名利こそが、魂を現世の泥濘に縛り付ける最も重い鎖であると知るのだ。……そなたが蜂を飼い、深山に暮らす姿を見て、世間の者は『美しい自然の中で気ままな暮らしをしている』と羨むであろう。

だが、真冬の寒風に凍え、農薬やダニに怯え、孤独に苛まれる真の苦しみは、そなた自身しか知らぬ。我らの修行も全く同じよ。奇跡を見せることなど誰にでもできる。

真の修練とは、そうした幻影のすべてを削ぎ落とし、世界の『真の相(すがた)』を見極めることにあるのだ」

「世界の真の相……?」

養蜂家は首を傾げた。「俺たちが生きてるこの世界は、嘘っぱちだって言うのか?」

「偽りではない。だが、それは広大無辺なる全体のうちの、ほんの一つの断面に過ぎん」

老人は酒碗を置き、庭先で群れ飛ぶ蜂の巣箱を指差した。

「蜂飼い殿。そなたに問うが、蜂の群れはどう分かれておる?」

「そりゃ、女王蜂(蜂王)と、働き蜂(工蜂)と、雄蜂(雄蜂)だ」

「では、女王蜂と普通の働き蜂の間に、生まれつきの血筋の違いはあるのか?」

「ねえよ」男は即座に答えた。「生まれたばかりの卵は全部同じだ。孵化してから最初の三日間だけローヤルゼリー(蜂王漿)を与えられた幼虫は、ただの働き蜂になって、せいぜい五十日しか生きられない。

だが、一生涯ローヤルゼリーを腹一杯食わされ続けた一匹だけが、巨大な女王蜂になって、毎日何千個も卵を産んで、九年も十年も生き長らえるんだ」

老人は深く頷き、目を細めて養蜂家を見据えた。

「では……どの幼虫にローヤルゼリーを与え、どれを女王にし、どれを五十日で死ぬ働き蜂にするのか。それを決めているのは、一体誰だ?」

養蜂家は自らの胸をドンと叩いた。

「俺だよ。俺たち養蜂家が、人口王台(女王蜂を育てるための人工の巣房)を作って、そこに幼虫を移すんだ。俺の指先一つで決まる」

「そうだ」

老人の声は、低く、静かに澄み渡っていた。

「蜂の世界において、そなたは彼らの寿命と役割を意のままに支配する絶対者……すなわち『神』に他ならん。では、その蜂たちは、自らの運命がそなたという一個の人間によって定められておることを、知っておると思うか?」

男の言葉が詰まった。

巣箱の周囲を飛び交う無数の黒い点を見つめる。

彼らは自らの意志で朝露を浴びて飛び立ち、花の蜜を吸い、六角形の巣房を築き、子孫を育てていると信じ切っているはずだ。自らの生が、頭上から差し込まれる巨大な人間の手のひらによって、最初から規格化され、操作されていることなど、夢にも思っていない。

「……知るわけがねえよ。奴らにとっちゃ、俺はたまに巣箱を開けるただの巨大な影か、天変地異みたいなもんだ」

老人は寂しげに微笑み、自らの杯に酒を注ぎ足した。

「私が何百年ものあいだ山に籠もり、骨を軋ませて座禅を組み続けておる理由も、まさにそこにある。……私はな、この私自身の運命を決定しておる『飼い主』の姿を、一目見たいのだよ」

第三章 崖上の童女と、萎みゆく皮袋

その問答ののちも、老道人は折に触れて番小屋を訪れた。

ある時は山奥の険しい断崖にしか自生しない、赤く熟した見たこともない野果を布に包んで持参し、ある時は男が仕込んだ蜂蜜酒を静かに酌み交わした。

洞窟で遭遇した大蛇を退散させた術について男が尋ねると、老人は「あれは動物が本能的に恐れる周波数の音を、丹田の気を共鳴させて喉から放っておるだけに過ぎん」と事も無げに語り、身体の気脈が通じていない常人には決して発音できぬものだと笑った。

平穏な山林の歳月が、風のように流れていった。

だが、その調和が破られたのは、ある春の盛りのことであった。

北京の著名な大学の生物学研究室から、教授一名と二名の大学院生で構成された学術調査団が、沂蒙山の野生植生と昆虫相の調査のために山に入ってきたのである。

人里離れた深山に宿泊施設などあろうはずもなく、調査団は男の番小屋を拠点として借用し、昼は山林を分け入って標本を採集し、夜は小屋のランプの下で記録を整理する日々を送るようになった。

二人の大学院生のうち、一人は黒縁の眼鏡をかけた沈着な青年であった。

そしてもう一人は、まだ二十代前半の、世俗の垢を知らぬ花のように愛らしい容貌をした女子学生であった。彼女は都会育ち特有の無邪気な好奇心に満ち溢れ、野に咲く名もなき草花を見つけるたびに歓声を上げ、養蜂の作業を子供のように目を輝かせて見つめていた。

調査団が小屋に滞在して数日が過ぎた夕暮れ、男は山道で偶然出会った老道人に、何気なく客人の話をした。

「北京から若い学生たちが来ててな。特に女の子の方が、利発で、まるでお人形さんみたいに跳ね回るんだよ」

男の言葉を聞いた瞬間、老道人の足が止まった。

老人はその場に立ち尽くし、右手の指先を激しく弾くようにして筮竹の代わりの暗算(掐指占卜)を始めた。

その顔から、かつて見せたことのない激しい動揺と、底知れぬ哀傷が波のように押し寄せては引いていった。

やがて老人は、天を仰いで長く、重い溜息を吐き出した。

「……何世を巡り、何百年の星霜を待ったことか。ついに……ついに、彼女が来たのか」

男は何のことか分からず眉をひそめたが、老人は自らの腰から、手擦れして黒光りする古い酒瓢箪を外して男に押し付けた。

「蜂飼い殿。今宵、最後の酒を付き合ってはくれまいか。おそらく……もう二度と、そなたと杯を交わす機会はあるまい」

ただならぬ気配に呑まれた男は、小屋から少し離れた切り立った断崖の巨石へと老人に伴われた。

老人は普段の抑制された飲み方とは打って変わり、瓢箪の蜂蜜酒を狂ったように喉へ流し込み続けた。

夜霧が山肌を白く染め上げ、冷たい風が二人の服を揺らす。

老人は酒を飲み干すと、崖下の岩棚に腰を下ろし、両足を結跏趺坐(けっかふざ)に組み、目を閉じて深い呼吸の波の中へと沈んでいった。

夜が明け、朝の陽光が谷底を満たし始めた頃。

男は崖の傍らで、前夜から放置されていた空の巣箱の掃除をしていた。

ふと、頭上の尾根から、鈴を転がすような明るい少女の声が響いた。

「おじさーん! おはようございます!」

見上げると、あの北京の女子学生が、崖の上の小径に立っていた。

彼女の両手には、朝露に濡れた野生のツツジの花束が抱えられていた。朝日に照らされたその笑顔は、この世の陰惨な因果とは無縁の、無垢なる輝きに満ち溢れていた。

男が手を振り返そうと口を開いた、まさにその刹那であった。

ザザッ……。

昨夜の雨で緩んでいた崖っぷちの赤土が、彼女のスニーカーの靴底の下で音を立てて崩落した。

「あっ……!」

短い悲鳴。

少女の身体はバランスを失い、十数メートルの断崖絶壁を、まるで折れた小枝のように真っ逆さまに滑落してきたのである。

男の心臓が凍りついた。落下地点の真下には、鋭利な岩棚と——あの座禅を組み続けていた老道人の無防備な背中があった。

ドスンッ!!

鈍く、重い衝突音が谷間に木霊した。

少女の身体は、奇跡的にも、座禅を組んでいた老人の真上へと落ち葉のように激突した。

地面の岩に直接叩きつけられることを免れた彼女は、擦り傷と打撲を負いながらも、奇跡的に骨折すらなく息を荒らげていた。

だが——彼女の下敷きとなった老人の姿を目にした瞬間、養蜂家の喉から、言葉にならない絶叫が漏れ出た。

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